成績も運動神経も人並みで、目立つこともなくいじめられることもなく、平凡な人生でした。
それが高校の時、席が近く、自分のことを怖がらないというとんでもない単純な理由で不良の一人に気に入られ、たちの悪い先輩を紹介され、もっとたちの悪いチンピラに引き込まれ、さらにたちの悪い商売に巻き込まれました。
悪事の一部が警察にばれ、補導され、学校にチクられ、退学になり、俺の人生は急な坂道を転がるように落ちていきました。
こうして自分でも訳のわからないうちに、不良のように喧嘩が強いわけでもなく、チンピラのように肝が座ったわけでもない、中途半端な高校中退男が出来上がりました。
親にも見放され、自力で這い上がる気力もなく、しつこく付きまとう闇の世界からも足を洗えず、気づけば違法ドラッグの売人となっていました。
週に一度、大本の本部から一週間分のヤクを預かり、一日数件の客に売るだけで、サラリーマンの手取り年収くらいは有に稼ぐことができました。
売人だからといって、ヤクを使うことを強制されることもなく、人を廃人にしながら、自分は驚くほど健康に、スムージーを作り、ジム通いなんかまでしていました。
素性を隠して付き合った友達や、彼女もいました。その中の一人に、この店を紹介してもらいました。
酒の味なんかわかりませんでしたが、俺みたいな底の浅いつまらない人間に対しても、分け隔てなく接してくれる江崎さんに曳かれ、店に通うようになりました。
何度目のときだったでしょう。
江崎さんの奥さんを見た瞬間は、月並みな表現ですが、心臓が止まるかと思いました。
彼女は汐梨さんという名前で、江崎さんの4つ年下の32歳でした。
俺より十も年上でしたが、そんなこと微塵も感じさせない幼さが残る人でした。
いわゆる美人ではありません。
目は大きいけど、団子鼻だし、上唇だけ妙に分厚いし、エラも張っていて、マスクをすればそれなりに見えますが、素顔でいると、よく言って中の上という感じでした。
しかし、うーん。
言葉では表現しにくいですが。
言ってしまえば、色気があるのです。
髪はいつもツヤツヤで美しいウェーブがかかっていて、メイクもナチュラルながら、肌のくすみ、シミ、毛穴なんかは全部カバーしながら、むき卵のようにスベスベ。
それだけではなく、仕草、視線、声の出し方、言葉の選び方、男への触れ方、離れ方・・・魔性の女の本能なのか、それとも綿密になされた計算なのか、とにかく彼女は女性として完璧でした。
それは俺だけが感じていたものではなく、来ている男たちの大半が、目当てとまではいかずとも、彼女と会えるのを楽しみにしていたと思います。
汐梨さんは店に出ると、まず客に一通り、挨拶して回ります。
ただの挨拶ではありません。男が心臓を鷲掴みされるような仕草とスキンシップを加えながら、です。
背中を叩き、膝に手を置き、手をとって自分の頭にのせ、肩に寄りかかり、彼女は実に鮮やかに、嫌みのないボディタッチで、男たちお互いの嫉妬心を煽りながら店のなかを舞う、蝶のようでした。
俺に対してはというと、いつも傍によると誰にも聞こえないような小さな声で「掌だして」と囁きます。
言われるがままにだすと、そこに、ちょうどピースサインを逆さまにし、自分の人差し指と中指の先をトンと乗せてきます。
「横山君はね、私の留まり木。休憩ポイント」
「なんすか、それ」
俺は照れ隠しに笑いました。
「俺にはサービスを手抜きするていうことですか?」
「違うよー」汐莉さんは期待通りの可愛い拗ねた顔をして続けます。
「あなたの前では演技や営業なしでもいられるってこと。わかるでしょ。この意味」
汐莉さんの手が、パタリと力を失い俺の手に倒れ混みました。
俺は思わずもう一つの手で無防備に寝ている手を握りました。
「眠らせないって言ったら、付き合ってくれます?」
一瞬驚いた顔をした汐莉さんは、ふっと笑い、優しく手をほどきました。
やりすぎたかな。後悔していると、さっと、耳打ちされました。
「私ね。夢うつつにするのも嫌いじゃないよ」
彼女は席を立ち、また舞い上がっていってしまいました。
俺はその日から毎晩、汐莉さんを妄想で抱き潰すようになりました。
