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【Walküre】
閃光には形がないし、掴むことなんて毛頭できない。
初等教育で学ぶ、当たり前の道理であるが、ときどき、学んできたことを覆す出来事がときとして現れることがある。権力者が描かせた宗教画にしか存在し得ない閃光を纏う存在、即ち神が目の前に現れることがあるのだ。
7歳になるとある少年には親はいない。恐らく戦乱の中で寿命が尽きたものと思われる。気づけば1人きりになっていて、気づけば何処かにバスのような乗り物で運ばれていた。
この中には、自分と同じような年齢の子供達が何人も乗っている。彼らは座席に背筋を伸ばして、前だけを見て全く微動だにせずに座っている。一様に、その瞳たちには生気がない。みな、漂白された色の開襟シャツ、濃紺のハーフパンツにソックスと茶色の革靴。余りにも違いがなさすぎて、まるで工場から出荷される機械のようだと少年は考えた。
外から見える景色は、実に凄惨である。半壊した建物に罅割れた道路、今にも倒れそうな電柱と、絡み合う電線。煤けた空気と、遠くで何かが燃えているであろう、濃灰とどろりとした赤の景色、頭上には落ちてきそうな重い雲――ある種の地獄なのだろう此処は。少年は1人思う。きっと運ばれる先も、姿の違う地獄だとも。そのときだった。
ドシンッ
これは敵の攻撃であったのだろうか。鈍い音、激しい振動、子供達の叫び声、あっという間に壊れていく車――車体ごと大きく跳ねて、その衝撃に合わせて、全てがバラバラになる。それと連動して、乗っていた子供達が外に投げ出されていった。
少年も例外なく、同じように弾き出されて宙を舞った。少年は瞬時に思う。ここまでが自分の人生で、あと数秒で終わりがくることを。先に地面に叩きつけられた子供の身体が裂けて、鮮血の海ができている。その海水の一部に自分もなるのだということも。意外にも何も感慨を抱かずに、そのときを少年は待った。
「…涅」
静かだが、凛として心地よい声がしたと思えば、衝撃音と風を少年は感じる。そしていつの間にか、少年は誰かに身体を抱き抱えられていた。自分を抱き抱えているのは、17歳くらいであろうか?自分よりも歳上の漆黒を纏った少年。彼は飛んでくる衝撃波を刀を振るうことでいなしていく。不思議なことに、その刀を振るうと同じくらい真っ黒な金魚が宙を舞うのだ。その様子を少年は目を見開き見つめる。
やがて、漆黒の彼は抱き抱えた少年の身体を建物の陰になる場所まで運んだのち、安心させるがごとく、ゆっくり地上に降ろした。
「ここは、もうじき戦場の中でも中心地になる……」
漆黒の彼は、少年の頭を安心させるように、軽く撫でた。瞬間僅かに頭上の雲が裂けて、周辺を僅かに明るくする。そのとき少年は、漆黒の彼の姿を初めてじっくり見つめることができた。彼は見たことがないほど美しい、真紅の大きな瞳を持っている。深く輝く紅玉を際立たせる赤子のように穢れなき結膜の部分は、透明感のある白。そんな大きくて切れ長の双眼の縁を、長くて繊細な睫毛が彩っている。
そんな瞳に自分の姿しか映っていないことを想像すれば、少年は身体中の血液が沸騰するくらいの興奮を覚えた。死に際にすら身体は熱を帯びなかったのに、信じられないくらい、少年の身体は熱くなる。
「ここから真っ直ぐ歩いた先に、避難所があるから、そこに行きなさい――俺が離れたら、振り返らずに走ること。わかったか?」
「――わかりました」
「いいこ」
諭すように、できるだけ怖がらせないように、それでも、変に子供扱いせずに漆黒の彼は少年に告げた。対して少年は、返事を返すことで精一杯だった。
双眼が宝石のように美しいだけでなく、姿形全てが希少な端正さを持つ漆黒の少年にかける言葉が見つからない。一方、少年に怪我のない様子を確認した彼は、口元だけで少し微笑む。そして、少年の身体の向きを反対にさせ、背中を軽く叩き「行け」と促した。
少年は素直に従い、前に進み出す。それを確認して漆黒の彼は砂煙立つ戦場へ戻っていった。閃光のように早いスピードで。
漆黒は知らない。約束を破った少年がある程度進んだら後ろを振り返り、戦場で舞う自分の姿を凝視していることを。記録映画の撮影のように、今起きている奇跡のような血に塗れた神楽を、閃光の流れを全て目の裏に焼き付ける――
