途中、昼食を取り愛理の自宅マンション前の駐車場へ到着した。
愛理は、緊張した表情で、スマホアプリのWatch quietlyを立ち上げる。その追跡アプリの赤い点は自宅マンションで点滅していた。
そして、意を決したように大きく深呼吸をする。
「ごめんね。すぐに荷物まとめてくるから、車で待っててもらっていい?」
「大丈夫? 祭日で兄キ、家にいるんだろ?」
「だから、家を出ますって、言ってくる」
「一緒に行こうか?」
「荷物取って来るだけだから、ひとりで大丈夫だよ」
「あんまり遅かったら、様子見に行くからね」
心配する翔に愛理は「大丈夫だよ」と言って、マンションのエントランスホールへと歩き出した。
大丈夫と言ったけれど、実のところ、愛理は酷く緊張していた。エレベーターが来るまで、冷たくなった指先を無意識に温めるようにすり合わせてしまう。エレベーターに乗ってからも落ち着かず、階数表示が上がる度にドキドキと心臓の脈動が早くなった。
細い廊下の先にある自宅ドアへ鍵を差し込み、中へ入る。住み慣れたはずの我が家、お気に入りの家具に囲まれた大切な空間だった。それなのに、今は部屋の空気さえ変わってしまったように感じられて、このまま後退りを逃げ出したくなってしまう。
いつもなら、家に帰って直ぐに施錠をするけれど、今日は鍵をかける気持ちにならない。荷物をまとめたらすぐに出るつもりで、ドアを閉めても施錠をしなかった。
愛理が玄関でグズグズしていると、リビングドアのスリガラスが開き、淳が顔を出す。
「お帰り、愛理。あれ!? 髪、切ったんだ」
美穂との不倫関係が、バレているとは思っていない淳は、何食わぬ顔で愛理へ声を掛けた。
その普段通りの様子に、愛理の心は余計に傷つき、淳の顔を見るのさえも嫌になる。
「うん、イヤなことがあって、気分転換に髪の毛を切ったの」
「若く見えて、前の髪型より似合っているよ」
「そう、ありがとう」
と抑揚のないトーンで答えて、淳の前を通りすぎ、そそくさと台所へ行きゴミ袋を持ち出す。そして、寝室へ移動した。
寝室に入ると、2台並んだベッドが目につく。
得体の知れない何かがベッドに染み付いているようで、たまらなく気持ち悪く思えた。
愛理は眉間にしわを寄せ、窓を開け放つ。外は秋の冷たい雨が降りしきり、部屋の中にひんやりとした空気が流れ込む。
クローゼットを開け、広げたゴミ袋の中にハンガーが付いたまま、服を丸めては、袋の中へ放り始める。
とにかく、荷物をまとめて、この空間から早く立ち去りたかった。
「何してるんだ⁉」
背中から淳の大きな声が聞こえ、愛理は、ため息交じりに振り返り、淡々と答える。
「もう、淳とは暮らしていけないから、別のところに行こうかと思って……。心当たりあるでしょう? これからは、自分のことは自分でやってね」
その言葉に、淳はカッとなり声を荒らげた。
「なんだよ。出張から帰って来たと思ったら、訳のわからないこと言って! イメチェンして、男でもできたのかよ!」
そう言った淳が愛理へ詰め寄り、手首を強く掴む。
「痛っ! 手を放して……」
痛みで顔を歪めた愛理を、淳は見下ろしながら眉間にしわを寄せ言い放つ。
「いきなり、そんなことを言っても納得できるはずがないじゃないか、そんな反抗的な態度を取って、誰かにそそのかされたんだろ」
「どうして、誰かにそそのかされたとかって、そんな風にしか考えられないの? 私、結婚してからいい家庭にしたくて、頑張って来た……。でも、いい家庭って、夫婦で協力しあって築き上げないと出来ないんだよ。結婚してから都合の良い家政婦みたいな扱われて、いつも寂しかったし傷ついていた」
付き合っていた頃から愛理が淳の世話を焼くのが、定番となり、それが結婚してからは当たり前になっていた。結婚生活について自分が満足しているから相手も満足していると思い込み、淳は深く考えもしなかった。
