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◇ ◇ ◇
飛行機の窓から見える風景は、青い空の下、雲がどこまでも海の白波のように広がっていて、昔見たアニメみたいに好きな人と手を繋げば歩いて行けるような気がした。
そんな幻想的な景色とは裏腹に、流れてきた機内アナウンスは、目的地東京はあいにくの雨模様だと告げている。
隣りの席で、穏やかな寝息を立てている愛理から視線を外し、翔は自分の手の中にあるスマホの写真アプリを開く。
スマホの画面に映る写真。そこには寄り添う男女の姿が映っている。それを食い入るように眺め、怪訝な表情で眉頭を寄せた。
翔は気持ちを整えるように息を吐き出した後、愛理の肩へ手を伸ばし、軽く揺する。
「愛理さん、愛理さん。もうすぐ着陸するよ」
「ん、ごめん。翔くんが、せっかくアップグレードして隣り合わせにしてくれたのに……。私、眠ちゃたんだね」
「いいよ。疲れていたんでしょ。おかげで愛理さんの寝顔を観察できたから」
と言って、翔はいたずらな瞳を愛理に向けた。それに反応して、愛理の顔がみるみる赤く染まる。
「やだ、そんな恥ずかしいこと言って、からかわないで」
「子供みたいで可愛かったよ」
「もう! 年上のアラサーに可愛いとか無いんだから。あっ、福岡のメシテロ写真見せるって約束だったよね。コレ、いちごがすごいでしょ」
愛理はスマホをタップして、太宰府へ行った時に撮影した写真を翔に見せた。
その1枚1枚の写真を丁寧に眺めた翔は、「コレ、美味しかった?」とか「オレも食べてみたい」と感想を言い。
愛理の写真が、自撮り撮影ばかりで、あの男の影が無かったことに翔はホッとした表情を見せ、最後にひと言付け加える。
「オレも福岡で撮った写真があるんだけど、後で愛さんに見てもらいたいんだ」
「後でなんて、今見せてくれないの。 もったいぶってナニ?」
「ちょっとね。今は言えないんだ。あとで、必ず見せるからね」
と言って、翔はシートベルトを気にするように何気なく視線を落とす。
やがて、飛行機は着陸態勢に入り、羽田空港に到着する。
南ウイングの到着ロビーで、翔は愛理の荷物を預かろうと手を差しだした。
「オレ、駐車場に車停めているんだ。家まで送るよ」
”家に帰る”そう思うと愛理の背筋にスッと冷たいものが走る。
あの汚れてしまった家に帰って、美穂が寝ていたベッドで自分が寝なければいけない。それが、いよいよ現実のものになるかと思うと、気持ちが落ち込み急に足が重く感じられた。
「リムジンバスあるから……」
すぐに帰りたくない気持ちが、遠回りのコースを選ばせる。
「ほら、天気も悪いし、キャスターバッグ持ってだと大変でしょ」
放っておけない様子の愛理から、翔は半ば強引に荷物を受け取った。
愛理は諦めたように力のない声でつぶやく。
「うん、ありがとう……」
「どうしたの? 何か心配なことでもあるの?」
翔から心配そうな顔を向けられて、家に帰りたくない理由を淳の弟である翔に言っていいのか、愛理は判断がつかずに視線を彷徨わせる。
「あの……途中で買い物できる店に寄ってもらえる? 欲しいものがあるの」
「いいよ。何買うの?」
「うん、家のシーツが汚れているんだ」
出張から帰って来たばかりで、そんなことを言う愛理に違和感を翔は感じていた。
エレベーターに乗り込み、駐車場連絡通路を渡る。
その間にも、愛理はどこかのホテルに身を寄せようか?と、そんなことを考えてしまう。けれど、自宅ではなくホテルへ行くなんて、理由を訊ねられたら、なんと返せばいいのか答えが見つからない。
車までたどり着き、助手席のドアを翔が開く。
「愛理さん、散らかっているけど、どうぞ」
行き先が決まらないまま、「ありがとう」と助手席に腰を下ろした。
そして、運転席に乗り込んだ翔が、エンジンもかけず、愛理へ顔を向ける。
「愛理さん、兄キと何があったの?」
「えっ!?」
「やだな、翔くん。なんでそんなこと聞くの」