「生き残りがいてよかった」
少年の後ろから声が聞こえた。そちらを振り返ると、和装に洋装の趣を取り入れた、三つ編みが印象的な身体の大きい紳士が立っている。
「では、行こうか。この戦争は時期に終わるが、真に覆すためにじっくり準備をしよう」
差し出された手の甲には、炎を模った紋章。少年はこれ以上、記録映画を撮影できないことだけを残念に思い、その手をとった。
その後、少年は『幽』と名付けられ、上に立つ教育を受けて、妖術師で組織される『毘灼』の統領に据えられた。あの日運ばれていたのは、統領の卵になる少年たちだと後に知る。幽にとってはすでにどうでもいいことではあったが。
やがて斉廷戦争が終結し、その英雄として掲げられたのは妖刀六工の父、六平国重とその妖刀の契約者6名だった。幽をあの日助けた漆黒の彼はそこにはいない。もしかして、死んでしまったのか?と一瞬頭によぎったが、あの刀も妖刀六工に含まれていないのが不自然に感じた。幽は思う、漆黒の彼は理由があって秘匿される存在であると。隠されると余計にその包みを剥ぎ取りたくなった。
何年かかけ、あれは六平国重の弟であり、国の英雄の願いもあり、あの妖刀ごとその存在を隠されたことを幽は知ることができた。そして、存在をそのように隠す男に対して嫉妬を幽は覚えた。高々血縁風情が、あの閃光を独り占めしているのかと――
時が経つたびに、瞳に焼き付けた記録映画を再上映しながら、幽の中で蓮池の泥みたいなどろりとした愛が、積み重なっていく。そして、腹の中で決めるのだ。全てをひっくり返すときがきたら、あれを閉じ込めてしおうと。あの神のような紅く美しい閃光を。
『ああ、早くあなたに会いたい』
楽座市にて、妖刀六工のうちの真打が出品されると知った六平千鉱は、会場地下に向けて全速力で駆けていた。先に地下には自分の護衛である柴と、陽動を引き受けてくれた伯理がいる。早く合流をして自身の愛刀、淵天を取り戻さなくては。そう考えているうちに、自分を呼ぶ声が聞こえた。伯理が兄を引きつけながらこちらに駆けてくる。作戦が成功していることに千鉱は安堵した。
「ハクリ……!そのまま来い!!」
そう千鉱が言葉を紡いだ瞬間、激しい振動と共に目の前を松のような木々が塞いでいく。さっきまで目に映っていた伯理の姿すら分からなくなってしまった。眼前には黒いスーツを身に纏った長身の男が1人。その手の甲には、兄の国重を殺し、逃げ去る際に千鉱の頬に深い傷を負わせた者たちと同じ印が刻まれている。男は千鉱を見るなり、気味の悪い薄笑いを浮かべながら、近づいてくる。
「あなたは、変わらないな……やっぱり、特別だ。六平千鉱」
千鉱は男の言葉が耳に入らないくらい、動揺をしているが、それを無視して切り掛かりにいく。お前は誰だ?と問えば、自身は毘灼の統領だと名乗った。兄、国重を殺した首謀者とも――千鉱は引き続き切りつけていくが、それに対して男は洗練された体術で応戦していく。妖術を使わないそれに、千鉱は攻略法を探りながら対峙する。
その刹那、強い衝撃で身体ごと飛ばされた千鉱は、その身体を、妖術で作り上げられた木々の壁に絡め取られた。
ゆっくりと、捕らわれた千鉱に男が近づく。千鉱は拘束から逃れようとするが、硬い木々たちがそれを許さない。
「なんで、兄さんを殺した……!!」
千鉱は悲痛な叫びをあげるが、男は悠々と自身が真打を振るうためだと告げる。拘束された千鉱に近づき、男は千鉱に刻まれた頬の古傷を愛おしそうに撫でた。
「今日までの18年長いようで、短かった」
「何を言っている?俺はお前を知らない――」
「……あなたにとって、そこに個はなく、ただ生きる者と死ぬ者を定めただけか」
男は至極残念そうに、頬を撫でながら親指で千鉱の下唇に触れた。ゆっくり顔を男が近づいていく。千鉱は身を捩るが、拘束がそれを許さずに2人の唇が静かに重なった。千鉱の唇の形を愛でるが如く、丁寧に男は味わう。しかし存外早く、唇は離れて男はとても楽しそうに千鉱に告げた。
「ゆっくり話をしましょう……時間はたっぷりあるから」
千鉱はそんな男を睨みつけながら、あと僅かな命である刳雲に指をかけた。
【Walküre:Märchen】
殺ししか知らない3歳児だった俺を掃き溜めから引き上げたのは、生塵と人間の腐敗臭漂うこんな路地裏に似合わない、とても身なりのよい少年だった。
