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【毘灼幹部 久々李の手記】
⬜︎20××年4月1日 天気 曇り時々俄雨 気温19° 位
時折降る春雨のせいか、肌にまとわりつくような外気が気持ちが悪い1日だった。しかし、午前中非合法に密輸した新たな武器達が保管庫に到着し、眺めている時間は中々に楽しかった。並ぶ武器全てが、命を奪うために生まれてきた存在。ひやりとした金属の感覚が掌を伝ってくる。自らの触覚を通して、どの武器と理解を深め両思いになれるのか、想像するだけで正直興奮した。
ところが、15時か16時頃だったろうか、拠点内がいつになく騒がしくなり始めた。普段慌てることを見せない、いつも和装に身を包んだ統領側近に焦りが見える。何があったのか?と尋ねる。
「何が起きたかは正確にはわからない」
「1つだけわかることがある」
「スナッフパーティーが壊滅させられた」
という、実に情報が薄味な返答だった。
俺自身は管轄外であったが、スナッフパーティーは最近人気になりつつあるビジネスであったことは事実。身寄りのない子供を拐かし、栄養状態を確認する。ある程度身なりを整えてから、毘灼では昔から取り扱っている通称『檸檬飴』と呼ばれる違法麻薬によって薬漬けにした。そして酩酊して爽やかな夢心地の子羊らを、優雅に食事を楽しむ別室にいる客人達がモニター越しに見守り、解体しその様に拍手喝采するのである。不思議なことに、子羊に投与されるこの秘伝の薬は、脳には影響を与えつつも、身体への悪影響は殆ど与えない。よって、バラされた鮮度がいい若い肉体は、解体後すぐオークションにかけられて、文字通り血肉も残さない何とも変態的な催しだった。
変態的であり特殊な集まりであったので、情報の機密性は最高基準で高く設定していた。漏洩の恐れはほぼ考えられない。それこそ、警察上層部や政治家にも顧客はいたので抑える圧力は十分であったはずだ。
それでも、このような事態に陥るのだからこその混乱である。組織全体で事態の収束に奔走するのであろう。今からきっと数日は眠れないと考えると、軽く絶望した。
⬜︎ 20××年4月4日 天気 雨 気温20° 位
しとしとと振り続ける雨は、満開の桜を散らしてしまうのであろう。ただの草木に意識が向くということは、少し行く道が見えてきたからであろうか?両思いになれる武器はまだ見つかっていない。
昨日、パーティーの跡地から無事な監視カメラを回収できたと報告が上がった。スナッフパーティーはどうやら公安により壊滅させられたらしいことは、1日の時点ではわかっている。パーティー壊滅後会場には警察関係者が出入りしているので、こちら側の干渉は厳しいものがあったが、内通者や協力者の力を持って組織の存在を示す証拠は大抵潰すことができた。との報告を統領側近から、その他の毘灼幹部達へ、そして統領幽へ伝えられる。
真面目に聞いている者もいれば、折り紙を折って遊ぶ昼彦のような者もいる。わがままだな。おい、いくら幽の気に入りだからって勝手するな。そんなことを考えていると、統領側近が咳払いを1つし、現状報告を進める。
「既出の現状であるが、別室にいたVIP達は会場外で待ち受けていた警察によって捕縛。パーティー会場の運営側は上から下まで殺傷されていた。驚くべきことに、全て同じ得物ーー刀による傷が全員の死亡原因であり、切りつけ方から恐らく単独でなされたものだ」
その事実に室内が一瞬騒めいたが、統領側近は続ける。
「だが、先に報告した通り会場内のカメラは全て潰されていたが、1つだけ辛うじて生きているものがあった。それでもほんの1分に満たない映像だ、画質も荒いため犯人の判別がつくかは不明……」
告げられる内容は、俺も正直信じられなかった。それは幹部全員が同様の感情を抱いていたと思う。少しの落胆に部屋中が包まれたが、それを断ち切ったのは幽だった。
「ならば、映像の解析は俺が行おう。今回の損害は後からどうにでもカバーできる。ただ、おいたをしでかした人間の首は晒すべきだ。それも盛大にな」
そういうと、アルカイックな微笑みを浮かべ側近から映像媒体を受け取った。我らの帝王は率先していつも動くのである。その姿に対して自分を始めとした部下は安心と心の余裕を持つのであった。
⬜︎20××年4月11日 天気 曇り時々晴れ 気温21°
みかじめ料を回収しに朝から外出していた。本当は昼彦の管理する領域であるはずなのに、退屈な仕事とわかるや否や俺に擦りつけられた。覚えてろよ。移動中、車から見えた疎水には散った桜の花弁が詰まっていて、花筏になっていた。春が少しずつ終わりつつあるのを感じる。
スナッフパーティー壊滅から10日ほどたったが、特に新聞もTVもネットですら無反応であったことから、情報操作や圧力が効いていることを実感した。
幽の映像解析は難航しているのか、その他の仕事も並行しての作業だからか、音沙汰がなかった。比較的組織には大きいとも言える被害であったが、致命傷にまでは至らなかったため、今では通常業務に戻っている。まあ、そのうち色々わかるだろうとぼんやりと考えながら拠点の扉を開いた。
「今日の報告は、私邸で受けると幽からの伝言だ」
統領側近から帰還早々に告げられた。私邸に出入りするのはこの側近と、幽がやたら可愛がる昼彦くらいしかいない。玄関先までは訪れたことがあるが招かれたことはない。少しの非現実に、俺の胸はいつになく踊った。
幽の私邸はセキュリティを固めた山の奥にある、日本風ではありつつも西洋の香りを仄かに感じる懐古主義な洋館であった。それ程大きくはないが、1人で生活するには十分に広い建物である。噂によると、地下に毘灼の中でもとっておきのコレクションがあると聞く。まあ、与太話だろうが。
夜も遅くに到着したが側近に渡された鍵を使い、館の中に入る。先に説明を受けていた2階の1番北端の執務室へ足を進めた。年代物の艶が美しい木製の扉をノックする。すると「入れ」と小さく返事が返ってきた。
曲線を優美に描く鉄格子が嵌められた大きな窓、自分には価値がよくわからない、天井までずらっと並んだ書籍の壁。部屋の1番目立つところに鎮座する上質なマホガニー製書斎机の目の前には、揃いにも見える応接セットがある。美しく深い黄褐色の木目と、繊細なゴブラン織で構成されたソファに座れと、俺は幽に促された。
随分と機嫌が良さそうな幽が、何かのむか?とか、今日は昼彦の代わりにありがとうといった労いの言葉をかけてくる。久々李は本当にいつもよくやってくれるなんて、ストレートな賛辞に少し照れてしまい、言葉を返すことができなかった。