焦る気持ちを隠して、愛理は作り笑顔を向けた。翔はそれに気が付いたれけど、愛理の心にどう触れて良いのかわからず、眉尻をさげ、微笑み返した。
「ん……ちょっと、そんな気がしただけ。じゃ、買い物したら、お昼ご飯食べて、それから送るね」
車がゆっくりと走り出す。駐車場の建物から出ると、重い雲が立ち込め、東京湾がけぶって見える。高速道路に入り、車のスピードが上がる。雨が窓ガラスを打ち付け、ワイパーがそれを拭う。
愛理はウインドガラスにもたれ、ぼんやりと外の景色を眺めていた。
やらなければいけないことが、山ほどあるのに、いざ東京に戻って来たらどこから手を付けていいのか、わからない。そればかりか、自分の居場所さえも上手く見つけられずに愛理の気持ちは不安定だった。
離婚に向けて問題を片付け、未来のために新たな生活を作っていく。
口にしてしまえば、簡単なのに、いざ実行するとなると途方もないエネルギーがいる作業だ。
横に居る愛理の沈んだ様子を気に掛けながら、翔はアクセルを踏み込んだ。やがて高速道路を下りた車は、ゆるゆると市街地を走り、ショッピングモールの駐車場へ停まる。
「おまたせ、着いたよ」
「ありがとう。ごめんね。余計な手間をかけさせちゃって」
ショッピングモールの寝具売り場で、愛理はため息をつきながら、カートの中に1組分のシングルシーツのセットを入れた後、バスタオルやタオルまで買い込んでいる。
インテリアコーディネーターの愛理だったら、2組分のシーツを買って部屋の色味を統一させるはずなのに、その買い物の仕方に翔は違和感を感じていた。
「いっぱい買ったね。車へ行こうか」
「うん……」
駐車場へ向かうためにエレベーターに乗ってからも、うつむいたままで暗い表情の愛理。東京に着いてから、どんどん萎れていく花のようなその様子に、心をざわつかせた翔は、耐え切れず口にした。
「愛理さん、やっぱり兄キと何かあったんだよね」
「……何もないよ。だって、私、仕事で福岡に居たんだよ」
「じゃあ、福岡で何があったの?」
そう問いかけられた愛理は、ホテルで見たタブレットの映像を思い出し、目をギュッと閉じた。
「仕事で行っただけだから……」
ポソリとつぶやき、愛理は視線を泳がせた。そして、遠くを見つめ、北川のことを思い浮かべる。北川のことは、大切な思い出として、この先も誰にも言わずに過ごすつもりだ。
心配をよそに胸の内を見せない愛理に翔は焦れ始め、こんな時に愛理にとって、自分は頼りにならない存在でしかないんだと痛感する。
車の後部座席に荷物を置くと、愛理はまたうつむいていた。
「知ってる店に行こうか、体に優しいリゾットがあるんだ」
車に乗り込むと、愛理はどこかに心を置き忘れたような虚ろな瞳を窓の外に向けていた。車は停止したまま、翔はハンドルに手を掛け考えをめぐらす。
──どうしたら、この人の心に自分が映るんだろか。
そんな想いが翔の胸に降り積る。
そして、空港に現れたアッシュグレーの髪色の男を思い出してしまう。
ずっと、焦がれていた愛理と一緒にいた見知らぬ男の存在が疎ましい。
その気持ちが翔の心に影を差す。
「そういえば、福岡で撮った写真があるんだけど……」
翔は、ハンドルにもたれ、ゆっくりと話し出す。
「……オレ、福岡にいるとき、宿泊しているシティホテルのロビーで愛理さんに似ている人を見かけたんだ」
その言葉に愛理は弾かれたように翔へと視線を向けた。翔はハンドルにもたれたまま、何かを思いだすように、窓の景色の一点から視線を動かさない。
「髪型もオレの知っている髪型と違っていたし、まさか福岡にいるなんて思いもよらなかったから……似ている人だと思ったけど、本人だった」
そして、視線を落とした翔はポケットからスマホを取り出した。愛理は息を詰め翔を見つめている。
「……」
「それに……ひとりじゃ無かった」
と言って、翔は自分のスマホを愛理へ向けた。そこには金曜日の晩、北川に寄り添う愛理の姿が収められていた。
それを見た瞬間、愛理は積み上げていた物が崩れるような感覚に襲われ、こらえ切れずに瞳から涙があふれだす。