出会ったあの日は、電線や鴉の黒いシルエットが焼きつくくらい赫い夕焼けを覚えている。細いビルとビルの隙間を通って彼はやって来た。そして、今しがた、自分が殺したばかりの中年男性だった肉塊の様子を、彼は興味深く見分しながら、薄汚れた己に手を差し伸べる。
「実に上手にできているな」
差し伸べられた指先は、骨のように白くて爪先はしっかり手入れされている。煤や垢で汚れている自分の指で汚すことが、躊躇われるくらいに整った右手。手の甲には何か模様が刻まれていた。
「磨けばより輝く、宝物みたいな才を持っているかもしれない」
影になって顔はわからないが、笑っているような、そうではないような曖昧な表情を彼は浮かべていると感じた。大きく開かない口からは、身体にゆっくりと染み込んでいく蜜のような声で「一緒においで。名前がないなら、俺があげよう」何て言葉をかけてくる。そのせいか、もう逆らう発想なんて浮かばずに、彼の手をとった。
この日から今日に至るまで、己は『昼彦』という名前で生きている。
あの日、昼彦を拾い上げた少年は名前を幽といった。昼彦より8歳年上で、妖術師集団『毘灼』の若き統領である。
昼彦を拾い上げた当時は側近の男が名代として主に組織を動かしていたが、幽が14歳の頃には彼自身がトップとして完全に役割を果たしている。正にギフテッドチャイルド。そんな特別な存在に拾われた昼彦は、幽自らが殺しの技術の手解き、格闘術や妖術のいろはを教え込まれた。その様子を面白く思わない顔で見つめる構成員もいたが、その視線の一つひとつが、昼彦の中で過大な自己肯定感の種を育んでいく。唯一無二の王様が可愛がる、弟のような自分という存在――
鳳蝶の翅を捥いで見せても、
「美しい翅だから標本にしようか?」
そう言って微笑み。
幽の私邸にある年代物のシャンデリアを悪戯に破壊しても、
「ちょうどメンテナンスの時期だったからな」
そう言って、どこかに連絡をする。
殺しの後始末が雑になっても――
「この失敗は織り込み済みだから、心配するな」
そう幽はその唇を細い三日月の形にして、微笑むだけだった。
何事にも感情の波がない幽に、何年もそう大切に育てられているうちに、1つの謎が昼彦の脳裏を掠めることになる。
毘灼の拠点はその実態を神奈備に悟られないために、複数存在していた。その中に幽個人が所有する通称『私邸』があり、そこには、毘灼の所有する資産価値のあるコレクションの一部や、幽個人の妖術研究ができる環境が整っているらしい。その私邸の中へは、側近の男と昼彦だけが出入りを許され、昼彦は知らない場所がないくらい、行き来していた場所であるが、たった1ヶ所だけ未知の領域がある。幽の執務室の本棚の向こう側にある隠し部屋だ。
妖術と扉自体のギミックで封じられた空間があることを、偶々、僅かに開いていた扉の隙間から、そこへ出入りする様を垣間見ていたときから知っている。その秘密を純粋に知りたいと思い、幽に声を掛けようと、昼彦は見上げてみたこともあった。ただ不思議とその瞬間に限っては――幽に見つめられると「隠し部屋に何があるの?」と問うことができなかった。
日々は流れる。
昼彦が10歳になる歳の6月のある日。その日は梅雨らしい静かな雨が、目覚めたときから降り注いでいた。夜遅くまで妖術の鍛錬を幽の元で行ったこともあり、拠点には戻らずに私邸の客間にて、昼彦は一晩を明かした。窓から見下ろす庭には、青や青紫、薄青、紫の紫陽花が狂ったように咲き乱れている。
額紫陽花やハイドランジア、山紫陽花など多様な種が咲き乱れているが、ここでは暖色系の紫陽花は見たことがない。もしかしたら、ここの土壌が酸性が強いからだとは思うが、なぜそうなのか?もしかしたら、死後、化学変化を起こすとそのものも、吐き出すガスも酸性になる人とかが埋まっているかも……何て与太話も考えてみたこともあるが、真実はこの家の主人しか知り得ない――
「はらへったぁ……」
行儀は悪いが、空腹に耐えかねた昼彦は寝巻きのまま、客間を後にして廊下をぺたぺた歩き始めた。
ヒヤリとした板張りの廊下の感触を感じながら、とりあえず幽がいるであろう執務室へ昼彦は向かう。窓の向こう側から鳴る雨音は、ときどき心臓が脈打つ音にも似ている。『この雨の向こうに神様がいる』と暇潰しに鑑賞した映画の台詞が、昼彦の頭を過ったが次の瞬間には口元は自嘲気味に笑う。そういう存在がいるのなら、どうして自分のような子供がいるのか?と。
