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窓の外
沈みゆく陽が
部屋に琥珀色のヴェールを掛けていた。
その静寂の中で
病に伏した少女の呼吸が
ゆっくりと穏やかになっていく。
レイチェルの体温は
ほんの少しだけ戻ってきていた。
潤んだ瞳にはまだ熱の名残があるが
それでも微かに笑みが浮かぶほどには
落ち着きを取り戻している。
時也は、そんな彼女をそっと引き寄せた。
背に腕を回し、頬を寄せ
まるで壊れものを抱くように、静かに──
しかし確かに、彼女を抱き締めた。
「大丈夫⋯⋯大丈夫ですよ⋯⋯」
柔らかな言葉が、レイチェルの耳元で響く。
それは祈りのようでもあり
自らに言い聞かせる呪文のようでもあった。
レイチェルの肩が
ふるふると微かに震える。
だが、それは恐怖でも絶望でもなく
緊張の解けたあとの、安堵の震えだった。
時也の指が
彼女の黒髪をゆっくりと撫でる。
優しく、まるで子供をあやすように──
否、それは同時に
自分自身を抱きしめ、癒す仕草でもあった。
この腕の中にある温もりが
彼女の命であることに感謝しながら。
この腕の中で
再び正常に動き始めた心音を聞きながら。
「⋯⋯何か、食べられそうですか?」
囁くようなその問いは
部屋の空気をそっと揺らす。
自分の想いより、彼女の欲を優先させるのが
時也という男だった。
「お望みのものがあれば⋯⋯
腕によりをかけて作りましょう」
レイチェルはゆっくりと瞼を開けた。
瞳はまだ霞んでいるが
その奥に確かにあるもの──
それは、信頼だった。
「時也さんの⋯⋯お味噌汁、食べたいな」
かすれた声で
それでもはっきりと告げる。
「今でも⋯⋯
初めて〝お味噌〟って調味料の
味を知った時の衝撃が忘れられないもの」
弱々しくも笑みを浮かべるその姿に
時也も穏やかな笑みで応えた。
「ふふ⋯⋯懐かしいですね。
あの日のこと、よく覚えていますよ。
確か、最初は不思議そうな顔で
ずっとスプーンを止めて⋯⋯」
「⋯⋯うん。
味噌の香りって⋯⋯
こんなにも深いのかって、びっくりして」
「えぇ、あの時の表情⋯⋯
思わず、僕も笑ってしまいましたから」
二人だけにしか通じない記憶が
そっと流れ込んでいく。
そこには、病や菌の影など微塵もなく──
ただ、穏やかで静かな、温もりがあった。
「では⋯⋯
今日は、消化の良い具材を選んで
お味噌汁と、優しい味のお粥を
お持ちしましょう」
彼の言葉は
まるで処方箋のように、優しく効いてくる。
レイチェルは瞼を閉じ、小さく頷いた。
「ありがとう⋯⋯時也さん⋯⋯」
時也は、そっとベッドから身体を離した。
立ち上がりながら
レイチェルの額に手を添え
指先で熱を測る。
「──うん、少しずつ下がっていますね。
よかった。
それまで、ゆっくりしていてくださいね。
すぐに戻りますから」
そう告げると
彼はそっと室内のカーテンを引き
柔らかな夕陽が
差し込み過ぎないように遮った。
そして、再び一礼するように頭を下げてから
扉の前で足を止め──
振り返り、静かにもう一度微笑む。
その笑顔は
かつて雪音のために交わした誓いと
今レイチェルを生かすために成した覚悟とが
静かに重なるものだった。
──音もなく、ドアが閉じられた。
室内には、再び静寂が戻る。
レイチェルはその静けさの中で
瞼の裏に微かに残る
時也の体温を思い出しながら──
ゆっくりと、安らかな呼吸を整えていった。
⸻
時也がリビングから階下へと降りると──
ガタリ、と
音を立てて立ち上がる影が二つ。
ソーレンとアビゲイルだった。
二人の瞳は、まるで刃のように真っ直ぐに
時也を射抜いた。
「レイチェルの様子は──!?」
ソーレンの声は
普段の低く抑えたものではなく
焦燥を滲ませていた。
アビゲイルも唇を固く結び
ただ無言で時也の言葉を待っている。
時也は、小さく息を吸い、そして静かに──
けれど誠実に頭を下げた。
「彼女には、少々酷な事をしてしまい