何とか今日の報告を済ませて、そろそろ帰ろうかとしたとき、ふと質問したいことが浮かぶ。
「そういえば、あの映像解析終わったのか?」
多分終わってないよな?とか、あとどれくらいかかりそうか?位を何となく知りたい程度の質問だった。それに対して幽は予想外の答えを示した。
「終わっている」
その返事に対して「今日か?」と尋ねたら3日ほど前には解析が終わっていたという。では、何で誰にも報告しないのか?ともう一度問うと、少しだけイタズラな表情を見せて、こちらにこいと手招きした。素直に従い傍に寄るとパソコンの画面を見せてくる。一時停止された動画。それを徐に幽は再生し始めた。
スナッフパーティーのメインイベントが行われる白い部屋。映像は覆面の男達が、飾りのない寝台に横たわる少女の右腕を切り落とす瞬間から始まった。突如黒い閃光のようなものが現れ、覆面達の首を刎ねたのだ。ゴトっという落下音が響き、勢いのよい赤い噴水は左右に揺れた後、白い床に生臭い海を作った。
黒い閃光はスーツの男で帯刀している。画質が荒いものしか……と聞いていたが、幽の技術故か随分と鮮明に姿がわかった。
少年と青年の中間にいそうな佇まいに、頬に大きな傷跡、何より映えるのは紅玉にも柘榴石にも引けを取らない真紅の双眼。肉眼で見なければはっきりとはわからないが、随分と端正な人殺しである。その男は、腕を落とされショック死した生贄に近づき、命が戻らないことを悟ると慈しむように、見開いた少女の瞳に掌を翳し、眠らせてやった。ここで映像は終わっている。
一瞬の映像であったが、一本の短編映画にも思えた。
「ーー実に心惹かれると思わないか?」
急に幽が話しかけてきた。その声には興奮が少しだけ感じ取れる。
「高潔さでもって目の前の敵を容赦なく裁くが、か弱き者への憐憫と情をかける理性を強く保っていられる。そして、何よりあの瞳の美しさ。刈り取ってしまいたくなる」
刈り取って、自分色に染め上げたらなんと楽しいだろうか。どうやって染め上げよう?そうだ、贄に使う「アレ」で溺れさせてみようか……
そう言いながら、幽は画面に映る傷の男を指先でなぞった。
「3日前に初めて触れて、この58秒しかない映像を何度も繰り返し見つめて独り占めしていた。それでも、毘灼統領としての仕事は果たさないといけないから、明日報告会を開く」
引き続き語る幽の顔を覗き見た。自分の組織に大損害を与えた存在を認知した後とは思えない、とても楽しそうで、見方を変えれば恋している表情を浮かべていが、目の奥はぐらぐらと煮えたぎるような欲の色が隠せない。底を見ることができないほど、どろりとした色彩。
ああ、この目は良くないのだ。この目をするときの幽は誰も止められないーー
気まぐれに暴露の先出しをされた俺は、空に浮かんでいる月を帰路の途中に眺めながら、あの人殺しの将来を少しだけ憂いた。幽はあの目をしたときに手に入れられなかったものなんてない。きっと、悍ましく残酷な方法で狩られるのだろう。
それを思うと、春なのに背筋が凍った。
ああ、早く自分の部屋に帰ろう。
【公安課所属刑事 柴登吾警部の回想録】
✳︎
3月31日の朝、いよいよ明日大きめのヤマが動く。
上手くいけば、うちの上層部の膿、燃料にならない化石達をまとめて廃棄処分できるかもしれへん。こういう日の前日は、何をしているわけでもないのに、身体が火照るような高揚感に満たされる。祭りの一種?やからかなと相棒である年下の青年に言えば、呆れたような目できっと見つめられることは間違いない。まあ、その視線はある種の人間にとってはご褒美のようなもの……いや、俺はそういった趣向は持ち合わせてない。どちらかと言えば加虐性愛者傾向のが強いはずや、今までのオツキアイで相手側には大体そう言われてたし……あの子だけが、多分特別なんや。
俺の話になったから、話を戻すわ。
明日は、漸くスナッフパーティーの会場を直接攻め込む決行日。治安が正直終わっている世界で、とあるこの島国の名前しかわかっていないマフィア「毘灼」が動かす、どんな変態が考えたのか、いやどれだけ頭の可笑しい人間の趣味嗜好を理解した人間がプロデュースしたのかわからないパーティー。非力な子供を誘拐、薬漬け、解体ショー、新鮮な臓器のオークション……よくもまあ、こんなイベントを実施できたかと思う。そんなイベントに惹かれているのも、権利者側が多い事実を調査の中で理解していくと、その実施ができる豊かな土壌の正体が見えてきて正直憂鬱になった。まあ、所詮人間社会はこんなもんやろう。それを少しだけマシにするのが、俺らの仕事や、多分。
ここまでくるのに、正体のわからない捜査妨害や、チームメンバーの理由が不可思議な左遷退職も相次ぎ、決して平坦な半年ではなかった。しかし、どうにか残った数人ととても頼りになる相棒がいる。明日は必ず上手くいくと信じるしかない。
その相棒のチヒロ君は、目の前で明日の潜入ルートを内部資料片手ににイメージトレーニングしている。人員不足のせいで、実際の潜入はチヒロ君の単騎によるものになった。外からの指揮を俺しか対応できず、これも人員が削りに削られた結果で腹立たしいが、組織内で新人と言えども、チヒロ君ならどうにかできるやろうとの信頼がある。そんな彼は波の立たない湖のような静寂を纏いながら、伏せた長い睫毛も動かないくらい真剣な様子である、多分俺が見ているの気がついていない。
この子とは古くから、それこそ彼の父が生きていたときからの付き合いであるが、年々年齢も性別も不明な色気を身に纏いつつある。それが、元々の大きく切長な真紅の瞳によるものか、構成するパーツが全て作り物みたいな顔立ちによるものか、しっかりと鍛えられているがしなやかな姿によるものか……それら全てによるものなのかは、断言はできへんと思う。退屈な言い回しでいうなら魔性なんやろう――
「柴さん、見過ぎです」
何かありますか?とチヒロ君が首を傾げて見つめてきた。随分と長い間盗み見していたみたいや。それに対して「ゴメンゴメン」と軽めに返して、何か飲み物いるか尋ねたらブラックコーヒーを御所望のようなので、進んでパシリに立候補した。扉を開けて、自販機に向かう俺にチヒロ君が声を掛けてきた。
「あの……明日はよろしくお願いします、柴さん」
真っ直ぐな混じり気の一切ない、鳩の血のような双眼でチヒロ君が見つめてきた。俺はこの色彩が本当に好きやった。
「もちろんやで、地獄まで一蓮托生で行こ?」
