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レモニカは、空気を吹き降ろして宙に浮かぶ魔法少女の杖に腰掛け――すると沈み込みに抗うように、さらに強力な風が吹き出す――、颯爽と杖に跨るユカリの腰に腕を回す。
「前向きにね。レモニカ」
「ええ、もちろん。後ろ向きに座ったりしませんわ」
レモニカの声は初めて遠駆けに出かける若者のように弾んでいた。
「いや、うん。まあ、いっか」
「重くはありませんか? 鼓の重さを考えると変身を解いた方が良いでしょうか?」
「ううん。大丈夫だよ。空気も沢山蓄えたし、安心して」
レモニカの解呪の楽器、背負っている鼓は、見た目ほどには重くない。
結局装身具の魔導書の変身によってレモニカの呪いは解けなかった。あくまで指輪の魔導書で変身している時だけの一時的な封呪だ。
「いつとてもどうぞ、ユカリさま」
だがレモニカは露欠片も気にしていなかった。呪いが完全に解けなかったことは残念だが、変身していればソラマリアのそばにいなくても本来の姿を取り戻せることは素晴らしい。鼓は邪魔だが。それに、むしろレモニカはこれから始まるユカリとの冒険に胸を高鳴らせていた。
ソラマリアの表情は乏しいが言葉以上に心配していることは伝わる。ジニはにこやかだが何を考えているのかレモニカには分からない。エーミは望郷の念を交えた瞳でネークの塔を見上げている。郷愁というには寂しい表情だ。
「いくよ。しっかりつかまってて」
ユカリが合図すると、魔法少女の輝かしい杖からさらに強烈な空気が吹き下ろされ、二人の体は母なる大地の愛し子を引き寄せる抱擁から逃れんとするように、容易く浮き上がる。二人ともがしっかりと体勢を保持できているとユカリが確認すると、黒い鳥の集まっているネークの塔の最上層付近に目掛け、巣へと急ぐ燕の如く一直線に推進する。生温いクヴラフワの空気の中にあっても、髪と衣をたなびかせ、強く擦るように肌を撫でる風を浴びると爽やかな、洗われたような気分になる。が、半分も近づいたところでユカリは減速した。
「よく見ると鳥じゃない。翼の生えた、たぶんパジオと同じ変身した人間だ」
ユカリと同様にレモニカも目を凝らすが、この距離ではまだただの鳥にしか見えない。
「いかがいたしますか? 少し下の階層から近づいて様子を見るというのはどうでしょう?」
「レモニカさえよければ鳥を突破したい。上層に集まっているってことは、そこに重要なものがあるはず。『快男児卿の昇天』。高い所を目指したくなる強迫観念を考えれば住民もそこに集まってるだろうし。それが難しそうなら下の階層に――」
「そうですね。いずれにせよ、鳥たちと敵対するならば戦うにせよ、逃げるにせよ、こちらの最速も杖での飛行ですし、速さの差を見極めた方がいいかもしれません。わたくしは構いませんわ。ユカリさまの思うようになさってください」
「ありがとう。何があっても私のこと離さないでね」
凝縮した空気を杖が噴出すると二人は凶兆を運ぶ流星のようにネークの塔へと飛んで行く。すぐにレモニカにも鳥の正体が認識できる。
確かに鳥は人間大だ。全身が羽毛に覆われており、腕は翼のように伸長している。しかし嘴はなく、双眸の代わりに緑の光が灯っている。両足もその間も羽毛に覆われており、羽毛で縫い上げた長い裾を穿いているかのようだ。彼らはほとんど羽ばたくことなく優雅に舞い飛びつつ、近づいてくる二人の人物を警戒し、そして警告するようにぎゃあぎゃあと喚いている。鳥の鳴き声のようにも人の叫び声のようにも聞こえるが、どちらにしても強風の中では何を言っているのかは分からない。
そして話し合いに必要な人数の何倍もが一斉にレモニカたちに向けて飛来する。単純素朴な体当たり。しかし縦横無尽に飛び回れる彼らにとっては何より強力な武器だった。
一人二人三人と間一髪でかわしつつ塔への接近を試みるが、直撃を食らうのは時間の問題だとレモニカは察する。そしておよそ十人目の体当たりを避けたところで体勢を崩し、二人は杖と離れ離れになった。
自由落下。重力からは逃れられていないが、体重を失ったかのような感覚を得る。真っ直ぐに地上へと落ちていく二人は奇妙な鳥人たちに見下ろされ、見送られる。
それでもレモニカはしっかりとユカリをつかまえていて叫び声一つ上げはしない。ユカリの狙いをはっきりと理解できているからだ。
鳥人たちから十分な距離を取ったユカリは再び魔法少女の忠実な杖を、時空を越えて握りしめ、ひらりと跨り、レモニカを乗せ、一直線に塔の中層へと飛び、軽やかに着地した。
