ベルニージュとグリュエーと留守番のカーサを除いた全員が残留呪帯にたどりつくと、その境界面に沿ってなぞるように歩いた。空間そのものがのたうち回るように荒れ狂う残留呪帯でなくとも辺りはうら寂しい野原だが、正気を失った荒野との境ははっきりと示されている。
飽きることも慣れることもなく無限の変化を続ける混沌だが、あまりにも不条理で無意味で説明のつかないおどろおどろしい事象が起こり続けており、ただ眺めているだけで足元が覚束なくなるようで、心も体も不安定になってしまう。雲のない空から嘶く馬が次々と降ってきて、怒りに呑まれた杉の木立が互いを打ちのめし合い、旋風が母を失った赤ん坊のように泣きながら過ぎ去る。
できる限り狂った光景を目に入れないようにしつつ、救済機構が設置したという通路、防呪廊にたどりつく。
ユカリも見覚えのある彫像が設置されている。クヴラフワで最初に訪れた街メグネイルを離れる時に見かけた石のような蝋のような像だ。あの時の像は倒れていた。今度の像も同じく薄布をかぶって、同じような膝をついた姿勢をしているが、像自体はきちんと立っている。あの時は像自体が倒れていたためか苦しみに耐える姿に見えたが、本当は祈りを捧げている姿だったの。
像の視線の先、ずっと向こうまで残留呪帯にあるべき無数の呪いの混沌が凪いだ湖面のように鎮まっている。これこそが救済機構の呪い避けの魔術、モディーハンナが言うところの結界術による回廊なのだ。
「救済機構の信徒でなくても通れるのですよね? ジニ様もお通り抜けになったわけですし」とレモニカが不安げに呟いた。
早速像を調べていたジニが肯定的に応じる。「ああ、大丈夫だよ。念のためにこれも調べたけど、誰でも通れる。でも一応急いで通り抜けようか」
一行は像の視線の先へ、正常さに穿たれた残留呪帯を進む。地面には何の目印もないので時折振り返って像の視線から離れていないことを確認する。呪いの混沌もまた目安にはなるが、常に分かりやすい呪いがそばにあるわけでもないので急ぎながらも慎重さを損なう訳にはいかない。
何度目かの確認で振り返り、ユカリは目を凝らす。像の視線を真っ直ぐにたどれている。
しかし、見覚えのある、だがこんな場所で見るはずのない存在が像に近づいていた。ラゴーラ領で遭遇した呪い、『這い闇の奇計』。それも緑に光る目を持っている、何者かの変身した存在だ。それが、今、ユカリの方に視線を向けて、これ見よがしに像を押し倒した。
「走れ!」とユカリが怒鳴る。「像が倒された! 結界が壊れる!」
ソラマリアがレモニカを抱えて走り、ジニがエーミを背負って飛び、ユカリは杖に跨って飛ぶ。
呪いの混沌が壊れた結界の内に押し寄せ、ユカリたちの背後に迫り来る。僅かな秩序が圧し潰される。よくよく見れば行く先にも像があった。しかし呪いの混沌は、あるいは結界の消える速度は一行の全速力を遥かに上回っており、決して逃げきれないとユカリは察した。これならば戻って像を立て直した方が速い。ユカリは魔法少女に変身し、振り返って反転する、と同時にジニに呼び止められる。
「やめな! もう大丈夫だよ」
確かにジニの言う通り、迫り来ていた呪いの混沌が止まった。かといって像は倒れたままで、混沌が押し戻っていくわけでもない。
どういうことかとユカリはもう一度進行方向に目を向けて察する。何のことはない。中間地点を越えたのだ。結界術の像は一定方向に一定距離作用するようで、向こう岸にもう一体あったのは、単に像一体では残留呪帯の半ばまでしか効果が及ばなかったということだ。
緑の目の『這い闇の奇計』は姿を消していた。
それから半日ほどかけて、クヴラフワの外であれば太陽が天頂に差し掛かり、夏の日差しで地上を存分に照らし、縮みゆく影が再び伸び始める頃、ユカリたちは霧の中のような緑の薄明りの下、道なき道を越え、バソル谷にたどり着く。
バソル谷にはたどり着く前から彼方まで威容を誇る一基の巨大な塔が建っていた。谷を挟む二つの山よりもさらに高く、緑の空を突き刺さんとする槍の如く伸びている。あわいの塔だ。
ユカリの第一印象は一つの確信を伴っていた。このネークの塔こそがこの地、マローガー領を蝕む呪い、あるいは呪いの源泉や基部に違いない、と。そう思えるだけの異様な姿をしていた。細長く、歪で、幾つかに枝分かれし、また何度となく合流している。神話に根差し、世界を枝葉で覆う巨木のようにも見え、天を掴まんとする不遜な手と腕のようにも見える。あるいは合掌茸にも似ている。塔の最上部付近には黒々しい鳥の群れが集っていて不吉な様相を呈していた。