昼彦は執務室の扉をノックしたが、中からは反応がなにもない。不在かと思ったがドアノブを握ると、とても軽いことに昼彦は気がつく。鍵がかかっていない、つまり『あの謎』を『秘密』を、解き明かせる好機なのだと気がついた昼彦の胸は踊った。もし、暴いたとしても幽は自分に失望や叱責を与えない――過去の積み重なった出来事が、それらの裏付け。
昼彦は子供には少し重い扉をゆっくりと開けた。
曲線描く大きな窓の向こうには、水蒸気で真っ白になった世界が映る。部屋の1番目立つところに鎮座する上質なマホガニー製書斎机の上は、散らかり1つない。机の材質と揃いにも見える応接セット、その3人掛けソファで、昼寝することも昼彦には何度かあった。そして、天井までぎっしりと、しかしきちんと並んだ書籍達の壁。
手探りで本棚の本達に触れていく。大体、幽が出入りしていた場所は覚えていたので、その周辺を念入りに、しっかりと触れていく。ふと、指先に玄力の反応を覚える。その違和感を感じた本の背表紙には重厚なアンティークゴールドの箔押しで、外国語のタイトルが刻まれていた。
「ここだ!」
幽が来てしまうかもしれないのに、秘密を暴く鍵を見つけて嬉しくなった感情が先走る昼彦は、思わず大きな声を上げる。その本を本棚から取り出すと、その向こうには妖術の紋章が刻まれていた。決して簡易なものではないが、難しいものではない。昼彦は、その紋章に玄力を流し込んでみる。すると「カチッ」と音がし、触れている本棚自体が僅かに揺れた。それを感じた昼彦は自分の直感を信じて、本棚をゆっくりと押し、向こう側の秘密へと侵入を果たす。
6畳程度の小さな薄暗い空間。ここには窓一つすらない。ステンドグラスの間接照明が、幾つか頭上に吊るされていた。それらは点灯していないと、独特の圧迫感を周囲に与える。上質な畳の上には心地のよい絨毯が敷かれて、冷えた昼彦の裸足を癒した。その絨毯の上に、古い型のオーディオ機器が無造作に置かれている。全体的に西洋風の調度品が並ぶ中、衝立の役割なのか屏風が最奥を隠すように立てられていた。黄金に杜若と蒼い蝶のそれは、この部屋に華やかな彩りを与える。昼彦はその向こう側に、『何か』があることにすぐ気がついた。障子の後ろに猫のような生き物がいるような、その類の気配。もう好奇心を抑えることのできない昼彦は、屏風の背後に勢いよく回り込んだ。
「……誰?」
昼彦の眼前には、繊細な彫刻が施された1人掛けソファに腰掛ける少年がいた。髪、ロングコート、コート下の装いも黒く、全てが漆黒の化身のような姿に色を差し込む柘榴石、紅玉のような深紅の双眸。生きた人間と昼彦は最初感じたが、よく見れば精巧に作られた等身大の人形であると理解できた。丁寧に手入れもされて、今にも何か話し出しそうなほど人に近いそれは、自分よりは年上で、幽よりは少し下の年頃に見える。その少年人形は、若さ故の溌剌さよりも危うげな色気の方を纏っていた。
「きれいだ……」
思わず昼彦は、その人形の頬に触れてみたくなり手を伸ばしてみる。近づくたびに色が変化しているように見える美しい緋色が、昼彦の鼓動を早くさせた。指先があと数センチで触れるかどうかの瞬間に、続くはずの静寂が終わる。
「触るな」
「――!?」
背後から聞こえた、穏やかではあるが、ある種の冷たさも感じる声に昼彦は恐る恐る振り返る。そこには、昼彦の育ての親のような存在、幽が立っていた。でも、いつもと違うのは、その視線や声色に確かにわかる感情が乗っているということ――明らかに、幽の小さな怒りが伝わってくる。
幽は昼彦の差し伸べていた手の手首を掴み、人形から引き離す。手首を掴まれた昼彦は特に抵抗もできず、そのまま幽に引っ張られ隠し部屋を後にすることになった。幽の隠していた秘密。きっとあの人形が鍵なのだろう。それは、いつもアルカイックスマイルを浮かべる彼の大切な秘密。
幽は隠し部屋の扉閉じ、再び本棚の裏に閉じ込める。恐らく、後でより高度な妖術をそこにかけるだろう。2度とあの人形には会えないのだと、昼彦は思った。隠し部屋から出された後、ずっと幽の背中しか見ていない。次に見える表情が何かと考えれば、昼彦は感じたことのない恐怖を覚える。怒り、悲しみ、失望、侮蔑……どんな視線を向けるのかと冷や汗が背中を一筋流れ――