「俺の方こそです、頼りにしてます」
俺の顔を見て、チヒロ君が少しだけ安心した微笑みを見せてくれた。本当に君はかわええね。明日は頑張ろな。
✳︎
ここ数日は本当に怒涛やった。今日は4月4日。突入からまだ3日しか経ってへんなんて……
スナッフパーティーを壊滅させてから数日。会場内の現場検証、チヒロ君により裁かれた組織の人間達の収容、まだ解体される前だった被害者たちのケア……その他にも様々な事象が重なり、直近何日かの睡眠時間は合計しても二桁には届かない。しんどいわ、ほんまに。
パーティー参加者に含まれていた警察関係者が想定よりも多く、組織内部の人員再構成が急ピッチで進められている。これで、今までよりもマシな組織になればいいなと思う。しかし、今回の功労者でもあるチヒロ君に、要約すれば『必要とは言え、余りにも暴れ過ぎ』という『いちゃもん』つきな理由で始末書と数日の謹慎が言い渡される位にはまたまだ腐った組織であるのが現実だ。改革はまだまだ先やろな。
根が本当に真面目なチヒロ君は、現在始末書と格闘中である。この始末書を提出後、自宅での謹慎に入る。かくいう俺も『後輩であるお前の相棒、もう少し管理しとけ。監督者責任』なんてだるい理由の始末書とにらめっこ中。ほんまにあのジジイども、命あるの有り難く思えや?余りにもイライラが止まらないので、一旦ショートブレイクを挟むことにした。財布と携帯電話、愛する煙草を持って一旦自分のデスクから離れることにする。
どことなく陰気臭さのある無機質な廊下を歩く。足音ばかりが深く鳴り響いている。時間なんて見ていなかったから、窓の向こうがすっかり深淵の闇に包まれていて、月さえも見えへん。人の気配も殆どない署内は携帯で時間を確認したら、もう日付変更線を跨ぐ時間になっていて正直引いた。また、睡眠時間最短記録を更新しそうで、本当に絶望感しか感じへんな……
「柴」
背後からこんな時間に声を掛けられれば、一瞬吃驚してしまう。よく聞いた親しい仲の人間であってもだ。俺は不満げに振り返り名前を呼んだ。
「これはこれは、ご多忙な薊管理官ではないですか?どうしたんです?」
茶化すように、揶揄うようにした声に、薊は苦笑いを浮かべた。同い年ではあるが、上に反発してきた俺とは違い組織内政治に長けた薊は、上司にあたる。今回のスナッフパーティー突入に際しても、様々な横槍を最小限に留めてくれたのは薊のおかげである。
「これから、また深夜の会議があってね。その前に小休止の一吸いでもしようかなって」
薊も中年に差し掛かる年齢であるはずだか、大学生のような若々しい容姿をしている。爽やかな印象に結びつく繊細で長い指で、爽やかさとは程遠い喫煙する仕草を見せる。ただ、目では自分に話したいことがあると告げてくるから、他に目的があるのやろと思った。
「せやったら、一緒にどうです?」
「じゃあ、疲労困憊な旧友に飲み物奢ってよ?」
「あほ、お前が部下を労われ」
何でもない軽口が、まだ責任なんてなかった学生時代を思い出させて、少しだけリラックスできた。お互い少し笑いながら、2人並んで汚れが目立つ白と灰の廊下を歩いた。
喫煙室は署内に複数存在しているが、聞かれたくない話をする際は、監視カメラを予めおかしくさせた別館3階の喫煙室を使う。ここに喫煙室があるなんて知らない人間の方が多く、入口も死角にあるのでわかる人間にしかわからない。何とも都合がいい部屋やった。
もくもくと、不健康な白い煙が宙に浮かんでいく。身体に悪いし、チヒロ君にも『ほどほどにして下さい』なんて言われるこの紫煙のことを俺は心から愛してる。暫く2人して沈黙が続いたが、それを破ったのは薊やった。
「……もしかしたら、パーティー会場壊滅の実行犯であるチヒロ君の情報が漏れたかもしれない」
「はぁ……?何でそうなるん?」
「会場中の監視カメラは全て突入時、こちらの工作班によって実際のパーティー内容を撮影した動画を回収後、破壊した。チヒロ君が実行に移す前に。ただ、本日現場で調査を行っていた中で、一部のカメラがすり替えられた可能性が出てきた。壊れたカメラの中にもし壊れていないものがあって、それがもしチヒロ君の姿を撮影していたとしたら……」
――報復対象になるかもしれない。
それを聞いた俺は、一瞬背筋に嫌な汗が一筋伝うのを感じた。薊は言う可能性の話は、心配性が過ぎる話なのかもしれへん。それでも、可能性があるうちは危機感を持った方がいい。薊はそれは別で調査に当たらせると約束してくれた。薊にとっても、チヒロ君は旧友の忘れ形見であるから大切に思ってくれている。もしかしたらチヒロ君の謹慎については薊の配慮があったからかもしれない。とりあえず、それを聞いて俺は安心した。
「……薊も大変やけど、その調査任せるわ」
「……任されるかわりに、もうすぐしたら本格的に毘灼の収入源の一つ『檸檬飴』の捜査に入るだろうから、そこからは、多分休みなしだよ?よろしくね」
学生時代、同級生の女の子達が『王子様みたい!』とはしゃいでいた笑顔で、まあまあ鬼畜なことを薊が言ってきた。労働基準法なんて本当に形骸化した現実に、いや、公務員は労働基準法適用外か……まあ、そんなこと今はどうでもいい。俺は頭を抱えたが、自分が選んだ道なのでやるしかない。もう一度、肺一杯に毒の煙を吸い込んで、汚れた天井に向けて吐き出した。
✳︎
薊と喫煙室で話してから、もう1週間が経つ。4月11日、今日の月は矢鱈に白くて、真珠のような虹色の光を縁に纏っていた。今日は内勤だったので、人間らしい時間での帰路である。出勤時に鍵を玄関に忘れてしまったので、インターフォンを鳴らした。
「おかえりなさい、柴さん」
「ただいま、チヒロ君」
中から同居人がエプロンを着けて出てきた。部屋の中からは微かに食欲をそそる匂いを感じる。
「今日は何?めっちゃいい匂いやけど……」
「メインは唐揚げで、あとは、だし巻き卵と法蓮草の白和えにしました。今日はビール飲みたいかな?と思っていたので」
そう言いながら部屋に入ると、既にいつでも晩酌ができる状態の食卓で、本当に嬉しかった。チヒロ君、君、神童過ぎるで……
「――優しさが沁みるわ……」
俺が席に着くとチヒロ君も向かいに座り、瓶ビールを開けて、俺のグラスに注いでくれた。ふと、そんなチヒロ君の背中の向こう側にあるソファに、彼の愛刀のケースが立て掛けられている。特殊加工された刀は刀鍛冶であったチヒロの父親、国重の遺作。うちの公安は所持する武器については特に指定はないが、皆、拳銃を所持している中で、刀を選択したチヒロ君は当初は非常に浮いた存在やった。ただ、若手であるのに確かな実績を積んできた結果、誰も何も言わなくなる。実力主義の世界。そんな彼の愛刀がここにあるということは、手入れが完了したということであり、明日から現場復帰するということ――