「愛理……」
淳は毒気を抜かれたように、手の力を抜いた。するりと愛理の手首が解放される。
愛理は、痛む手首を押えながら、心に溜まっていたことを吐き出した。
「淳のことが好きで結婚したの。だから良い家庭にしたくて頑張ったけど、軽く扱われて、今ではどこが好きだったかも思い出せない。女なんていくらでもいるんでしょ!? じゃあ、私じゃなくて、他の|女《ひと》でいいよね。私も他の|男《ひと》でいい。淳には何も期待しない。都合の良い奥さんは辞める」
その瞬間、愛理は左の頬に熱い痛みを感じ、重心が揺らぐ。
口の中に鉄臭い血の味が広がって、淳に叩かれたのだと理解した。
頬を押さえ、顔を上げた愛理の瞳には、困惑した表情の淳が映った。
「叩くつもりじゃなかったんだ。愛理が……。他の|男《ひと》でいいなんて、言うから……」
愛理を叩いた自分の右手を見つめ、淳は独り言のようにつぶやく。
これ以上何かを言っても火に油を注ぐことになり兼ねない。そう思っていても愛理は気持ちが抑えきれず、心に溜まっていた言葉が口をつく。
「私が悪いの? 私は、ずっと頑張ったんだよ。疲れて帰っても温かいご飯作って。休みの日だって、洗濯したり、掃除したりして、家で気持ち良く過ごせるようにやってきたんだよ。淳は私のために何をしてくれたの?」
グッと手を握り込み、淳へ思いの丈を吐き出す。
「なにもしてくれなかったじゃない。そればかりか、話し掛けてもめんどくさそうにして、日常の会話さえまともにしていない。私はたくさん話をして、信頼し合える家庭が欲しいの。淳を信じられない。もう、無理なの」
切れた口の中は血の味がして酷く苦い。涙がジワリと浮かび、淳の姿がぼやけて見える。愛理は口を引き結び、涙をこらえた。
愛理から言葉を投げつけられた淳は、こみ上げる怒りを抑えるように、低い声で言う。
「俺から離れて行くなんて、ゆるさない。俺はお前のために実家にだって仕事を回して、いろいろしてやっているじゃないか」
実家のことを引き合いに出されて、言葉を詰まらせる愛理に、淳は大きく息を吐き出し、宥めるように話しかける。
「俺が悪かったよ。これからは、もっと家事も協力するし、話しもする。それでいいんだろう?」
うわべだけを繕った謝罪の言葉に、堪えきれない悲しみが、涙となって愛理の頬を伝う。
「そんなことを言っても、一度失くした信用は簡単には取り戻せないんだよ。私が何も気づいていないと思っていたの?」
そう言って涙を拭い、愛理はゴミ袋に詰め込んだ洋服へ手を伸ばした。その手首を静止するように淳が掴む。
「謝っているじゃないか。いい加減、機嫌直せよ」
「放して、私に触らないで!」
愛理からの拒絶にカッとなった淳の瞳が険しくなる。
掴まれていた愛理の手首がグイッと引かれ、バランスが崩れると、あっ、と思う間もなく倒れ込んでしまう。
ギシッとベッドが軋み、嫌な音を立てた。すると、淳が上に覆いかぶさり、掴まれた腕がベッドへ縫い留められる。
「放して!」
と声を上げた口が、淳の手に塞がれた。グッと体重がかかり、息をするのがやっとの状態だ。身じろぎも出来ずに、目を開くと、苛立ちで眉間にしわを寄せた淳が自分を見下ろしている。
”怖い”
夫であるはずの淳に愛理は恐怖を感じ、緊張で身をこわばらせる。
ひんやりとした空気が部屋に流れ、壁に掛かる時計がカチカチと時を刻んでいた。
口を押えていた手が外され、胸元へ移動する。
それなのに、心が萎縮して声が出ない。愛理はギュッと目を瞑り、胸元で動く手の感触に耐えていた。
他の女を抱いたベッドの上で、淳の手が愛理のスカートの中を弄り始める。
組み敷かれ、嫌悪感を募らせながら、このまま耐えるしかないのかと、あきらめにも似た気持ちで、愛理は唇をかみしめた。叩かれたときに切れた口の中に血の味が広がる。