「朝食がまだだったな、行こうか昼彦」
そう言って振り返り、幽が見せた表情はいつも通りの彫刻みたいな微笑。
幽の背中を見つめる形で、廊下を進んでいく。相変わらず外は雨が止んでいない。じめりとした湿度の空気が不快に感じていた昼彦に、意外にも幽から話しかけてきた。
「……あれは外付けの記憶装置代わりだ」
「『あれ』ってあの人形のこと?」
「そうだ」
「――きおくそーちって?」
「どれだけ覚えておきたいことでも、記憶は変質していく……それを最低限にするために、記憶の中の姿を形にした」
「……ふーん、よくわからない」
昼彦の返答に、幽は少しだけ笑い声を上げる。なんだか少し馬鹿にされたような気分がした昼彦は、悪戯そうな声で幽に問うた。
「ねぇ、人形のモデルは幽にとってどんな人?」
背の高い幽を見上げながら、昼彦はその答えを待つ。幽にしては珍しく少し悩んでいるように、昼彦には見えた。漸く幽が口を開いたのは、1階の端にあるダイニングルームの前だった。
「『幽』になる前の最後に見た至高の景色、『幽』になった最初から欲しくて仕方ない存在」
そう告げた幽の表情は、昼彦が見たことのない人間のものだった。その年相応の表情は、もしかしたら、これは『幽』になる前の――などと昼彦は考えたが、考えたところで答えが出るとは思えなかったので、疑問は腹の中にしまっておくことにした。
昼彦が18歳のとき、毘灼が表立った活動を始めたときに漆黒と深紅の剣士が立ち塞がる。その姿は、あの人形が時を経て成長した姿のようだった。
【Walküre:Walzer】
六平千鉱は、楽座市で久方ぶりに勾罪と邂逅を果たした。斉廷戦争に幕を下ろす決め手となった一振りの力は、その刃を抜かずとも絶大なものであり、あれを攻略するにはどうすればいいのかと頭を悩ませる。兄である国重が言っていた通り、2度と振るわせてはいけない刀であったと身をもって千鉱は知った。
楽座市会場が瓦解してから2日ほど、千鉱は眠ってしまっていた。隣で眠っていた伯理は1日で目が覚めたらしく、そこに10以上の年の差を、感じさせずにはいられず千鉱は苦笑いを浮かべる。先に目覚めた伯理は、神奈備での取り調べのため先に移送された後ということは、ベッドのそばに控えていた護衛の柴から伝えられた。
千鉱にも神奈備での取り調べがあると、柴が不満げな顔で告げてくる。年若く精悍であるが千鉱には懐く忠犬のような青年は、自身の所属する組織に対して度々反抗的な態度を示す。自分自身の能力にプライドを持つが故の反骨精神なのだろうが、千鉱から見ればその青さが眩しく映る。
「支度をするから、少し時間をくれないか?」
「もちろん!急かしたりせんので、チヒロさんのタイミングで出ましょ」
「一応、お前組織の人間だろ……適当でいいのか?」
「ええねん、あの堅苦しいジジィどもに使う気遣いがもったいない」
「そういうものか?」
「そういうもんでええねん!」
西の方言混じりの柴の話し声に、身体の中にまだ燻っていた緊張がすっかり解れる。柴は立ち上がると車の手配をしてくると言い残し、部屋から出ていった。閉じたままだったカーテンを開けると、朝の時間を少し過ぎた午前11時。あの血生臭い喧騒が同じ空の下で存在していたとは思えないほど、穏やかな11月のワンシーンが広がっていた。
神奈備専用車に乗車し、柴と対面になる形で千鉱は座した。ゆっくりと動き出す車の振動を感じながら流れていく。窓越しに生きる当たり前の生活をする人々を見つめると、彼らの大半は六平国重も妖刀も、誇り高い英雄だと思っていてくれるだろうと、千鉱は思わずにいられない。それが反転してしまうことなんて、決してさせない。そう、思いながら流れ行く景色を千鉱は眺めていた。平坦な道路から、迂回用の立体道路に道が変化し、生活風景から無機質なビル群へと風景が変化する。その数分後であろうか、進行方向から爆発音と膨大な玄力を察知する。
「チヒロさんっっ!」
瞬時に柴が千鉱の手を取る。彼の瞬間移動の妖術で瞬時に車から脱出した。乗車していた車は何とか急カーブを切り、停車していることを確認し千鉱は安心する。
「柴、後続の車の誘導と応援を呼べ」
「――あんたはどうするんや?」