「明日からやな……また、よろしくな」
「1週間長かったですが、家の掃除やメンテナンスもできてよかったです」
「いつも、ほんまにありがとう。俺が保護者やのに、反対みたいやな」
「俺は、柴さんに感謝しかないです『あのとき』助けてくれなかったら、今の俺はいないから――」
そう呟いたチヒロ君の顔はいつもよりもどこか幼なげで、守られる必要がない位強いはずなのに、守ってあげるなんて言いたくなる、そんな様子やった。普段は表情の変化が少ないクールな彼であったが、本当にときどき抱き締めてしまいたくなって、それは父性や友情由来のものではないって、いつからか気がついたら知ってしまってた。この感情は年長者として、知られてはいけないってこともわかっている。そうやから、気付かれないように阿呆みたいな大きな声で言う。
「お互い感謝ばっかりや!これからも、明日からも感謝しあっていこ!!」
その声に、チヒロ君はいつもみたいな呆れ顔に戻っていた。そして『ビール注ぎましょうか?』なんて言いながら、瓶ビールを差し出してくれる。俺はそれに素直に甘えることにして、からに近いグラスを少しだけ傾けた。
草木は眠らへんけど、そんな夜中に目が覚めた。
恐らく明日、否、既に今日ではあるが、本格的に始まる捜査に対して興奮していたのかもしれない。水でも飲もうと自室を出ると、ふと隣の部屋が気になった。音を立てないように、ゆっくり扉を開くと、夢の住人になっているチヒロ君がいる。規則正しく上下する掛け布団に安心をして、側に寄ってみた。窓からの月明かりで、微かに刻まれた頬の傷跡が浮かび上がっているように見えた。
もし『あのとき』より前に、彼を見つけていたら刻まれなかった痛々しい印。それに触れようと指を伸ばしたが、触れたら何かをしてしまいそうで、怖くなった。
ただ、君には幸せになって欲しい。それは真に願っているのに、そんなことを考えずに、全て奪ってしまいたくもなる。そう思ってしまう俺自身に反吐がでそうや。君が女の子やったら既成事実だって作って、縛ってしまいたかったと思うときもあった。そう思わせてしまう君が悪いなんて叫びたいときもあった。でも、そうしてしまえば『あのとき』君を傷つけた人間と同じになってしまう。そうはなりたくない。なけなしの俺の理性で君のそばに居続けたい。
布団から、チヒロ君の手がはみ出ている。刀を握っているのでしっかりと固い指先ではあるが、俺よりも小さな手。チヒロ君が目を覚さないように、こっそり触れて、その甲に接吻した。本当は願いを込めて、手首に口付けたかったけど、それは腹の中に沈めておいた。
明日からもよろしくな、チヒロ君。最後まで、君を守るから、側にいさせて。
今、六平千鉱は青天の霹靂という言葉の意味をこの上なく、実感している。謹慎明け初日、4月12日いよいよ違法薬物『檸檬飴』の対策本部が立ち上がり、朝も早い時間から会議が行われようとした矢先に署内に一報が入った。
『檸檬飴を握りしめる、左腕が発見された』
当然、薬物であるから表立って見つかり易いわけはないが、その中でも『毘灼』という組織が関わるものは、凶悪であることははっきりとわかるが、その実態は霞のように掴むことができない。よって『檸檬飴』の存在も『とんでもなく恐ろしい薬物』ということ以外殆ど知られてはいなかった。
このような状況の中で、対策本部立ち上げ日にいきなり状況が動いたのである。会議室内も異様な雰囲気に包まれたが、それを切り裂いたのは薊だった。
「まだ、一報が入っただけで状況はわからない。柴、六平は早急に現場へ向かってくれ。残るメンバーは現在集まっている情報の整理に当たるように」
「了解」
相変わらずの人員の少なさではあるが、各々が適宜動き始める。千鉱はこの不思議と今の状況が偶然の産物には思えず、どこか身体が冷える不気味さを感じていた。しかし、柴に促されて部屋から出る。考えていても仕方がないので、今できる最善のため駐車場に向かうのであった。
人間達が行き交う巨大ターミナル内の駅のホーム、その中で1番利用客が少ない線のベンチ下に、清掃員が不審なケースを見つけたので、情勢もあり警察へ通報が入った。所轄の警察官が該当のケースをその場で確認したところ、まるで『生きている』ような瑞々しい左腕がきちんと収まっていた。緩衝材代わりか、ロイヤルブルーのカーネーションがぎっしりと詰まっていて、握りしめた掌から覗く黄色の錠剤とのコントラストが大変美しかったそうだ。
規制線とブルーシートで囲われた現場には、当該のケースはすでになく、この不審物を運んだ人物の手掛かりを探すことに重点が置かれていた。柴が現場の捜査員に「状況は?」と問うても、そこにいる全員が証拠1つない状態に「犯人は透明人間か幽霊でしかないですよ」と半ば諦めの返事しか出せなかった。
幾時か経ち粗方捜索が完了したのちに、ブルーシートから出てきた柴と千鉱の2人はとりあえず本部に戻り、発見された左腕の詳しい状況を確認することで意見がまとまった。千鉱が動き出そうとしたとき、柴が声をかける。
「……ごめん、少しだけ煙草吸ってきていい?」
至極申し訳なさそうな顔をした柴が、千鉱に告げる。息抜きくらい遠慮せずにしてくれていいのに、この人はいつも年下の自分に対して、細やかな気遣いをくれる。与えられ過ぎて千鉱は申し訳なくなってしまう。煙草くらい、もっと気楽に行ってきてくれても構わないのになとも思うのだ。
「行ってきてください。俺は先に車に戻りますので」
その千鉱の声を聞き、「すぐ戻るわ」と言いながら柴は足早に喫煙スペースに向かった。千鉱も駐車場に向かうため移動を始めようとした瞬間、射抜かれるような視線を感じた。
はっと、その視線の先に身体を向けても、溢れる手前くらいの人々が電車を待っている対岸のホームしか視界に入らない。あの中の『誰か』から見つめられているのは間違いなかったのに、誰かはわからない。まだずっと千鉱自身の輪郭を探るような気配は確かにある。それでもわからないとしか言いようがない感覚に、千鉱は不快な感覚しか感じなかった。いつまでもその視線のことを考えても埒が開かないと考えた千鉱は、今は無視することが最善と考え駅のホームを後にする。
耳に入るのは、人々の折り重なって煩い会話達と、響き渡る構内案内の声だけ――