ネークの塔の麓にも街があったが、遠目にも廃れていることが分かる。天を衝くネークの塔ほどではないが元々高い建造物が多かった街だ。かつては塔から塔へ、谷から谷へ報せを送っていた旗信号が今や色褪せ、朽ちて、力無くしな垂れている。空色の屋根や何か色とりどりの壁画が描かれていたらしい壁が無残に剥がれ、何もかもが風化して灰のように精彩を欠いていた。幾つかは気力も体力も失って倒れ、幾つかは残る力で他の塔に寄りかかっている。廃墟を好んで巣食うある種の小人とて危ぶみ、近づくことはないだろう。
一行が街の付近まで来た時、街の中心部辺りに薄く細く立ち昇る煙を確認した。街の人々の炊事だろうか。しかしエーミがそれを否む。
「エーミが谷を離れてから何か新しいことが起きたのでなければ、それはあり得ない。街に入る前に先に呪いについて説明しておいた方が良いよね」
「それじゃあ食事しながらにしよう。この先体力使いそうだし」
ユカリの提案は全会一致で採択された。
適当な家屋の炊事場を使おうとしたが掃除に時間がかかりそうなので諦め、街の通りの端の方で焚火を作った。持ってきた食材は豊富だ。五人で数日、切り詰めれば十数日はもつだろう。とはいえ街の様子を確認するまでは油断できない。ひもじさを誤魔化せる程度の食事に抑える。
「マローガー領には『快男児卿の昇天』と呼ばれる呪いが蔓延してる」
エーミは説明を始めつつ、薄い一切れの塩漬け羊肉と萵苣を麺麭に乗せてかぶりつく。呑み込むまで少し待つ。頬張り過ぎたようだ。小さな口が咀嚼し終えるのをしばらく待つ。
「ごめん。えっと、この呪いはただただ高いところを目指したくなる強迫観念に苛まされる呪いなんだ。初めの方は屋根に上って、木に登って、山に登って、それでも満足できずにいつの頃からかネークの塔を建て始めたみたい」
「ネークの塔以外もそうなの?」とユカリが尋ねる。
「ううん。ネークの塔だけ。元々マローガー領は高い建物の多い土地ではあるんだよ。他にもこういう塔の街がマローガー各地でいくつかできたけど、特に人口の多かったバソル谷のネークの塔は人手が多いぶん高く高く伸びて今に至る。でも初めは誰も呪いのせいだなんて思わなくて、塔を建てるのは神様に与えられた使命だと信じてたんだって。呪いのせいだと、否定されるまでは」
レモニカが塔を見上げながら尋ねる。「四十年間伸び続けているということですわね。エーミがバソル谷を出た時よりも高くなっているのですか?」
「うん。でも、たぶん少し成長速度は落ちてるかな。それか何かしらの限界が来たのかも。資材が足りないか。耐久性が足りないか」
あるいは人手が足りないか。ユカリは努めて平気な顔をして塩辛い食事に集中する。
「機構側の呪いだね。呪いの条件は分かってないんだっけ?」とジニが尋ねる。
「うん。エーミも機構に囚われていた間、ずっと調べてたよ。クヴラフワ衝突に用いられた救済機構の呪いは殉教者の受難、悲劇を再現する魔術なんだけど、肝心なところは秘匿されてた。もしかしたらマローガー領にいること、そのものなのかもしれない」
「そうだね。マローガー領という土地自体が呪われていると考えた方が良い。高い所に登りたくなってきた子はいるかい?」
ユカリが手を上げ、それを見てからレモニカが手を上げ、それを見てからソラマリアが手を上げる。
ジニが呆れた様子でユカリを見つめる。「あんたは単にネークの塔に登りたいだけだろう?」
「そうですよ」とユカリは頷く。「でもちゃんとした理由もあります。今はみんなネークの塔に住んでるんですよね? じゃあ魔導書を得るために、救済機構みたいにいんちき宗教者のふりして信仰を集めるために塔に登らないといけません。土地神も、いるとすればどうせネークの塔の頂上でしょうし。でも飛べるのは私と義母さんだけ。そして義母さんは巨人の遺跡がある地上に用がある。二手に分かれましょう」
レモニカがさもありなんという面持ちで頷いている。
「二手に分かれる理由は? それぞれの用事に順番に全員で向かえば良い。塔を登るのは後回しにすればいいのさ」とジニは言い返す。「塔の麓の煙の正体を明らかにして、巨人の遺跡を調査して、その後で塔を歩いて登れば比較的安全だよ」
義母にお守りなどされたくない、とは言えない。
ユカリはそれ以上の反論が思いつかずレモニカに目線を送って助けを求める。
「ああ、えっと、それは」と言葉を繋ぎながらレモニカは言い訳を考える。「この土地にはもう一つ目的がありますわね。つまりエーミの目的……、エーミの目的はなんでした?」
何とか話をそらすことには成功した。
全員の視線がエーミに向けられる。エーミは少し恐々とした面持ちで答える。
