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練習終わりの体育館裏。
そこは、部室の窓から漏れるわずかな光も届かない、深い群青色の闇に沈んでいた。
コンクリートの壁からは、日中の熱がじわじわと逃げていくような、冷ややかな湿り気が漂っている。
「……赤葦、くん?」
私の震える声が、狭い通路に反響して消える。
カサリ、と乾いた葉を踏む音がして、闇の奥から彼が姿を現した。
ドクン、ドクン。
自分の心臓の音が、静まり返った空気の中で不自然に大きく響く。
彼は無言のまま、一歩、また一歩と距離を詰めてきた。
鼻腔を突くのは、練習終わりの少し熱を帯びた彼の匂い。石鹸の香りの奥に、鉄のような、ひんやりとした「意志」の匂いが混ざり合っている。
「……さっき、あいつと何を話してたの?」
低くて、滑らかな声。
けれど、その響きは研がれたナイフのように鋭く、私の肌を薄く切り裂く。
「え……、ただ、カゴを運ぶのを手伝うって……」
「ふうん。……笑ってたよね、楽しそうに」
赤葦くんの手が、ふいに私の背後の壁につかれた。
ドン、という鈍い衝撃音が、私の背中を伝って脳まで揺らす。
逃げ場がない。
彼の長い指先が、私の耳元でコンクリートのざらついた感触を確かめるように動いている。
「……っ」
視界が、彼の大きな影で塗り潰される。
琥珀色の瞳は、月の光さえ跳ね返して、底の見えない沼のように暗く淀んでいた。
「楓花。……俺がいないところで、あんな顔しないで」
彼の指先が、私の頬をかすめる。
氷のように冷たいのに、触れられた場所が焼けるように熱い。
指の腹が私の唇の端を、なぞるように、愛おしむようにゆっくりと滑る。
ザラリとした皮膚の質感。
重なり合う二人の、不規則で熱い吐息。
「……返事は?」
耳元で囁かれた吐息が、そっと肌に伝わる。
その声は、甘い蜜の中に毒を混ぜたような、抗いがたい支配の響きを持っていた。
遠くで、カラスが不吉な声を上げて飛び去っていく。
私は、自分の呼吸さえも、彼に奪われていくような錯覚に陥っていた。
放課後の部室裏。
西日がコンクリートの壁をどろりと赤く染め上げ、湿った土と、部室から漏れる石鹸の匂いが混ざり合っている。
私の心臓は、喉の奥から飛び出しそうなほど、不揃いなリズムを刻んでいた。
「……赤葦くん。私、赤葦くんのことが、ずっと好きだったの」
絞り出した声が、乾いた空気に吸い込まれていく。
赤葦くんは、スポーツバッグのストラップを指先でなぞる手を止め、ゆっくりと私に向き直った。
琥珀色の瞳。
夕日に透き通っているはずなのに、今のその瞳は、まるで底の見えない深い淵のように冷ややかだ。
「……佐藤さん」
心臓が、一瞬だけ止まった気がした。
「楓花」じゃない。
昨日まで触れるほど近かったはずの距離が、その呼び方ひとつで、果てしなく遠くへ押し戻される。
「ごめん。……今はバレー以外のことに、割く時間はないんだ」
低くて、感情の起伏がない声。
それは、研がれた氷の破片のように私の鼓膜を突き刺し、胸の奥を容赦なく切り裂いていく。
「……え?」
「君の気持ちには応えられない。……それに、こういうのは練習の邪魔になるから、もうやめてほしい」
ザラリ、と風が吹き抜けた。
校庭の砂が舞い、鼻腔の奥がツンと痛む。
彼は一度も瞬きをせず、私の瞳の奥を、まるで無機質な物質でも見るかのようにじっと見つめている。
その瞳に映る私は、あまりにも情けなくて、今にも崩れ落ちそうだ。
「……わかった。……ごめんね、困らせて」
視界が、急激に滲んで歪んでいく。
ポタリ、と熱い雫がコンクリートに落ち、一瞬で黒い染みを作った。
赤葦くんは、私の涙に動じることもなく、ただ静かに背を向けた。
遠ざかっていく、規則正しい足音。
背後で、体育館から響くバレーボールの乾いた音が「パァン!」と高く爆ぜた。
夕闇が迫る中、私はただ立ち尽くしていた。
自分の指先が、驚くほど冷たくなっていることにも気づかずに。
――けれど。
去りゆく赤葦くんの口元が、わずかに歪んだことに。
彼の手が、バッグの持ち手を壊れそうなほど強く握りしめていたことに。
絶望に呑まれた今の私は、まだ、気づくはずもなかった。
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