『見つけた』
誰かがそう独り言を呟いたが、千鉱の耳には届かない。
現場から戻った2人はその足で署内附属の研究所へ向かう。恐らく左腕の調査は途中の段階ではあるが、少しでも手に入る情報があればそれに越したことはない。本館地下にある区間一帯は、冷蔵庫の中ではないのに妙に冷気を漂わせた青白い印象を与える。セキュリティチェックを終え、担当である女性研究員から現状わかっている範囲をまとめた資料と発見当時の現場写真を渡された。
予め、現場検証の際に聞いていた箱の中身とは印象の差異は少なかったが、どこか作り物めいていて露悪趣味な芸術作品と言ってしまえば通りそうであった。研究員に質問をしている柴の声をBGMに資料を確認していると、不意に爽やかな酸味を想起させる香りが微かに漂った。ジップ付きのプラスティック製小袋に包まれている、例の薬物が目の前に現れたからだ。柴はその小袋を摘み、じっと凝視する。
「これが噂の『檸檬飴」か……ただの見た目は大きめのラムネみたいやな?……何か刻印がある、これは女?」
「恐らく聖母が刻印されていますね。一説によると、レモンの木は聖母を表すモチーフの1つらしいので」
研究員の説明を聞き、柴は「悪趣味やな」と漏らした。人に痛みを与えず、ただ快楽と中毒性だけを残す存在に聖母を刻印するなんて。
そんな柴から小袋を受け取り、千鉱も袋内のレモンイエローな塊を見つめる。楕円状の大きなラムネのようなそれの表面には、ゆったりと腕を広げたような女性が確かに刻印されている。初めて見たはずではあるが、何故か少しだけデジャヴを千鉱は感じた。
「聖母か……」
ふと、千鉱は呟く。自身に信じている宗教なんてないが、その響きが何故か頭の中でも引っかかっている。昔、何度も聞いたような――ただ思い出そうとすると壁に打ち当たり、そこで終わってしまう。その記憶の端に、僅かにレモンの香り。
研究員が少しだけ奥に引っ込み、すぐ戻ってきた。その手に白っぽい何かを持って。
「あと、カーネーションの陰に隠れていましたが、こんなものがありました」
研究員が徐に差し出したのは、黄金色のシーリングワックスで封がされた雪のように白い封筒。まるで何かの招待状のようであった。シーリングワックスに描かれているのは、まるで炎のように見える模様。この印は毘灼の中でも幹部クラスが使用することができるとの知識は、実像がほぼ不明である組織において数少ない判明している情報である。態々この印をわかり易い所に使用したのは、警察組織に対する挑発なのか。
「これの中身は確認したん?」
「まだです、今から確認を行おうと思っています」
「俺達も一緒に確認させてもらっても、大丈夫ですか?」
勿論ですと研究員は告げ、この場で封筒の封を開け始めた。丁寧にその封印を解いていくと、厚手のポストカードが1枚。金色の箔押しで縁取られた優美なそれに、活版印刷の文字が刻まれていた。
『少年は蛙に蝸牛、少女は砂糖と香辛料。では、聖母の作り方は知っているか?』
「前半はマザーグースの引用ですよね?後半は意味がわかりませんが」
「チヒロ君、そんなんも知ってたん?意外や」
「たまたまです……」
千鉱はその先を繋ぐことを少し躊躇う様子を見せた。柴は一瞬その様子を見て考えを巡らせるが、すぐに答えは見つかった。『あのとき』の頃が関わっているのだろう。深くは触れないで、柴は研究員に話しかけた。
「この腕の解析やらはどれくらいで完了しそう?」
「もう少しだけ時間を頂くかと思います」
2人のやり取りを聞きながら、千鉱は室内の壁掛時計を見上げた。時刻は午後2時45分。朝からずっと動き続け、食事も取れていない。この状況で更に動いたとしても、成果は思ったほど得られないだろうからこの後、柴を誘って小休憩を挟むかと千鉱は思案した。
左腕が最初に発見されてから、10日がすでに経過した。ことの始まりがインパクトがあった分、この間は凪いだ海のように変化がなかった。内部に残っている、よろしくない上層部からの見えない圧力が原因かそうでないかはわからない。ただ、本当に穏やか過ぎた。
左腕の解析に関しても、最初に渡された資料から特段大きな変化があったわけではなく、より詳細にアップデートされたくらいである。女性のものである左腕からは件の薬物の反応が検出され、ほぼ確実に生きているときに切断された腕であること。まるで千鉱が壊滅させた、スナッフパーティーで助けることができなかった少女のように。
ここ10日ほどまともに家に帰ることができず、大半の生活を対策本部内か仮眠室て行う有様だ。捜査が本格的に始まったときに着替えなどは持ってきたが、そのストックが尽きそうであった。そこで柴と話し合い、千鉱が2人分の衣服の洗濯を請け負う代わりに1日非番ということになった。柴にも休んで欲しいとは告げたが、そこは上司命令という形で押し切られてしまう。せめて、休み明けは自分の料理でも柴に差し入れようと千鉱は思った。
夜の街を車で走る。流れていくネオンの光は、星の見えない空の代わりのように彩りを添える。それを見つめながら運転する千鉱の視界にあるものが入ってきた。普段なら寄り道も殆どせずに帰る性分である千鉱であったが、思っていたよりも色々負荷がかかっていたのだろう。それを少しでも軽くしたい気持ちが勝り、人通りの少ない道の端に車を停めた。
アクアリウムショップではあるのだが、文字から伝わる洒落た雰囲気の店ではない。老女が道楽か何かで経営しているここは、薄暗い店内にぎっしりと水槽が立ち並ぶ。比較的、自宅に近いこの店には何度か訪れたことがある。職業柄、中々生き物を飼うことは躊躇われてしまう客に対しても嫌な顔をせずにいてくれるのはありがたい。軽く店主に会釈をして、千鉱は誰もいない店内に進んで行った。
鮮やかな淡水魚なども取り扱っているが、店の中の特に奥の方にはたくさんの金魚達が泳いでいる。
和金、コメット、リュウキン、ピンポンパール、出目金、赤、朱色、錦、漆黒……父と暮らしていた戻らない季節に、一緒に過ごした金魚達と同じもの達もいることに千鉱は懐かしさと愛おしさ、寂しさを感じる。
千鉱の父、国重は有名な刀職人であった。その作品には熱狂的な愛好者達が数多くいたが、その中にいた度が過ぎた精神異常の信者が国重を殺害した。約12年前、千鉱が12歳の頃、3月の出来事である。暴れ回る犯人は工房もめちゃくちゃにし、家の中も破壊して回った。可愛がっていた金魚鉢の中の3つの命も。