”ピンポーン”
ふいに、インターフォンが鳴り響き、間髪を入れずにガチャッと玄関ドアの開閉音がする。
それに気づいた淳が振り返ると、そこには怒りに満ちた瞳の翔が立っていた。
「なあ、兄キ。夫婦でも合意が無ければ、レイプだって知ってる?」
「翔……なんで、お前が……」
「オレ? かわいい弟が兄キの家に遊びに来たんだよ。そしたらモラハラ兄キが嫁さん虐待していて、兄キの人間性を疑っているところ。……早く、愛理さんの上から退きな」
怒気を孕んだ瞳で睨みつけた翔だが、それを淳はバカにしたように鼻で笑う。
「ハッ、夫婦のことに口を挟むな、大きなお世話だ。帰れ!」
「御託はいいからさっさと退けよっ!」
翔が動いたと思った瞬間、大きく振りかぶった拳が淳の頬を捉えた。
ガツッと音がして、淳が仰け反る。
「翔……てめぇ……」
切れた口元を手で拭いながら、淳は翔を睨みつけた。
冷めた表情でそれを受け止めた翔が口を開く。
「殴られて痛かっただろ? 力ずくで女性を抱くのは、ただの暴力なんだよ。今、兄キが殴られた以上に心へ痛みを感じているはずだ」
ふぅーと息を吐き、翔はベッドに横たわる愛理へ声を掛ける。
「愛理さん、ごめん。もう少し早く来れば良かった。まさか、兄キがここまでするとは……」
おびえていた愛理へ翔は手を差し伸べ、ベッドから引き起こした。
「……ありがとう」
「兄キ、愛理さんは連れて行くから」
「お前ら、福岡に出張だとか言って、裏でコソコソと付き合っていたんだな」
その言葉を聞いた翔は淳に向かって、呆れたような視線を送る。
「オレは兄キのことで悩んでいた愛理さんに安全なところでじっくり考えてもらいたいだけ、自分が裏でコソコソと女と付き合っているからって、直ぐそんな考えになるんだ」
図星を突かれた淳は、気まずそうに視線を泳がせた。翔は細く息をつき、愛理へ話しかける。
「愛理さん……頬が腫れてる」
「わたしも言いすぎたから……」
こんな状況なのに自分を責める愛理の姿に翔は眉尻を下げた。
「早くここから出よう」
そう言って、部屋から出て行こうとする翔と愛理に向かって、淳の声が追いかけて来る。
「翔……お前……愛理は俺の妻なんだぞ」
妻という存在を夫の所有物のように言う淳に、翔は呆れかえり、侮蔑の表情を浮かべた。
「暴力を振るう夫の元から、避難させる。それについては問題ないはずだ。警察を呼んだっていい。オレは、愛理さんが不利になるようなことはしない。これだけは誓える。だから兄キはじっくり自分の行いを振り返ってみろよ。叩くと埃がでるんだろ? 支払う慰謝料の算段でも立てて置くんだな」
「ちょっと、待てよ!」
「これからのことを相談しようと思って、母さんとも待ち合わせしているんだ。ほら、ふたりきりで会うと自分の事を棚に上げて邪推する人がいるからね。さあ、行こうか」
翔の言葉に愛理は頷き、うなだれる淳を悲し気に見つめた後、何も言わずに深く頭を下げた。それは、淳との決別を意味していた。
自宅マンションを出た後、そのままの足で翔の知り合いの医者に掛かり、淳に殴られた頬の診断書をもらったのだ。
「ごめん、カップがこれしかないんだ」
と翔が照れ笑いを浮かべながら、ローテーブルの上に不揃いのマグカップを置いた。
手にしたマグカップをよく見ると、東北にあるスキー場のロゴとうさぎのキャラクターが描かれている。
「かわいい……」
ゆるいキャラクターになんだか、ホッとして気が付いたら呟いていた。
中にはミルクティーが注がれていて、口にすると甘くて温かな液体が体に沁み込んでいく。
「カップ新しいの買ってくるよ」
「ううん、これでいいよ」
愛理は温かみを感じるように手のひらでカップを包む。
