「円。おはよう」
ベッドのうえで眠る円に声をかける。うにゃうにゃ言いながら円は、「ママ、おはよう」と挨拶を返す。寝る時間を早めにしたので以前よりも朝の支度がスムーズに行えるようになった。ママと布団ではなく、ひとりでベッドに眠れるようになった。この二年で最も変化した部分だ。
田原円という漢字も書けるようになった円。朝の支度を手早く終えると円は学校、わたしは会社へと向かう。外から見ると笑っちゃうくらいのボロボロのアパート。でもわたしは……満たされている。
いつか、彼が、迎えに来るから。
あれから夫とはすぐに離婚した。いや、元夫というべきか。しなければ、会社に不貞の証拠を送り付けると脅した。前に、夫と美冬のやり取りを携帯のカメラで撮っておいたのが功を奏した。もし露見したら、課長職である彼は、職を失うとまではいかないだろうが、なにかしらのペナルティが課せられるに違いないから。――よって、紘一は渋々ながらも離婚に応じた。
マンションは売却し、別々に暮らすことになった。当然ながら円を引き取るのはわたしだ。学校など住環境を変えたくないゆえ、駅近くでよく見かけた、ぼろぼろのアパートに引っ越すこととなった。1LDKだが、部屋は円の高級ベッドと机で占められており、わたしはこたつテーブルにパソコンを置き、食事のときだけどかしている。なかなかに不便だ。とはいえ――失ってみると自分はなにをこだわっていたのかと思える。毒が抜けたみたいに、貧乏な生活はすがすがしい。セレブちっくな美容室へは通い続ける、だがシャンプーは市販の安価なものを使う。スキンケアも美容液だけ高いのを使い、以外はリーズナブルなものにした。見たところ円も、順応している。――子どもは、馬鹿ではないのだ。ママが無理していたのを分かっている。
さて。いつも通り仕事を終えると帰宅する。円は、ひとりでお留守番をするようになった。ママママだった我が子が……こうして子どもは手を離れて行くのだな、と思う。感慨深いものがある。ひとりで――生きていくのだ。お互いに。
わたしがするべきことは円に執着することや縛り付けることではなく、ひとりで生きていけるよう、しっかりと愛を与えてやることだ。だから、わたしは毎晩円を抱き締める。円ちゃんだーいすき、と伝え、円は微笑んで「円もママだーいすき」と答えてくれる。ところが円は最近好きな男の子が出来たらしく、ママが一番ではなくなったそうだ。悲しい……けども、こうして子どもは成長していくのだ。我が子の初恋をあたたかな眼差しで見守ろうと思う。この狭い部屋はわたしたちの愛であふれている。
円が眠ったあとは、携帯で各種小説賞をチェックする。もしかしたら。もしかしたら……という期待を抑えきれない。この二年のあいだ、ずっとずっと探し続けてきた。不毛かもしれない、と思いつつも、でもわたしはサーチをやめられない。
「……あった」
ある賞を――奥村冴子が受賞していた。どうやら漫画化されるようだ。荒木としては小説の賞を受賞したかったであろうに……ともあれ喜ばしい結果だ。二作品も出版するとなれば、それなりに知名度もあがるはず。――こころ踊る感覚とともに、わたしは布団に入った。円への――それから荒木へのあふれる情愛を抱き締めながら。
* * *
その週末。わたしは滅多に行かないカフェに顔を出した。――いた。
「あっみふゆちゃーん」会うのは二年ぶりだが円は覚えているようだ。「みふゆちゃん。このカフェで働いているの?」
「美冬さんはこのカフェのオーナーなのよ」美冬の代わりにわたしが答えた。店員に向けて、「ブレンドと、ミルクティーを」
奥で立っている美冬は曖昧に微笑むばかりだ。紘一と美冬がどうなったのか……知る由もない。興味もない。が、結婚指輪をネックレスのペンダントトップにしている辺り、新谷という男との結婚生活を続けているのだろう――と思う。
「それじゃあわたしは」と頭を下げ、「さよなら」と美冬に告げる。このカフェに来た目的、それは――。
番号札を受け取り、円とカウンター席に並んで座る。ここは――荒木と出会った思い出の場所。彼との思い出が詰まっている。
「――お待たせ……。あっちゃん」
見れば、真っ赤な薔薇の花束を手にした荒木が、すぐそこに立っていた。
荒木は、みるみる表情を崩すわたしにかけて微笑みかける。「二年もかけちゃって。ごめんね。一応小説家としてやっていけることになったから……迎えに来たよ」
――もう、わたしは、ただの女と化した。荒木の胸に抱きつき――思い切り泣いた。この姿をいったいどんな気持ちで美冬は見つめているだろう……と思うと胸のすくような思いがした。それよりいまは荒木だ。彼以外――なにも見えない。
「それから……プレゼントがもうひとつあるんだ」荒木はポケットから小箱を取り出し……それは、明らかに、指輪が入っていると思われるケースだ。「受け取って欲しい」
荒木は、小箱を開いた。そこには――純然たる未来が、輝いていた。
「田原篤子さん。ぼくと……結婚してください」
人目をはばからず号泣した。そんなママを心配して、円が駆け寄ってくる。ママ、大丈夫? と……。
わたしは円に向けて、「このひと……荒木英雄さん。ママの、二番目に好きなひとだよ」
「円がしんちゃんを好きなくらいに好きなひと?」
すべらかな頬を撫でわたしは答えた。「そうだね……。これからは、三人、一緒だよ……」
外を見れば随分と天気が良かった。晴れ渡る空が、わたしたちの運命を祝福するかのように、広がっていた。
―了―
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