小学校から帰るとすでに規制線が家の周りを囲い、千鉱を見つけた警察官が病院に運ばれた父の元に連れて行き亡骸の確認をした。それ以降のことは余り千鉱の記憶にはない。父の親友であった柴と薊は同じタイミングに起きた別の事件対応に追われて、2人と再会できたのは身元引受先が決まってから、随分経ってからだったと千鉱は思い返す――
水の香りに混じる水生生物の命の匂い、薄暗い照明にふわりと照らされた真っ赤な金魚が水槽越しに、千鉱に向かって優美な鰭を見せつけてくる。子供が親に構って欲しそうに寄る様は、かつてそばにいた今はない命を思い出させて、千鉱は愛おしくなった。本当は行儀は良くないことだと思うが、右手の人差し指を水槽の硝子面にそっと押し当てる。すると、千鉱の持つ瞳と揃いの真っ赤なその子が、構って欲しそうに擦り寄った。その様子に思わず千鉱は小さく慈愛の笑みを溢す――
「随分と愛らしい表情もするのだな」
「……?!」
千鉱の背後から、知らない男の声がする。普段の千鉱であれば、明らかなイレギュラーに対して振り返り即座に対応することができるはずなのに、声の主の持つ空気がそれを許さない。振り返ることができないので、姿を視認することもできない。辛うじて、水槽の硝子に映るぼんやりとした姿で輪郭を掴む。細身ではあるが、千鉱よりも長身の男。彼はゆったりと千鉱の背後に周り、水槽に触れていた千鉱の右の人差し指ごと、掌で包んだ。その甲の上には、あのシーリングワックスに刻まれた炎と同じ刺青が刻まれている。
「お前は……!?『毘灼』の構成員か?答えろ……!」
その千鉱の問いに対して、特に答えるわけでもなく、その男は右手の全ての要素を使い、千鉱の右手を味わい尽くしている。千鉱の短く切り揃えた爪の先や水掻きの皮膚、親指の付け根の膨らみ、刻まれている皺までも丹念に触れる。その感触に気を取られているうちに、その男の左腕に千鉱の腰が抱き止められていた。互いの身体の距離がゼロに等しくなる。その反面、男からは香りがしなかった。
「身体が資本の仕事の割には、随分と細いな?食事は十分に取れているのか?」
千鉱の耳元に囁くように男が問いかける。決して大きい声ではないはずなのに、千鉱は耳から伝わるその声に足先まで縛られるような錯覚を覚える。問いに答えてしまえば、全て支配されてしまうと感覚的に感じた千鉱は身体を捩り、まるで恋人のような拘束から逃れようとする。意外にもすんなりと拘束は解かれ、水槽を背に男と向き合った。
薄暗い中ではあるが、上流階級らしい姿形と作り物と見違える端正な容姿の紳士のようだ。彼の問いかけは無視して、千鉱は目の前の上質なスーツに身を包んだ存在に、矢継ぎ早に問うた。
「その手の甲の刺青は『毘灼』の印だ。どうしてそれが刻まれている?何故こんなところにいる?駅に放置された左腕はお前達の仕業か?答えろ、そして裁きを受けろ……!」
その千鉱の様子を楽しむように、目を細めて男は笑う。
「想像以上に素晴らしい理性を持っているな。期待をずっと越えてくれる。あの58秒を信じてよかった」
「……何を言っている?」
「こちらの話だ、気にしなくていい。今日はただ、測りたいものがあったから立ち寄っただけだ」
そう言うと、男は千鉱の左腕をいきなり掴み、勢いよく引き寄せた。訓練を積んでいるはずの千鉱ですら容易に自由にできるほど、男は手練だというこの証明。男は千鉱の左手の薬指にシンプルな金属製の輪を通す。少しだけ大きめだったそれは、千鉱の指をするりと上下した。
「ああ、もう少し詰めてもよさそうだな」
男の不可思議な行動に、千鉱は戸惑いを隠すことができない。
力づくで左腕の拘束を振り解こうとしたが、今度は男が離そうとはせず、それどころか更に強い力で千鉱の身体ごと引き寄せた。店の最奥で行われているこの事態に、年老いた耳の遠い店主が気づくわけはない。男は引き寄せた左腕の手首を掴み、その内側に唇を這わせた。その唇は手首の筋から、掌に。そして薬指の先を甘噛みした。その行為に千鉱の背筋は凍る。
「何を……している?気色が悪いから止めろ!」
甘噛みをする男の唇は存外素直に指先から離れる。そして、心底残念そうに千鉱に向けて呟いた。
「心外だな、これほどまでに恋しく思っているのに」
最後は千鉱の左手の甲に口付けを落とすことで、男は満足したようだ。弱くなった拘束のおかげで、千鉱は今度こそ左腕の拘束を振り解くことに成功する。まるで気性の荒い高貴な黒猫のようなその仕草に、男は満足そうな表情を見せた。そして、ゆっくりと穏やかに千鉱に話しかける。
「青いものはこの前贈った。次は新しいものと古いものを贈ろう。そして、最後に借りたものでお前と楽しむときに、俺の名前を教えてやる」
そう告げた男は何事もなかった足取りで、店を後にした。本来であれば追いかけなければならないはずなのに、男の姿が消えた途端、千鉱の身体から力が全て抜け、しゃがみ込んでしまった。一気に冷や汗が流れて身体を急速に冷却していく。千鉱は自身の内側から警戒音が鳴り響く感覚を無視しようとしたが、本能が許そうとはしなかった。それならば、落ち着くまで水槽から漏れるポンプの音に耳を傾けようと、千鉱は赤い瞳を閉じた。
それから約1ヶ月後の5月24日、新たな左腕が発見される。
新たな左腕は、正確には発見されたのではない。前回と同じような金属製ケースに入れられて、丁寧に対策本部宛に届けられたのだ。差出人は結論から言えば幽霊会社であり、結局正体は不明。しかし、十中八九『毘灼』の――あのアクアリウムショップで会ったあの男の仕業であると、千鉱は不思議と確信を持っている。
ただあの日、あの男と会ったことを何故か柴にも誰にも話すことができなかった。本来であれば、情報共有のために伝えるべきなのはわかっている。だが、あの日のことを話そうとすると、何故だかわからないが頭痛と嘔吐感に襲われた。それは頭痛薬を飲むことでも治らず、吐けるものもないのに深夜に洗面台で嘔吐していた。話すことで、何かが内側から決壊してしまう。そんな予感に人知れず千鉱はここ暫く苦しめられていた。
届けられた左腕は、今回は冷蔵されながら輸送されてきた。代表して柴と千鉱がケースを持ち込み、研究所内でそれを開いた。今回はシルク製の布が緩衝材代わりに詰められている。案の定、掌には『檸檬飴』が幾つも握りしめられていたが、前回と異なるのは、手首に恐らくヴィンテージの止まった腕時計がつけられていること、薬指に女性にしては少しブカブカの真新しいイミテーションの指輪がはめられていることの2点。冷蔵されてはいたが、相変わらず生きているような瑞々しい鮮度を保った亡骸である。