「恐らく、毘灼の仕業である可能性が高い……どちらにせよ、早めに対処するに越したことはない」
「病み上がりで無茶や!俺も一緒に――」
「民間人も多い状況だ、彼らに被害を及ぼしたくない――頼む、これが最善だ」
柴は千鉱に対して、何か言いたげに眉間に皺を寄せるが、言葉を飲み込んだまま行動を開始しようとした。その時である、立体道路が大きく揺れ千鉱の立っていた場所に亀裂が走る。
「手ぇ、伸ばして!チヒロさん!!」
「柴――!」
互いに手を伸ばすが、その指先同士は空を切り、千鉱は割れた道路の隙間に吸い込まれていくように、落下していく。
「――っあ!」
すでに届いていないが、往生際が悪く柴は手を伸ばし続ける。その刹那、空間自体が揺らめき、今視界に映っていたひび割れ壊れた道路自体が、特に異変のないものへと姿を変えてしまった。まるで、最初から亀裂なんてなかったかのように――
落下していく自身を千鉱は、僅かな時間でどうするのが適切かを思考するが中々考えがまとまらない。どうしてもの場合は、錦で身体を強化して衝撃に耐えるしかないかと考えた次の瞬間、見える範囲全てが水のようなもので覆い始める。まるで金魚鉢の中のように千鉱の身体を包み込んで拘束していく。液体の中では呼吸も困難で、あと数分このままなら意識を失うことを察知した千鉱は、渾身の力を淵天に込め集中を極めた。
「涅 千!」
漆黒の金魚達が、数え切れないほど水の中からその外へ向けて放たれた。その衝撃に水塊は波打ち、やがて形を保てなくなり、千鉱の身体を解放する。水の塊と共に地上へ落ちたこともあり、落下に伴う衝撃は最小限にはなった。それでも水中に拘束されたことによる、酸素不足はすぐに治ることはない。千鉱は、何とか片膝立ちの姿勢を取り、できるだけ呼吸を整えようと意識を集中させるように眼を閉じた。
「さすがは、斉廷戦争で腕を振るった名もなき妖刀契約者。この程度の妖術でへし折るなんて、無礼でした」
パチパチと軽い拍手と共に、頭上から尊大な男の声が聞こえる。はっと顔を上げた千鉱の前に立つのは、整った身なりの青年、楽座市の地下で交戦した毘灼の『統領』を名乗った者。
「立体道路での騒ぎは、お前の仕業か?」
「――さあ?そうだと俺が言えば、あなたはどうする?」
「……言わなくても、わかるだろう?」
千鉱は、手中の淵天を構え直す。鋭く光る真っ赤な瞳で、眼前の敵を睨みつけた。それに対して、焦る様子も特に見せず、毘灼統領は千鉱に近づきながら優雅に話し始めた。
「先ほどの道路の亀裂も、水塊もただの幻に過ぎないが……今、ここで俺たちが戦い始めれば、何も知らない一般市民への被害もゼロとは言えない」
千鉱は辺りを見渡すと、落下した真下は人気の少ない広場であったが周辺には複数の会社が入っているビルや、マンションも目に入る。
「もし、その被害を生む原因が妖刀だと人々に思われてしまえば?あなたはどんな表情を見せてくれるだろうか――」
目の前の男は、実に楽しそうに千鉱に向けて語りかける。一方の千鉱は、この場で戦うことの影響について考えを巡らしていた。自身の言葉が届いていないことを悟った統領は、千鉱のそばに跪いて、さらに語りかける。
「先日は、余りにも中途半端に終わってしまったから心残りだったんです……俺は、あなたとゆっくり話がしたい」
兄を殺した者達と同じ、黒い炎が描かれた右手が千鉱の顔に近づく。やがて千鉱の顎に触れ、顔を無理矢理上に向かせた。それに対して、不快そうに千鉱は眼を細める。ただ、この状況が続くことのメリットはないので、意を決して毘灼のトップに向き合った。
「――3時間、それだけお前に時間をやる。その間だけ、好きに俺に話しかけるなりすればいい」
現状、優位な立場であるのは千鉱ではないはずだ。しかし、豪胆にも発言をする千鉱の様に、統領である男は実に満足気な表情を浮かべる。顎に触れていた右手でそのまま千鉱の大きく刻まれた顔の傷跡をなぞり、指先で下唇に触れた。
「じゃあ、その時間はあなたは俺のものですね」
そう男が笑みながら呟くと、2人の身体が炎に包まれて、その場から消え失せた。
千鉱が次に気がついたとき、頭上には首の長い恐竜の骨が宙を舞っていた。濡れていたはずの全身はすっかり乾いている。静寂のさらに上位の無音、少しばかりの空気の冷たさ。周囲を見渡せば、何億年前は地上の主であったもの達の骨格標本が勢揃いしていた。
