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時也は、収穫したばかりの
蕪と長葱を籠の中に優しく並べながら
土を払う指先を止めた。
目の前で蹲るように花壇を見つめる青年──
無言のまま、褐色の手を土に沈ませ
虫たちと同じ呼吸で
庭と一体となるように佇む彼を見つめて
時也はふと、過去の自分を思い出していた。
(あの頃の僕も、彼と同じだった⋯⋯)
背負いきれぬ読心の能力に心を蝕まれ
口を開く全てが
偽りに見えたあの頃の自分を──
「僕も、貴方ぐらいの頃は⋯⋯
人間が嫌いで仕方なかったんです」
静かに、風に解けるように漏らす声は
どこまでも穏やかで
どこか哀しみを含んでいた。
「誰も彼も⋯⋯
嘘の塊にしか見えませんでした。
〝優しさ〟も〝善意〟も〝思いやり〟も⋯⋯
裏切られる前提で
近寄ってくる様にしか思えなかったんです」
時也は目を伏せ、ふ、と笑った。
「だけど──
今は、少しだけ
人間というものを愛しく思えます」
彼の視線は、再び少年へと向けられる。
その眼差しには
嘘偽りのない光が宿っていた。
「僕をそう思わせてくれたのは、彼女──
アリアさんや、仲間たちのおかげなんです」
ふと、蘇芳の瞳が動いた。
時也の言葉が
確かに心のどこかに届いている事が分かる。
「だから、いつか貴方にも──
〝この世界に居てもいいかもしれない〟と
そう思える切っ掛けが
訪れるかもしれませんね」
その言葉に、少年は何も返さなかった。
けれど、顔を背けるでも、拒むでもなく
ただ黙って受け入れていた。
それだけで、十分だった。
時也は、そっと膝を立て
籠を抱えて立ち上がる。
「ふふ。
蕪も葱も作り過ぎてしまいましたね」
彼は籠の中身を一瞥し、楽しげに微笑んだ。
「これから、夕食を作る所なのですが──
良ければ、食べて手伝って頂けませんか?」
そう告げたときの時也の声音には
誘うというよりも
〝一緒に生きよう〟と語るような
柔らかく深い響きがあった。
夕陽が傾く庭に
時也の影が長く伸びていく。
時也は、後ろを振り返らず
ゆっくりと扉の方へと歩を進める。
すると、控えめに足音がもう一つ
あとを追った。
時也は振り返らないまま
ほんの少し、目を細めて微笑む。
(ありがとう⋯⋯)
声に出すことはなく。
けれどその想いは
空気に溶けるように
背後に静かに届いていた。
⸻
「どうか、作ってる間⋯⋯
テーブルに座って、お待ちください」
リビングへの扉を静かに開け
時也は柔らかな声で促した。
その声音には、命令でも指示でもなく
ただ一つの気遣いが込められていた。
しかし青年は
ちらとリビングに目を向けた瞬間
わずかに眉を顰めると、すぐに顔を背けた。
そして
無言のままキッチンへと向かう時也の背に
まるで本能のように引き寄せられるように
ついていく。
彼が選んだ居場所は、キッチンの隅──
観葉植物の鉢の隣だった。
しゃがみ込むようにそこに腰を下ろすと
長い脚を折り畳み
壁に背を預けて蹲る。
(まぁ⋯⋯
リビングには
不機嫌な顔のソーレンさんが居ますしね)
内心で時也は苦笑する。
普段から険しい顔の男が
病にふせる恋人を心配している時の表情など
他人から見れば睨んでいるようにしか
見えないだろう。
事情を知らぬ者にとっては──
あまりに威圧的すぎた。
時也は静かにキッチンのシンクへ向かい
先程収穫したばかりの蕪と長葱を
丁寧に洗い始める。
泥を落とす指先は優しく
それでいて躊躇いのない流麗な動きだった。
蹲る青年に向けて
ふと、時也は声をかける。
「そういえば⋯⋯
名乗っていませんでしたね。
僕は、櫻塚時也と申します。
よければ、貴方のお名前を伺っても
よろしいですか?」
決して視線を向けず
まるで何気ない会話のように──
包丁で蕪の皮を剥くリズムと共に
淡く言葉を紡いでいく。
青年は、瞬間だけ肩を震わせた。
──名乗る、という行為。
それは、自らの存在を肯定すること。
名を告げるという事は
自分がここに〝居る〟と
証明する行為に等しい。
口を開くのに、しばしの沈黙があった。
だがやがて、空気を掻き混ぜるように
乾いた声が小さく漏れた。
「⋯⋯エルネスト⋯⋯
エルネスト・ミルミドン⋯⋯」
名を紡ぐその声音は
壊れやすい硝子のようだった。
だが確かに
彼の中にある勇気の欠片が
そこには宿っていた。
「誠実な響きの、良いお名前ですね」
時也は包丁を置かずに言葉だけを返す。
媚びるでも、褒めすぎるでもなく──
ただ、丁寧に。
「エルネストさんは、おいくつなんです?」
再び少しの間が空く。
エルネストは自分の指に這わせていた
一匹の蟻を、そっと手の甲へと移動させた。
その目は蟻ではなく
鉢植えの揺れる葉の先端を
ぼんやりと追っていた。
「⋯⋯十九」
やはり、彼の声には震えがあった。
だがそれは、恐怖ではない。
〝人と話す〟という行為に
彼がどれほど不慣れであるか──
それだけのことだった。
時也はそれを理解し
余計な言葉を挟まなかった。
代わりに、出汁を取るための昆布を水に浸し
火を点けた鍋の前に立つ。
(名乗るということは
ここに存在しているという意思の表れ⋯⋯)
彼の中で、静かにそんな想いが揺れる。
数分後、蕪の葉が刻まれ、柔らかな香りが
室内を包んでいく。
湯気がふわりと立ち昇り
その湿度が、空気を少しだけ柔らかく変えた
その時だった。
エルネストがゆっくりと顔を上げた。
無表情に近いその横顔に
ほんのわずかに灯るものがある。
好奇心か、懐かしさか──
それは、彼自身にも分からない。
けれど、初めて
〝他人の家庭〟というものに
身を置いたその場所は
彼が思っていたよりも──
ずっと静かで、あたたかかった。
鍋の沸騰音、包丁の音
木のまな板を打つリズム
そして部屋を満たす
湯気と土と野菜の匂い。
彼の膝に、いつの間にかカナブンが一匹
舞い降りていた。
エルネストはそれに気付くと
まるで小さな子供のように
指先でそっと触れる。
温もりのある世界だった。
ここだけは──
ほんの少し〝居てもいい〟のかもしれない。
そんな錯覚に包まれながら、彼は壁にもたれ
再びゆっくりと目を閉じた。
そのまぶたの裏に映るのは
温かな蒸気に揺れる
〝暮らし〟という名の──
遠くて近い幻だった。