担当である女性研究員が、左腕を箱内で少し動かすと、今回も前回と同じ封筒が出てきた。研究員が自分達に目配せをして、開封作業を始める。
「今回もまたマザーグースもどきが入っているやろか」
柴は、若干苛立ちを募らせた声で吐き出した。千鉱も、前回と似たようなものが入っているだろうと考えてはいる。ただ、もしかしたら、あの男が何か仕掛けるのかもしれないという緊張感で身体が強張った。
開封された封筒からは、前回と同じようなポストカードが1つ。再び幾つかの文字が活版印刷によりそこに刻まれていた。その内容を研究員が読み上げる。
『少年は蛙に蝸牛、そして犬の尻尾を与えた。少女は砂糖と香辛料、素敵なものを与えられた。それなら聖母はレモンと祝福を与えられ作られる』
「前回と微妙に違うな?」
「そうですね。何か意味があるのでしょうか」
「わかるのは、胸糞悪い人間の仕業ってことだけや。人間バラして、玩具みたいに遊んでみせて、何が目的なんやろ」
その柴の声を聞きながら、千鉱は左腕を見つめる。素人目の自分から見ても価値がありそうな腕時計が指し示す、8時10分……そう見えたがこれは11分で止まっている。そして、左手の薬指にはまった指輪は新しいが女性の指には少し大きい。指が若干細めな男性ならぴったりとはまりそうだと――
『青いものはこの前贈った。次は新しいものと古いものを贈ろう。そして、最後に借りたものでお前と楽しむときに、俺の名前を教えてやる』
急にあの日出会った男のことを千鉱は思い出した。そして考えが巡る。『青いもの』があの青いカーネーションだったら、『新しいもの』と『古いもの』が指輪と腕時計のことだったら……もし、あの指輪が自分の薬指にぴったりのサイズだったら。腕時計が指し示す時間が、六平千鉱を示すものだとしたら。
これは、全て自分へ向けて行われている犯行なら。
自分自身しか到達できない、可能性の話に気がついてしまった千鉱はその現実に目眩を覚える。今、知っていることを誰かにシェアしたい。でも、誰かが喉から出したい言葉達を首を絞めるみたいにして封じている。
「チヒロ君、大丈夫か?顔色悪いで」
柴が心配そうに千鉱の顔を覗き込む。それに対して千鉱は大丈夫だと告げ、少し手洗いに行くと離席した。その背中を見つめながら、柴は左腕の時計が指し示した時間を思い返す。8時11分、チヒロ君の誕生日やなとぼんやりしていたら、女性研究員が何となしに呟いた。
「何だか、これで借りたものまで出てきたらサムシングフォーみたいですね」
「何それ?」
「マザーグース由来の幸せな花嫁に与えるおまじないみたいなものですよ。『青いもの』『古いもの』『新しいもの』『借りたもの』を身につけた花嫁は幸せになるっていう」
まあ、偶然でしょうけれど、意図的にしているなら随分と悪趣味なロマンチストですよね。と彼女が付け加える。意図がもしあるならば、その対象は誰か?頭に過ぎる喫煙室での薊の言葉「もし、映像が残っていたら千鉱が報復対象になるかもしれない」それが、現在進行形で進んでいるとすれば――そう思考が巡っていた矢先、柴の携帯電話が震えた。薊からだ。通話ボタンを押し、耳を当てるといつもより焦り気味な薊の声が聞こえてきた。
「柴、嫌な話になるが聞いてくれ。恐らく、完全にチヒロ君のことは『毘灼』に知られている。すでに報復対象として狙われ始めているとの情報も――」
こんな嫌な巡り合わせなんてものがあるのかと、柴は頭を抱えた。ただ、自分にできることは『あのとき』のような目に千鉱を合わせないこと。それだけだと反芻した。
2回目左腕が発見されたタイミングで開かれた対策会議の中で、薊は千鉱に対して現在報復対象になっている可能性が高いこと、本来であれば捜査から外すべきではらあるが、対策本部自体が『なんらかの力』のせいで人員不足の状況である。申し訳ないが、危険は承知だが残って欲しいということを告げた。柴はその発言に終始不満そうであったが、それに対して千鉱は、真っ直ぐに薊を見つめて言葉を紡いだ。
「もちろん、引くなんて考えは元々無いです」
「君ならそう言うと思ったよ」
薊は困ったように微笑みながら、千鉱に言葉を返した。そして、すぐに表情を真剣なものに変える。
「最初の左腕が、どこで準備されたかの情報が入ってきた。湾岸部のとある倉庫に数ヶ月前から人間が運搬されているとのことだ。早速、捜査に当たって欲しい」
柴と千鉱は、他の同僚と共に捜査現場に向かうべく署内の廊下を足早に進んでいたが、急に柴が千鉱の左腕を掴み引き留めた。柴は手短に、先に現場に向かって欲しいと同僚らに伝える。突然のことに千鉱は戸惑いを隠せずにいたが、柴が話したいことが少しあると言い、別館3階の喫煙室に向かった。普段は千鉱には副流煙を吸わせまいとする柴であるのに、わざわざそこで話をしたいというのは、それだけ真剣度が高い内容と千鉱は察する。
小さなその部屋に入ると、柴は千鉱の両肩を掴み真剣な瞳で話始めた。
「今回の件から、チヒロ君は降りろ。向こうは完全に君を報復対象にしている。死ぬよりも恐ろしい目に遭わされるかもしれん。今ならまだ間に合う」
本当に千鉱のことを思って伝える柴は、その彫刻のように整った顔を歪めながら真摯に伝える。その表情を向けられた千鉱自身も、見合うために真紅の瞳でしっかり彼を見つめながら口を開いた。
「今更、死が怖いからなんて理由で降りるつもりはないです。報復対象かもしれませんが、この仕事は死ぬことと常に寄り添っています。俺だけが危ないっていうわけではない」
柴が何か伝えようとしたが、千鉱がそれを遮って言葉を続ける。
「柴さんが、『あのとき』俺を救えなかったことをずっと悔いていることも知ってます。でも、俺からしたらそうじゃない。俺の身に降りかかった出来事の後、ずっとこうして側にいてくれることを知ってます。感謝しかしてません」
「チヒロ君……君って子は」
「もう、守られているだけの子供じゃないです。だから、もう少し対等でいたいです。もちろん、上司と部下の枠組みはありますが――」
まだ、言葉を続けようとした千鉱を柴が思い切り抱き締めた。予想をしていなかった千鉱は一瞬目を見開いたが、すぐに目を伏せて抱き返した。そして、一度深呼吸をし、柴にしか聞こえないくらい小さな声で、意を決して話始める。
「……少し前、俺だけ非番をもらって帰る途中で『毘灼』の構成員らしき男に会いました。そのとき、言われました『青いものはこの前贈った。次は新しいものと古いものを贈る』その言葉を聞いて間も無く新しい左腕が届きました……標的になっている自覚はあります」