千鉱自身が立つ、どこかの博物館であろう場所は、仄かに薄暗く人の気配はない。隣にいる仇以外は。
「ここは、妖術でできた幻覚か?」
「さあ?あなたが、幻と思えばそうかもしれない。但し、現実世界と繋がっていないという保証はできない」
非常に曖昧な返事を返す男に、千鉱は何か告げようとしたが、今の状況を反転させることは不可能に近いと直感で感じ取る。下手に騒がずに、この男に暫く付き合うことが得策であろうと千鉱は考えた。
「では、この3時間がせめて平穏に過ぎることを祈るだけだ」
まさか、あの約束を忘れていないだろうな?という意思を込めて、統領である青年を一睨み千鉱がすれば、彼は逆に悦の入った幸福な表情を浮かべる。
「――信じられないと思うが、約束は約束として今回は守らせてもらう」
そう言った男は千鉱の左手を取り、次の部屋へと進み始める。そして、引っ張られるような形で千鉱も歩み始めた。
過去に確かに命を持っていた彼等が、イレギュラーな客2人をそれぞれ2つの目でじっと見つめる。かつて世界のどこかに実際に生きていた生物の剥製が、ガラス張りの空間にぎっしりと並び立っている展示室。彼らに共通するのは、人間の都合で絶滅してしまったこと。生々しく豊かに整った剥製を眺めながら、毘灼統領は口を開いた。
「今は、毘灼統領という立場と、幽という名が与えられている――元々の名前も、育ちも何もこの身体には残っていない……絶滅した生物のように虚無だ」
2人は歩きながら、多様な抜け殻達をじっくりと眺める。その光なき眼は、人を責めているのか、そんなことすら愚かしいというのか、千鉱にはわからない。ただ、幽と名乗った毘灼統領の言葉を反芻しながら、無数の瞳達をじっと眺める。その様子を見つめる幽がさらに言葉を紡いだ。
「『幽』になる前の唯一の記憶――何者でもなかった俺が、俺と同じような子供達と同様の死を迎えるはずだった瞬間、漆黒と深紅のワルキューレに生者側だと振り分けられた……」
「それが、俺だったというわけか?申し訳ないが、俺はお前を覚えていないし、ヴァルハラに導く戦乙女でもない。ただ戦い、ただ目の前の命を救えるだけ救った。それだけのこと――」
新たに言葉を紡ごうとした千鉱の口は、幽の唇によって簡単に塞がれた。千鉱は、すぐに身体の距離を取ろうと行動に移す。しかし、その身体は上背のある幽によって、腰をしっかりと抱き止められ、あっという間に拘束された。
餓鬼のように貪るのではなく、美食を堪能する評論家のように、丁寧に千鉱の唇を幽は堪能する。一旦離れては、磁石のようにまた重なり合う。幾度もそれを繰り返しながら、千鉱の口内を舌で幽はさらに犯し、その薄い舌も、歯列も、頬の内側の肉壁すら余すことなく汚していった。
千鉱の鍛えられているがしなやかな細腰は、幽の左腕でしっかりとホールドされ、右の掌は千鉱の頸から背中の輪郭を辿るように、ゆっくりと這わされていく。色事にも見える行為は、千鉱の内に秘めた官能を引き出すための手段ではあるが、理性でその感覚を千鉱は殺していくので、彼が堕ちることなかった。
幾らか時が過ぎ、唇同士が離れて透明な糸がぷつりと切れる。唇が離れても、幽は身体の拘束を解くことはなく、腕の中にいる千鉱を、愛しいものを見つめる瞳で見つめていた。一方の千鉱は、そのむず痒い視線に耐えることができず、無理矢理身を捩る。そして、幽の胸を押して漸く自身を解放させる。
「――あなたが覚えていないとしても」
距離を取り、唇を拭いながら呼吸を整える千鉱に向けて、幽が語りかける。
「何者でもない子供の最後と『幽』の始まりには六平千鉱、あなたがいた。俺の中でそれは変わらない、忘れたくないたった1つの美しいものだから――あなたが欲しい」
返答は何も発せずに、ただその言葉を綴った彼の表情を千鉱は見つめる。それは初めて対峙したときとも、先ほどまでの不遜な様子とも異なったもの。ただ見知らぬ少年の寂しげな微笑みだった。予想外の表情が視界に飛び込んできた千鉱は、先ほどまでの行為の余波と熱が残っているにも関わらず、不思議と毒気を抜かれてしまう心地を覚えるのだった。
いくつかの展示室を巡る果てに、黒い壁一面に世界中の鉱物を展示する部屋に辿り着いた。地球が産み出したとは俄かに信じられぬ、千鉱の瞳のような柘榴石や紅玉の原石をはじめ、多様な色彩が視界を彩っていだ。