「ありがとう。翔くんが助けに来てくれて良かった……。私、淳のこと、初めて怖いと思ったの。そうしたら、体が思うように動かなくなってしまって……」
頭の中でさっきの出来事がよみがえり、マグカップを持つ手に力が入る。
「あそこまでする人じゃなかったのに……。私、感情的になって言い過ぎたんだよね」
そう言って、愛理は寂し気に雨上がりの窓の外へと視線を移した。
夜の闇に包まれた雨上がりの街の景色は、深い闇の中に幾多の宝石を散らばめたように煌めいている。
窓ガラスに反射した室内が映り込み、そこには愛理を見つめる翔の姿があった。
「オレがもっと早く行けば、良かったのに……ごめん」
窓の外を眺めていた愛理が翔へと振り返る。
「翔くんのせいじゃないよ。なんだか、心の中に溜まっていたことを淳にぶつけたら止まらなくなって、怒らせてしまったの。ずっと頑張ってきても夫婦なんて崩れる時は一瞬なんだね」
そう言って、寂し気に俯いた愛理は、気持ちを切り替えるために息を吸い込んだ。そして、顔を上げ話を続ける。
「明日、実家に行って来るね。淳と離婚するって報告する」
「愛理さんの実家の仕事のことも、両親に言っておくから心配ないよ。きっかけは愛理さんだったとしても仕事上の取引なんだし、書面も交わしているはずだから兄キの勝手にはさせない」
「ん、ありがとう。ごめんね」
「会社同士の契約なんだから、兄キが何を言っても、仕事さえしっかりしていれば大丈夫だよ。気にしないで! ほら、いざとなったら、オレが兄キ追い出して『不動産リフォーム樹』を乗っ取ってやる」
と自信に満ちた瞳をむけた。
冗談とも本気ともつかない翔の様子に愛理は眉尻を下げる。
「私のために仕事を変えるようなことはしないで、お願いだよ」
「大丈夫。なんにも心配いらないから」
翔の言葉に頷いた愛理は、ホッとして疲れが出たのか、クッタリとソファーに身をあずけた。
何気なく、ラックの上に置かれた時計を見た愛理は、思いついたように口にした。
「それにしてもお義母さん遅いね」
それを聞いて、翔はいたずらっ子のようにクスリと笑みを浮かべ、内緒の話をするときみたいに口元に人差し指をあて話しだす。
「兄キには、ああ言ったけど母さんは来ないよ。オレが行くのは連絡してあるけどね。兄キは母さんに怒られるの嫌がるから、母さんを盾にしただけ、兄キ追いかけてこなかったでしょ」
翔の意外な返事に愛理は驚いたように手を口に当て、キュッと目を瞑ると肩を震わせる。必死に笑いをこらえていたけれど、プッと吹き出してしまう。
さっきまであんなに淳が怖かったのに、なんだかマヌケに思えてしまったのだ。
愛理の笑顔にホッとした翔は腰を上げ、引き出しからスペアキーを取り出し愛理へ差し出した。
「オレもそろそろ実家に行こうかな。これ鍵だから」
翔の手のひらから、スペアキーを受け取るとき、指先が触れ、そっと離れた。
「ごめんね。迷惑かけます」
「いいんだよ。オレが力になりたいんだ。あと、保存食だけどあるもの食べていいよ。デリもあるし」
「ありがとう」
「じゃあ、後で連絡するね」とドアが閉まった。
ひとり部屋に残ると一抹の寂しさが漂う。
細く息を吐き出してから、シャワーを浴びた。
あまりにも一度に色々なことが起こり、気持ちを整理したかったけど、思考がぼんやりして、瞼が重くなる。
シャワーから上がり、スマホを手に取った。
『今日はありがとう。疲れたのでもう寝ます。おやすみなさい』と翔へLIMEを送ると直ぐに『おやすみ』とかわいいスタンプ付きの返事が来た。そのことにほっこりして、笑みが漏れる。
部屋着に着替えて、翔のベッドへ倒れ込むと自分のベッドとは違う香りがする。
その香りに包まれて、愛理は、自分を抱きしめるように体を丸め眠りについた。
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