頻繁に出入りするようになると、なぜかカウンターの中で手伝いもするようになり、そのままバイトとして雇ってもらい、いつの間にか週五で店に出勤していました。
その日の人数や客層によって、汐梨さんが店に出たり、店の奥にあるプライベート空間に引っ込んだり、ときには帰ってしまったりするのは完全にランダムで、彼女自身のさじ加減であるのがわかりました。
つまり俺が週1回くらいしか行ってなかったのに高確率で会えたということは、俺のことを気に入ってくれてたのかなと、自惚れてしまいました。
ただ残念なことに、俺が店員になってからの汐梨さんは、一線を引くように、却って他人行儀になりました。
客としてカウンターを隔てて向かい合っていた頃より、カウンターの中で、視線が合わない方がずっと遠く感じました。
7月の茹だるような暑い日、いつものように早めに行ってドアを開けるとカウンターに両肘をつき顔を挟んだ汐莉さんが文字通り膨れていました。
その日は県内でも有名な地主である、今田家の本家が15名ほど集まって、婚約のお祝いをするということで、貸し切りの予定でした。
六時半から始まるということで、江崎は四時から準備すると言っていたのに、気配はありません。
「汐莉さん。どうしたの」
彼女に問うと俯いたまま答えました。
「今田家、お祝いされる当の本人が夏風邪でダウンしたらしくて、キャにンセルになったの。正嗣が昨日から仕込みしたお食事も全てパー」
「それはそれは。災難でしたね。それで江崎さんは?」
「怒って帰っちゃった」
みるみるうちに汐莉さんの瞳が潤んできました。
「私、元気付けたかっただけなの。だから、落ち込んでいるマー君に『よかったじゃない、お金は全額もらえるんだし、料理は今日来るお客さんにだしたら?』って言ったの。
そうしたらマー君『料理もお酒も、召し上がる人のことを思って準備している。他のお客様にそれを出すのは、違うだろ』って」
正直、江崎さんの意識の高さと、汐梨さんの浅はかさのどちらにも呆れました。
この夫婦、根本的に店に対する考え方が合わない。
汐梨さんは、江崎さんのお酒や料理に対する尊い思いを一生理解出来ないし、江崎さんはそんな汐梨さんの愚かな可愛らしさをわかろうとしない。
「もう、なんなの」汐梨さんの目に涙が浮かびました。それはいつもの芝居がかった表情とは別種の、本当に辛そうでした。
彼女が好きなのは江崎さん一人なのだな。少し喧嘩しただけでこんな顔をするほど。
そう考えると、汐梨さんの日常的な男性客へのいたずらも、江崎さんの気を引こうとしての精一杯のアピールに思えるのでした。
なんていじらしくて愚かで可愛らしいのでしょ
う。
もし相手が俺だったら。
「じゃあ、今日はもうマスターは帰ってこないんですか」
ズズッと鼻水を啜った彼女がまた頬杖をついて答える。「帰ってこないわ。声を荒げたり、ましてや手を挙げるなんて絶対にないけど、気に入らないことがあると、人と距離を取りたがるの。今日は家にも帰ってこないわ」
俺の中で黒い悪魔が産声を上げました。。
「ねえ、汐梨さん、こういうとき、江崎さんてどこに行っていると思います?」
「ーーーどういう意味?」
「やっぱり何も知らないんだ」
汐梨さんが口を結びました。知りたいけど知るのが怖い、彼女の迷いが手に取るようにわかりました。
もちろん、江崎さんは浮気しているとは思ってませんでした。
彼は、汐梨さんにぞっこんという訳ではなかったけど、パートナーとしては大切にしていましたし、そもそも彼は、恋愛に対してそこまで興味がなかったと思います。
でも、俺は江崎さんへの罪悪感は、ありませんでした。
こんなにかわいい汐梨さんが、こんなに悲しんでいるのに何もできない男が悪いんです。
汐梨さんの動きに合わせて、長い髪がノースリーブで露出している肩を滑りました。
「汐梨さん。あなただって、少し休んでいいんだよ。仕事も、妻も」
彼女の目が悲しそうに潤みました。俺の言葉で、ありもしない江崎の浮気を悟ったのでしょう。
「汐梨さん。こっちを見て」
カウンターの隣に座り、汐梨さんの手を取りました。
「俺って、まだ汐梨さんの“留まり木”にしてもらえるの?」
「え?」
「休んでいきなよ、俺で」
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