部屋の中央には休憩用の革張りのソファがあり、その部屋の最奥には『出口 再入場はご遠慮下さい』の案内板と観音開きの扉がある。恐らく最後の展示室だろうそこには、千鉱の心に残る、今はなき工房内で目にした砂鉄の塊も並んでいた。その鈍い輝きを愛おしむように、見つめる千鉱にソファに腰掛けた幽が話しかける。
「――どうして、あなたは六平国重のため、妖刀のために戦うのか?」
千鉱は後ろを振り返り、幽を見やる。返答までにはそれ程時間はかからなかった。
「大切な人の『特別』を守るため、クズにそれを汚させないため……これ以上の理由があるか?」
さも当然と言わんばかりに、千鉱は言い放ち、そして真っ直ぐに幽のどこか不可思議な瞳を見つめた。一方の幽は、千鉱の豊かな緋色の視線を逸らすことができない。ずっと焦がれていた天上の宝石よりも稀少な色彩を、真っ赤な閃光を――再び独り占めできている現実により深く酔いしれたいのにも関わらず、再認したくない現実を、千鉱は告げてくるのだ。幽の内で押さえつけた秘めた微かな反発心が、静かに口から溢れ出した。
「その『大切な人』とやらは、何を与えた?妖刀を振るい、国を守ったとしても英雄に数えられず、秘匿され存在しなかったことにした。栄誉や名声、労力に見合った報酬は誰しもが望むだろう……六平千鉱、あなたは――」
さらに言葉を綴る幽の唇は、いつの間にか距離を詰めて屈み込む千鉱の――左の親指を押し当てられることで封じられる。そして、残りの指はゆっくりと幽の頬に置かれた。
「……もしかしたら戦争の最中、お前を救ったのかもしれない。そして、その光景が『過去のお前』にとって大切なものになっているなら、その幼い感情には感謝する――」
そう穏やかに語りかけながら、千鉱は幽の左頬に触れるだけの接吻を落とす。柔らかな感触は一瞬で遠のき、千鉱は再び深紅の瞳で、少しだけ吃驚した表情を見せる幽を見据えた。
「ただ、あの戦争に英雄の冠を被せるべきは兄であり、妖刀六工の契約者達……見える側面が変われば価値も変わる」
千鉱は左手を幽の頬から離し、姿勢を整えながら言葉を紡いでいく。
「それだけだ――ただ、俺が置かれていたあの日々は、お前達が壊さなければ本当の幸福だった……!だから、俺はお前達を許さない」
ブーッブーッ
2人の空間に割って入る携帯電話のバイブ音。その音を聞き、千鉱は幽から離れると、携帯機器を取り出して振動を停止させた。
「3時間経った、約束はここまでだ」
いつの間にか、千鉱はアラームが定刻になれば鳴る設定をしていたのだろう。幽に背を向け、千鉱は出口に向かい足早に歩き始める。扉の前に辿り着くと、すぐにそのノブに千鉱は手をかけたが、それを遮るように千鉱の手の甲に、幽の掌が重なり包み込む。それを握る千鉱の手を幽の指先が柔く外そうとするが、思い通りにはいかない。千鉱の短く整えられた指の爪の根本に、幽が触れても反応は返さない。ただ、滑らかな千鉱の皮膚の上を撫でるだけの攻防戦が巻き起こる。
「……約束だっただろう?これで終いだ」
呆れと僅かな怒気に孕んだ声色で、千鉱は振り向かずに幽に話しかける。それに対して幽は気にせずに言葉を繋ぎ始めた。
「はじまりは、あの日。目の前の閃光に焦がれて、始まった愛だった。それが月日を越えて対峙し、今こうして触れている――触れられる閃光なら手に入れたい」
「……?!」
気配の変化を悟り、千鉱は臨戦態勢を取ろうとしたが、その刹那扉が僅かに開いた。ここから出さずに、閉じ込めるのかと考えていた千鉱は驚き、背後の幽に向け少しだけ顔を向ける。千鉱の瞳に映る表情は、感情の読めないアルカイックスマイル。その主は、実に優雅に千鉱に話し始めた。
「約束は約束だ、物足りないが今日は我慢しましょう」
千鉱の手の甲を隠していた、幽の掌が離れていく。幽は一歩下がり、千鉱を見つめながら言葉を続けた。
「それでも、次に会うときには――あなたの全てを俺のものにする」
扉が完全に開き、千鉱の目の前にはどこかの路地裏が映る。この先は現実の世界。そこに足を一歩踏み出した千鉱は、幽の告白染みた言葉達にアンサーを送った。
「――酔狂なやつに、渡す身など1つもない……さよなら、少年」
扉が閉じるまで、千鉱は幽に視線を向けることはなかった。