ほとんど柱と梁とわずかな床だけで構成された危うい塔だ。壁と言えるものがほとんどなく、必然的に内部といえる空間がない。隙間だらけの鳥籠、あるいはずっと昔に放棄され、朽ちるに任された鳥の巣のようだ。距離はあるが鳥人たちからも丸見えだ。ユカリが杖を構えて迎撃態勢を取る。
しかし鳥人たちは喚くばかりで、一羽たりとも一人たりとも降りて来ず、近づいて来なかった。理由は分からないがネークの塔に近づくつもりはないらしい。
レモニカはじっと目を凝らす。鳥人たちは慌ただしく翼を上下させて、威嚇するように喚きながら塔から一定の距離を保っている。
杖を構えて警戒する魔法少女ユカリの背に隠れて、レモニカはユカリを補うように死角に目を向ける。止まり木のようなネークの塔だが鳥人は一人もいない。
「どうやら塔には近づけないようですわね。結界でも張ってあるのでしょうか?」
「そうかも。でも油断大敵だよ。そういうはったりかもしれない。隙を伺ってるのかも」
「そうですわね。注意を怠ら……あ」
レモニカは足を踏み外し、態勢を崩す。体が空中に投げ出され、時間が飴のように引き延ばされ、ユカリの表情の変化と伸ばした手がよく見える。しかしユカリの片腕にしっかりと抱きかかえられ、もう一つの手に握られた杖から放たれる空気の反動で再び確かな床に戻る。
二人が立っている床は通路とも梁とも判別がつかない。落下防止の手すりも柵も存在しないが、石造りの回廊のようにも見える。
「ありがとうございます。ユカリさま」レモニカは恥じ入り、目を伏せる。
恐れと恥ずかしさのあまり血が巡り、耳元で心臓が高鳴っていた。ユカリに励ますようにぽんと肩を叩かれる。
「上にも下にも気を付けてね。まさかそれが鳥人の狙いってことはないだろうけど」ユカリは改めて周囲を眺める。「ここら辺には人がいないみたいだし、もう少し上に行こうか。やっぱり呪いのせいで最上層に集まってるのかも」
ユカリにつられて見上げる。今いる網目の大きな籠のような場所に比べれば上層には天井、あるいは床らしき広い場所があるようだった。
こちらを監視する鳥人たちを警戒しつつ、蔦が絡み合うような姿のネークの塔を登っていく。
レモニカは喉を締め付けられるような焦りを感じる。それはユカリたちと旅を始めた時の焦りに似ている。役に立ちたいという思いだ。ソラマリアが旅を共にすることになって、その焦りは一層レモニカを囃す。一方でその焦りが引き起こす失敗についてもレモニカはよく知っていた。冷静でなくてはならない、という思いもより強まっている。冷静に行動するのだ、と戒める。
不安定でお粗末な、天へ至るに相応しくない粗雑な階段をひたすらに上り続ける。鳥人たちは翠玉の如き緑の光の視線を常に塔へと向けているが、しかしやはり近づくつもりはないらしく、火の熱さを知る羽虫のようにネークの塔を取り巻いている。
途中ユカリが足を止め、何も言わずに南東の方角をじっと見つめる。この陰鬱な空に何が見えるのだろうか、とレモニカも目を凝らす。
見えるのは積み重なる山麓だ。マローガー領の呪われた山とケドル領の呪いの解かれた山、そしてそのずっと向こうに白銀の山脈の山巓が僅かに見える。
「ねえ、レモニカ。あの山って、方向的に、もしかして……」
まさに同じ山を見つめていたのだと知り、レモニカは少し嬉しくなる。そして確かにその山はこの大陸で最も特別な山だ。
「あれこそグリシアン大陸最高峰。最も古く正統なる神々の住まう土地。霊峰ケイパロン。に連なる山脈の北端ですわね。本山ではありませんが、山脈全体を指して言うこともあるので、あれもまたケイパロンですわ」
ユカリは言葉を呑んで小さく輝く霊峰の幽玄壮大な姿を紫の瞳の奥に焼き付けるべく凝視している。
さもありなん、とレモニカは頷く。神話と英雄物語を愛するユカリにとっては故郷を除けば、その神秘の帳の奥に広がる山岳こそが最も馴染みのある土地なのだ。夢で訪れ、想像で訪れ、現実で恋い焦がれた土地だ。多くの喜劇と悲劇、武勇伝に説教じみた説話の舞台となった場所だ。たとえその一端でも目にできたなら感動もひとしお身に染みるだろう。
「いつかあそこに行きたいな」
ユカリのその言葉を、ユカリをよく知るレモニカは奇妙に感じる。
「らしくありませんわね。行くか行かないかではありませんか? ユカリさまならば」
「でも聖地でしょ?」ユカリは縋るように頼るようにレモニカに眼差しを向ける。「簡単に登れるものではないんじゃない?」
「簡単ではありませんが、霊峰ケイパロンを領ろしめすトーノート自治区は人種、民族、出身地、そして何より信仰の別なく巡礼者を受け入れていますわ。またライゼン大王国を含め、ケイパロンの神々を崇める全ての国々が霊峰及び自治区へ絶対不可侵の盟約を誓っています。霊峰のどこまで登れるのかは寡聞にして存じませんが。ユカリさまがいつか訪れる際にはきっとわたくしもお供させてくださいましね?」