泣くつもりはなかったのに、抑えようとしても抑えきれない。
「ごめん、泣かせるつもりじゃなかった。ただ、オレもショックだったんだ」
肩を震わせ声を押し殺すような泣き方をする愛理の様子に、翔は心を軋ませた。
北川と過ごした時間を後悔するつもりはなかった愛理だが、翔の信頼を裏切ったことに罪悪感を感じてしまったのだ。でも、泣くつもりはなかった。ましてや泣いて誤魔化すような真似はしたくなかった。
「翔くん、ごめんね。私……泣いたりして……ひきょうだよね。ごめん」
顔を上げた愛理の頬は涙で濡れていた。その頬をつつむように翔の手がそっと触れる。そして、愛理を怖がらせないようにゆっくりと話しかけた。
「何か理由があったんだよね。泣いていいから、ひきょうだなんて思わないから……。|理由《わけ》を聞かせて」
そう言って、自分の胸元へ愛理を引き寄せ、胸の中へ包み込んだ。
愛理の中で、いろいろな感情が入り混じり胸が苦しくなる。今まで、ずっと堪えてきた分だけ、涙があふれ、嗚咽を漏らして泣いてしまった。
翔は、自分の胸の中にいる愛理を愛しむように、そっと背中をさすり続けた。
やがて、愛理の涙が止まり、翔の胸の中から起き上がる。
「ごめん……ありがとう」
「何があったのか、話してくれる?」
「……上手く話せないかもしれないけど」
「ゆっくりで、いいよ」
その言葉に愛理はうなずき、小さな声で話し始めた。
「淳と生活していくの……もう、つらい。淳のスマホを偶然見てしまって……不倫相手からメールが届いていたんだ」
「兄キ……バカだな」と翔は苦々しく口にした。
「それで、証拠を集めようと思って、福岡へ出張が決まったときに、家にこっそり見守りカメラを仕掛けたんだけど……。そこに淳と私の友達が映っていて……淳の不倫だけでなく、ふたりに裏切られていたかと思うと、ショックでおかしくなりそうだった。もう、誰を信じていいのかわからない」
最後の方は消えそうな小さな声で話す愛理の瞳に、再び涙がたまり出す。
「愛理さん……」
愛理は泣かないようにギュッと目を瞑り、気持ちを整えるように細く息を吐き出してから話しを続けた。
「それで、淳じゃなくても、いいんだって思いたくて……他の人に……温もりを求めてしまったの」
その言葉に翔の胸は嫉妬の炎にジリジリと焼かれた。それでも冷静をつくろう。
「そのときの相手の|男《ひと》って、元カレとか? 知り合いの人?」
「ううん、マッチングアプリで知り合った人。軽蔑されても仕方ないと思っている。でも、あの時、私には必要だったの」
真面目な愛理がマッチングアプリを利用してまで、見ず知らずの男の温もりを求め抱かれたと思うと、翔の心にはやるせなさが募る。
「愛理さん、どうして……。本当にバカ兄キのせいで、マッチングアプリを使うなんて危ないじゃないか! どうして、オレに連絡してくれなかったんだ。いくらでも相談に乗ったのに」
「淳が不倫しているから離婚したいなんて相談、夫の身内の翔くんには、言えない……」
愛理の口から出た”夫の身内”という言葉に翔は改めて、自分のポジションを認識させられ、悔しそうに顔を歪めた。
うつむいたままの愛理は翔の様子に気付かずに話を続ける。
「……自分も淳と同じことをしたんだから、慰謝料とか言わない。離婚さえできればいいと思っている。でも、離婚したらウチの実家の仕事を切られそうで、自分が我慢すればいいのかな、なんて考えたりもしてる」
「そうやってひとりで全部抱え込んで、周りに頼ることをしない。いや、頼ることが出来ないのも兄キが愛理さんを甘えさせてやらなったからだ」
甘え上手なタイプは、人に自分の弱みを見せたり、頼みごとをするのを得意としている。それは素直に弱さをさらけ出すことに心理的抵抗がない環境があるから出来る。
逆に甘え下手なタイプは、自分よりも他人を優先して、自分なら大丈夫だと弱い部分をさらけ出せない。甘えることは、我がままだと思ってしまっている。
もしも、愛理が甘えることを知っていたら、悩みをひとりで抱え込まずに周りに助けを求めただろう。そうしたら、見ず知らずの男に温もりを求めるような真似はしなかったはずだ。
