カエルだ。カエルがいる。意味分からんと思われるだろうけど、マジで言葉の通りなのだ。カエルがテーブル席に座っている。
「いつからいんの? アレ」
姉に小声で問いかける。一度は落ち着いた姉も、カエルの姿を見て再び恐怖心が押し寄せたのだろう。俺の背後に隠れるように立っていた。
「もう30分くらいになるんじゃないかな。言葉もろくに喋らないでずっとあんな感じ」
正確にはカエルの被り物を身に付けた人間。首から上にかけてすっぽりとカエルのアニマルマスクで覆われている。頭はカエルなのに服装は皺ひとつない高そうなダークグレーのスーツ。この上下のアンバランスさが余計に気味悪さに拍車をかけていた。
「確かにメシ食いにくる格好じゃないわ。どうやって食うんだよっていう……口元隠れてんじゃん。何かのコスプレとかなのかな」
カエルのテーブルには飲み物だけが置かれていた。手を付けるつもりはないようで、腕組みをしてそこに座っているだけ。マスクのせいで表情はおろか、どこを見ているのかすらも分からない。
更にこのカエル……恐らく男なのだろうが、服の上からでも体格の良さが分かる。スポーツか、もしくは武芸のようなものをやっている可能性があるな。万が一暴れられたら、俺だけでは取り押さえられないかもしれない。今のうちに警察に連絡しようか……いや、それは焦り過ぎだ。
「ばあちゃんはなんて?」
「最初は私と同じで驚いてたけど、飲み物を頼んだ後はああやって座ってるだけだから……もうあんまり気にしてないみたいで……」
「嘘だろ、ばあちゃん。肝据わってやがる」
祖母はカウンター席にいる他の客の対応をしていた。まるでカエルの存在を忘れてしまったかのような普段通りの仕事振りだ。
「ただのコスプレだとしても、場所を考えて欲しいわ。周りのお客さんも怯えてる人いるし……」
姉の言葉で気が付いた。カエル男の近くの席に座っている客たちは完全に萎縮してしまっている。談笑もせずに黙々と食事をして、早くこの場から立ち去ろうしているのが分かる。
服装なんて着る者の自由かもしれないが、ここは食事をする場所である。料理を頼むわけでもなく、他の客に迷惑だけをかけるのなら営業妨害だ。
「俺ひと言注意してくるわ。店の中で被り物はご遠慮下さいって……」
「えっ、ちょっとやめなよ。もう警察に任せよう」
「警察は待って。現時点でカエルのマスク被ってるだけだからさ。俺が注意して逆ギレでもするようなら連絡してよ」
ガタイのいいカエル頭の男……正直ちょっと……いや、かなり怖い。でも話せば分かる人かもしれない。俺は意を決して厨房から店内に向かおうとした。その時だ。
「あっ!!」
姉と俺は揃って声を上げてしまう。
カエル男が椅子から立ち上がったのだ。カエルの顔が厨房を……俺たちがいる所を見ているような気がして背筋がぞわりと震えた。
蛇に睨まれたカエルという言葉があるが、カエルに睨まれて縮こまることになるなんて……貴重な経験をしたかもしれない。目線が分からないから実際に睨んでいたかどうかは定かじゃないけど。
結局俺はカエル男に物申すことはできなかった。カエル男は席から離れると、祖母のいるカウンターの方へ向かったのだ。特におかしな行動をするわけでもなく、飲み物の代金を払ってそのまま店から出て行った。
カエル男がいなくなった途端、店内のあちこちから安堵の溜息が上がっていた。俺もほっと胸を撫で下ろす。姉は緊張が緩んで腰が抜けたのか、その場に座り込んでいた。
「大人しく帰ってくれて良かった……ありがとう、透」
「俺なんにもしてないですけどね」
「側にいてくれるだけで心強かったよ」
姉に感謝されて照れ臭くなり、顔を背けてしまった。子供っぽい反応をする俺を見て姉は笑っている。謎のカエル男襲来でどうなることかと思ったが、大事にならなくて本当に良かった。異様な空気が漂っていた店内も、徐々にいつもの穏やかさを取り戻していく。
あのカエル男は何だったのだろう。料理屋に入っておきながら食事をせずに帰ってしまった。カエル男の座っていたテーブル席には、奴が唯一頼んだ飲み物が手付かずの状態で残されている。
「飲まないなら頼むなよな……もったいない」
何も注文しないで席に座ることを悪いと思ったのだろうか。あの風貌でそんな気遣いをしていたというのも違和感を覚えるな。
カエル男が注文していた飲み物は『梅昆布茶』だった。渋いチョイスだ。いや、美味しいけどさ。
カエル男が噂の不審者の正体だったのだろうか。街中でもあの格好でうろついていたのなら目立つし、当然の成り行きだろう。
できればもう二度とうちの店には来て欲しくない。大きな問題を起こしたわけではないけど、顔を隠している人間と対峙するのは思っていた以上に恐怖を感じたのだ。
ちょっと変わったコスプレイヤーだったというオチかもしれないけど、警戒するのに越したことはない。姉を怖がらせたくはないからな。
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