「うん。約束」
ユカリが満足するまで山を眺めると再び上層へ向けて出発する。
時に大きく時に小さく弧を描く階段を慎重に上り、足場の感覚が不均一な梯子を着実に上っていると時折ユカリが地平線の彼方に目を遣っていることに気づく。初めはまたもやケイパロンに目を奪われているのだとレモニカは思っていたが、どうやらそうではないらしい。その眼差しは探す者の鋭さを宿している。
ユカリは嵐を探しているのだとレモニカは気づく。しかしそれはレモニカにとってどこまでも埒外の存在だ。この旅の間中何度も助けられておいて薄情かもしれないが、未だに風がユカリの旅についてきているという事実、現象をレモニカは上手く呑み込めないでいる。そもそも非生物とも話をできるという魔法少女の魔法があまりにも常識外れ、つまりあまりにも魔法なのだ。動物であればレモニカも動物に変身することで何度か会話をしたことがあるのだが、それとは一線を画している。
結局グリュエーについてはユカリと話ができないまま、延々と続く長い長い階段を上り、中層で裏から見た階層へとたどり着く。
そこは明らかに集落だった。完全ではないが横風くらいは防げる壁があり、塔と一体化した小屋のような、あるいは小部屋のような構造物がひしめいている。
ユカリとレモニカは感心半分呆然半分で街を巡る。呪いに突き動かされたとはいえ、四十年近くの時間をかけたとはいえ、これほどの建造物を建てるのは並大抵の事業ではないだろう。バソル谷の人々へのある種の敬意が湧きあがる。
少し危うげな街路があり、さらに危うげな吊り橋がある。政治を語る広場があり、信仰を説く神殿があり、それらを忘れる酒場がある。今は何も植わっていないが畑があり、どうやって汲み上げているのか清らかな水路や貯水池、楽し気な噴水もある。土には蟻や蚯蚓がいて、水路には鯉やさらに小さな魚がいて、鳥人ではない鳥、雀や鳩が飛び交っている。高さを除けば人が住むに申し分ない。
「さて、聞き込みは私に任せて」とユカリに言われればレモニカは従う他ない。
ユカリに相応しく、レモニカに相応しくない仕事だからだ。だからレモニカは口を挟まずにただじっとユカリのそばで耳を傾けている。
端で聞いていても、どうやら警戒されているらしいことは分かる。それはクヴラフワのこれまでの土地でも同様だった、とレモニカはユカリに聞いていた。四十年近くずっと鎖されていた土地なのだから当然なのかもしれない。余所者など想像の外だったはずだ。
そして何故かエーミのことを知っている者が誰もいない。ユカリとレモニカは首を傾げる。バソル谷が故郷だったという話はエーミの嘘だったのだろうか。だとしてもそのような嘘をつく意味は分からない。
一方で塔についてのエーミの説明は何も間違っていないらしい。
付け加えるならばネークの塔はクヴラフワ衝突以前から存在していたそうだ。話を聞いたところによると、元々ネークの塔自体が古くからの信仰対象で、神である塔の導きに従い、人々は地上に蔓延る呪いから逃れるために塔を継ぎ足すように伸ばしてきたのだそうだ。初めはバソル谷の石材を継ぎ足していたが、ついには基部から石材を抜き取って上方に追加するという無茶をしていたらしい。それでも塔が崩壊を免れているのは信仰の賜物だと人々は信じていたそうだ。実際には『快男児卿の昇天』の副作用かもしれない、とレモニカは想像する。
皆が呪いに囚われているのだ。そして神から与えられた使命だと信じている。怠けた者は塔から突き落とした、と悪びれもなく言っている。
ふとユカリが虚空を見つめていることに気づき、レモニカは眉を寄せる。
「ユカリさま? ……例の幻、ですか?」
ユカリは静かに頷き、幻聴に耳を傾けている。
その幻の正体については未だによく分かっていない。なぜハーミュラーの過去なのか。どうして魔法少女に幻を見せることができるのか。光の像を結んでいるのだとすれば、ユカリ以外の者たちにも見えるはずだ。
一通り眺め、聞き終えたユカリがレモニカに説明してくれる。
「ハーミュラーさんはここで、この塔で希望と出会ったみたい。希望を感じる誰か、ずっと語り掛けていた誰か、クヴラフワを救う力を持った人。ここまでクヴラフワを救う方法を探していたハーミュラーさんは、ここからクヴラフワ救済の旅、そのための魔法の実験を始めたみたいだね」
そうしてユカリはじっと物思いに耽る。
少なくとも今のレモニカたちの目的に役立つ情報を幻から得ることはできなかったようだ。
聞き込みによって得た情報の内、最も重要な事実は塔の頂上に塔そのものを象徴する偶像がある、ということだ。