先ずはお詫びいたします。
僕に擬態させることで、植物の異能を通し
微細菌との共生を促しました。
今は回復傾向にあります。
先ほど、食欲があると仰ってましたので
食事を作りに降りてきた次第です」
その言葉に
二人は同時に深い安堵の息を吐いた。
ソーレンは腕を組みながら目を伏せ
アビゲイルは胸元をぎゅっと押さえて
小さく頷く。
「念の為
まだお部屋には入らないでくださいね。
菌が完全に落ち着いたわけではありません」
「⋯⋯⋯わぁったよ」
ソーレンが短く返す。
その声音は
悔しさと信頼の狭間で揺れていた。
時也はリビングを抜け
裏庭へと歩を進めた。
風は穏やかで
草葉を撫でるたびに微かな音を立てる。
夕陽の残滓が花壇を照らし
茜と金色がまだらに混ざる庭は
静寂と生命に満ちていた。
(蕪に長葱のお味噌汁⋯⋯蕪の葉はお粥に。
これなら、栄養価も高く
葱の殺菌作用もあって身体にも優しい)
そう思案しながら足を進めたその先──
植え込みの縁に腰を下ろしていたのは
青龍と、虫の異能を宿した青年だった。
その青年は、褐色の肌に鉛白の髪。
蘇芳色の瞳が
時也に気付いてゆっくりと振り返る。
「おや⋯⋯こちらに居られましたか。
ご気分は、いかがですか?」
問いかけながら近付いた時也に
しかし彼は一言も発さず
視線だけを花壇の花々に落とした。
指先を伸ばしては
咲いたばかりの小花にそっと触れている。
まるで
声なき生き物たちと会話しているように。
(人間が⋯⋯苦手なのですね)
時也はその背中に
自分の過去を重ねていた。
そしてその心を
青龍もまた敏く察していたのだろう。
幼子の姿のまま、彼もまた
言葉を差し挟むことなく黙して佇んでいた。
時也は少し離れた場所にしゃがみ込み
ふかふかと耕された
まだ何も植えられていない花壇の黒土に
手を翳す。
呼吸を整え、掌から静かに力を流し込む。
すると、どうだろう──
地中が微かに震えたかと思うと
そこから目覚めたように
瑞々しい蕪と、青々とした長葱が
すっと地表を突き抜けて芽吹き
みるみる成長していく。
一瞬
その場の空気が止まったようだった。
青年の目が大きく見開かれ
口を少し開いたまま
成長していく野菜たちを見つめていた。
その姿は
子供が初めて光景を見た時のように
純粋だった。
「この庭のものは、僕が育てたんですよ」
時也は土を撫でながら
柔らかな声で語りかける。
「お気に召していただけましたか?」
青年は何も答えなかったが
花から視線を外さず、小さく──
けれどはっきりと頷いた。
「僕も、貴方と同じく異能を持っています。
ここに居る方、皆がそうです。
誰も貴方を忌み嫌うことなどありません」
──だが、その時。
心の奥から、風のような拒絶が
時也の感覚を掠めていく。
(⋯⋯それでも、人間は嫌いだ)
無言の叫び。
だが、それは責めるべきものではない。
その心を生み出したのは
いつだって人間側の業なのだから。
時也は静かに笑った。
「人間は⋯⋯確かに醜い生き物です。
自分と違うものを異端とし、恐れ、傷付け
心には欺瞞を飼い慣らしている」
青年の耳が、微かに動いた。
言葉を拒絶してはいない。
ただ、言葉の行方を見守っている。
時也は手際よく、土から蕪と長葱を抜き
根を払って籠に収める。
その動き一つにも、丁寧さが滲んでいた。
「自然は、お好きですか?」
問いに、少し間が空いた。
だが、ぽつりと──
「⋯⋯好きだ」
初めて、彼の声を聞いた。
その声は低く掠れ
けれどどこか温もりを含んでいた。
言葉を発することに
きっと長く怯えていたのだろう。
時也は微笑を深め、そっと返す。
「僕は、自然と人間は似ていると思います。
護る時もあれば、育む時もある。
けれど──
時に理不尽な暴力で命を奪うこともある。
違いがあるとすれば
意思があるかどうか、それだけです」
青年は、黙ったまま
収穫される葱を見つめていた。
けれど、その頬に当たる夕陽が
どこか穏やかに見えたのは
気のせいではなかった。