「エーミの目的は、エーミの目的はただバソル谷に、故郷に帰ることだよ。あ、でもまずあの煙が何者たちなのか知っておきたいかな。機構だったら故郷の皆に迷惑かけちゃうし」
「それですわ!」とレモニカが勢い余って声を張り、恥ずかしそうに声量を落とす。「わたくしやユカリさま、ソラマリアがエーミと共にいるところを機構に見られるのは避けたいところです。ソラマリアとエーミの関係性については知られていますが、ここで再会したことについてはまだ知られていませんし、知られない方が良いでしょう」
ユカリはレモニカの提案を支持するように頷く。エーミは単独でクヴラフワへと入り、魔法少女たちとは無関係、そう思わせるためにベルニージュは苦労してモディーハンナやサイスを撒いたのだ。
「地上はあたしとエーミだけかい?」とジニはか弱い少女であるかのようなふりをする。
「ソラマリアには残ってもらいましょう。あの煙が機構であったなら一緒にいる所を目撃されないように立ち回り、機構ではなかったなら、ジニさまとエーミと合流するのです。機構でなければまず大王国でしょうし、機構にも大王国にも詳しいのはソラマリアだけですわ。それに魔法少女の杖に三人は狭いですもの」
ソラマリアは何か言いたげだったが我慢していた。
「なるほどね」とジニは頷く。「最後は何だか力尽くだったけど、良しとしようか。塔はユカリとレモニカ、地上はあたしとエーミ、ソラマリアだね」
ソラマリアのそばで、皆の見守る中で、レモニカは左手の親指に輝く蒼玉の指輪に集中するようにじっと見つめる。その輝きに秘められた魔法に触れた瞬間、目映い閃光が世界を白に染め上げる。
ユカリに贈られた衣が稲光のようになって弾け飛ぶ。蒼の混じった黄金の雷電が紡がれ、雷光の如き着物がレモニカの柔らかな絹の肌に叩き付けるようにして身につけさせる。
妖しく照り輝く黄金の上衣はまるで剥がしたばかりの毛皮の如き乱雑な輪郭を形成し、下衣はまるで継ぎ接ぎであり、樹状図形の縫い目が走る非対称の裾が喇叭のように広がった。紫電の如き半透明の靴が左の爪先から這い上がり、内に収まった優美な足までをも透かす。
レモニカの内から背中へと稲妻のように放たれた墨染めの袖なし外套が翻り、瑠璃の襟止めが繋ぎ止める。黄金の髪は高く固く纏め上げられた。
蒼玉の指輪の閃光は収縮し、形を成す。それは黄金の皮革の張り詰めた鼓だった。それを背に負ってレモニカは自分の格好を見下ろす。
こんな機会もなければ永遠にしないだろう格好にレモニカは内心興奮する。
「なんだか野性味溢れるお衣装ですわね。ユカリさまと同じような変身ができて感無量ですわ。どうですか? 似合っておりますか?」
レモニカはユカリの感想を頂戴するべく耳を傾ける。
「今までで一番速かったね」とユカリは感心した様子で感想を述べたが、レモニカには何のことか分からなかった。
「何かおかしかったですか? 失敗してはいませんよね?」とレモニカは不安そうに尋ねる。
「いや、変身の速度がね。瞬きよりも速かったじゃない?」
少なくともレモニカにはそのような認識はなかった。変身の一つ一つがどのように行われたか正確に把握できたのだ。
「では、それではわたくしの変身を見ていなかったのですか!?」
「いや、見てたよ。見てたけど何が起きてるのか分からなかった」
「そんな……。呪い以外の変身を初めてお披露目できたのに」
「さあ、レモニカ様」とソラマリアが声をかける。「ここからが肝心ですよ。変身の呪いがどう反応するか。まだ分かりません」
「え? まだ試してなかったのかい?」
ジニが焚火の始末をしながら呆れた様子で首を傾げる。
「ええ、この魔導書のことがよく分かってからにしよう、と考えておりました」
「それにしたって解呪のために旅してるんだろう?」
「ええ、まあ、それはそうなのですが。魔導書ということもあって、恥ずかしながら臆していたのですわ」
「誰もが義母さんみたいにせっかちじゃないんですよ」とユカリが助け船を出すとジニはそれ以上追求しなかった。
ソラマリアがゆっくりとレモニカから離れる。次に近いのはユカリだ。呪いがきちんと働けばユカリの母エイカの姿になるはずだ。
しかしレモニカはレモニカ本来の姿のままだった。だが喜ぶのはまだ速い。一時的な呪いの力の停止ならば魔法少女に触れている時と同じだ。根本的に解呪できているかどうかを確かめるため、改めてレモニカは指輪の魔導書の変身を解く。
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