今まで、見つめることしか出来なかった愛理を自分が支えられたら……。甘やかして、泣かせるようなマネはしないのに。そう思うと、気持ちが抑えきれない。
「オレなら兄キと違って、愛理さんをもっと大事にする。ずっと、愛理さんのことが……好きだったんだ」
「翔くん……」
突然の告白に愛理は戸惑い、視線を彷徨わせた。それを見た翔は愁いを帯びた瞳で微笑み、優しい声で語りかける。
「返事はしなくていいよ。ただ、ひとりで頑張らなくていいって伝えたかっただけだから」
「でも……」
と言いかけた愛理の唇を、翔は差し伸べた指先でふさぐ。
見開いた愛理の瞳に、悲し気な翔が映っていた。
温かな指先が愛理の唇をなぞるように滑り、翔がそっと囁く。
「この写真の男とは、もう会わないんだろ?」
そう言って、愛理の唇から翔の指先が離れていく。愛理は自分の手元へ視線を落とし、その手を握り込む。そして、自分に言い聞かせるようにつぶやいた。
「……もう会わない。連絡先も知らないし、東京と福岡だから……ね」
「じゃあ、この写真のことは誰にも言わない。オレと愛理さんの秘密にしよう」
その言葉に愛理は驚き顔を上げた。真っすぐに見つめる翔の瞳と視線が合い言葉がでない。
「……」
真剣な瞳に囚われたように愛理は動けずにいた。
すると、翔の声が聞こえた。
「だから、オレと共犯者になってよ」
「……共犯者?」
「んー、ちょっと違うか……犯罪を犯すわけじゃないから、共謀者の方が近いかな?」
と冗談めかしに、肩をすくめた。
「翔くん……」
「兄キと離婚できるようにオレが手伝うよ。その代わり、もうマッチングアプリを使うような危ないことはしないと誓ってくれる? まだ、そのアプリが残っているなら、今、消して欲しい」
翔の言葉で、愛理はあの猫のアイコンのアプリをそのままにしていることを思い出し、慌ててスマホを取り出し、アンインストールをする。
「アプリは削除したけど、夫婦の問題に翔くんを巻き込むのは……。どんな結果になったとしても、淳と結婚した私が自分で決着をつけないといけないんだと思う」
愛理の言葉に翔はふっと微笑む。
「愛理さんが、決着をつけることには変わりないんだよ。本当に甘え下手だな。例え夫婦間の問題でも自分一人で抱え込まずに、助けてと言っていいんだ」
「でも……」
「兄キと暮らして行くの辛いんだろう?」
愛理は黙ってうなずいた。
「まずは、腹ごしらえをして、愛理さんの荷物を取りに行く。そして、生活が落ち着くまでオレの家で暮らして欲しい」
生活が落ち着くまで、翔の家で暮らす。
翔から出た提案に愛理は緊張して、顔をこわばらせた。
「あ、誤解のないように言っておくけど、オレはその間、実家に行ってるからね。ひとりで寂しいかもしれないけど、まめにLIMEするから、ホテルにひとりで泊まろうとか考えないように」
好きと告白された後に翔の家で暮らすようにと言われ、てっきり、一緒に暮らし、関係を迫られているのかと愛理は考えてしまったのだ。
でも、そんな思惑はなく、自分を安全な場所へ置いておくための提案だった。
「ごめんね。一瞬疑っちゃった……。淳と友達に裏切られて、人間不信になっているのかも……」
「オレに脅されると思った? あー、そんな風に思われていたなんて、こんなに紳士なのに、ショックで泣きそう」
大げさにハンドルに伏せ、翔は泣き真似をする。わざと|戯《おど》けているのだと、わかっていても傷つけてしまったのでは?と、愛理は、慌てふためいてしまう。
「ごめん。翔くんがそんな人じゃないって、わかってるのに、ごめんね」
翔はそんな愛理を見てクスリと笑い、愛理へ視線を合わせた。
「大丈夫だよ。だからもっと信用して」
「ありがとう。早めに引っ越し先探すから……。それまで、お言葉に甘えて、お世話になります」
と愛理はぺこりと頭を下げた。その様子に翔は優しく微笑む。
「部屋探しも手伝うし、ゆっくりでいいから、ムリをしないこと」
「翔くん……ありがとう」