「……すぐ話せなかった理由、あるんやろ?」
「あの男と会ってから……もしかしたら『檸檬飴』の捜査に関わり始めてからかもしれません。俺が無意識のうちに忘れようとしている『あのとき』の、養父にされていた何かを――俺はもしかしたら、あの薬の味を知っているかもしれないことも……内側から溢れ出しそうで、ただ、恐ろしかった」
ただの臆病者なんです、俺は。
そう言った千鉱は、小さな子供みたいに柴の胸に顔を埋めた。微かに震える千鉱の背中を背中をあやすように、柴は優しく撫でる。
「そんなんちゃうよ、チヒロ君は。ちゃんと立って、立ち向かっている。立派や。それだけで、もう十分」
ただ、情報共有を怠ったのはあかん。それは、今日の夜に反省会なと、冗談っぽく千鉱に告げた。そして、千鉱を抱いていた両腕を外し、千鉱の頬に刻まれている古傷に触れながら柴が告げた。その温かさは、確かに千鉱の心を救っている。
「少し、寄り道してしまったな。早く行こか、薊に叱られるわ」
「そうですね――急ぎましょう」
2人は小さな喫煙室を後にする。会議室を出て、こうして会話を交わした時間は30分もあるかないか。それでも、2人にとってはとても大切な時間であった。柴と千鉱、互いの持つ互いへの感情は、似ていても違う種であることは別としておいて。
先陣を切った数名の同僚達に追いつくべく車をハイスピード走らせ、そのおかげか現場に到着する時間は彼らとそれ程差異はなかったはずだった。あっても15分程度のはず――それなのに、彼らが乗っていた車はもぬけの殻で、人の気配すらない。すでに捜査に当たっているだけかもしれないが、一方で何か異常な状況に陥っている可能性がある。そう2人は考え、保険としてそれぞれ武器の準備を行なった。
薊からの情報によると、湾岸部の倉庫群の中では新しいわけでも古いわけでもない、目立った特徴のないこの倉庫に、売られる商品が運び込まれているらしい。ただ、倉庫周辺を探ってみても他の捜査員達の気配はしない。嫌な予感が漂い始める。
「他の方々が心配です」
「入口は2つある、俺が表、チヒロ君が裏から潜入。今から45分経っても状況が掴めなかったら即時撤退。ええな?」
「わかりました」
千鉱は腰に差した愛刀に触れ、意識を集中し始めた。
潜入して早々に末端の構成員達が襲いかかってきたので、千鉱は問答無用で切り伏せていく。
真っ黒な彼らと、流れていく鮮血。
彼らの言葉にならない醜い怒号と叫び声。
咽せ返るほど、香る血の匂い。
特に強いわけでも、弱すぎるわけでもない彼らではあるが、明らかに悪徳に手を貸しているクズなのだ。そこにかける慈悲もなにもない。千鉱はそう考えながら目の前の障害を捌き、進んでいく。
暫く進むと、重い鉄製の扉が現れた。閉鎖しているだろうと思われたそれは、意外なことに解錠された状態であった。罠などが仕掛けられている可能性も加味したが、千鉱は僅かに思案したのち、重みのあるそれを引き、中に侵入した。
無機質な室内中央にある鉄製の檻の中には、微笑みを浮かべつつも虚な瞳をした年若い人々が10名ほど。檻のすぐ側には、簡易の手術台……血の香りに混じって香る酸味のある、この場に似合わない爽やかなあの芳香。
そして、天井に吊るされ、ゆらゆらと揺れる、数時間前までは生きていたスーツを身に纏った身体が3名分。致命傷から流れる血はまだ鮮やかに滴り落ちている。共に働いていた仲間達だと千鉱はすぐに気がついた。
この状況をどうするか、早く判断をしなければ、どうやって檻の中の人達を救うのか、たくさんの考えが千鉱の脳内を圧迫する。状況把握が追いつかないせいか、目の前に男が立っているのに千鉱に反応が遅れた。
「スナッフパーティーを潰した、お前達への仕返しはこれくらいにしてやろう……まだ、足りないが今回はな?」
聞こえてきたその声に、はっとした表情で千鉱は顔を上げる。そこにいたのは、アクアリウムショップで出会った漆黒の男だった。彼は至極楽しそうに、話し始めた。
「あれは結構な損害だったから、後処理をするにも骨が折れた――これで終わりにしてやろう。あと、ちゃんとプレゼントは届いたか?」
千鉱の中で、あの日の言葉がリフレインする。青いもの、新しいもの、古いもの……最後は?と考えを巡らすうちに、男はエスコートするがごとく、千鉱の左手に恭しく触れた。
「じゃあ行こうか、六平千鉱。報復を終えたらお前を迎えに行こうと思っていた」
「迎えに……?」
千鉱には理解し難い話が降ってきたが、身体は何故か動くことができない。左手を振り解くことも、瞳を逸らすことも許されない。それでも千鉱は、なけなしの理性を集めて叫んだ。
「行くわけがないだろう!今、お前をこの場で始末する。それで終わりだ……!」
「今、ここに生きている商品達と、表から侵入してきているお前の相棒の命を俺が握っているとしても?」
「――?!」
そう告げた男は、千鉱の左手を離し、徐に取り出した携帯電話をワンコールだけ鳴らした。
ドゴォォォンッ
鈍く低い何かが爆発する音と、地震のような振動で床が揺れる。千鉱はそれに対してバランスを上手く取ったが、急な展開が更に脳内を混乱させた。男は少し声を上げて笑いながら、千鉱に告げる。
「今、爆発させた場所には人はいない。しかし、この場所にも、お前の相棒の男が奮闘している場所にも仕掛けはしている」
男の言葉には、恐らく嘘もはったりもない。疑いようもなく事実だけを述べている。それがわかればわかるほど、千鉱はアクアリウムショップで感じた身体の冷たさを再び感じた。更に男は続ける。
「――警察内部にはまだまだ『得意先』がいてな?彼らに協力を仰ぎ、巧妙に準備を整えた。そして、厄介なあの管理官も見抜けないほどの情報を流した。今日、ここにお前達が捜査に来るように。ここに潜入した時点で『詰み』だった。そう言う話さ」
男は携帯電話を千鉱に向けながら、穏やかに告げた。
「……さあ、どうする?この手を取るなら、何もこれから起こらない」
差し出された、紋章が刻まれた手。この手を取れば…微かに千鉱は逡巡する。しかし、それを振り切って腰に差した刀に触れ、男の方に真っ直ぐ進んでいった。
鞘から刀を抜き、男に切り掛かるが上手く躱される。彼の動きはしなやかであるが、凄まじいほどの速度があり、千鉱は攻め倦ねる。焦る状況と有効な攻撃を加えられない現実に、千鉱の剣筋は徐々に精彩を欠いていく。それを見逃さない男は、千鉱の腹に膝蹴りを加えた。そして間髪入れずに、隠し持った大きな針で千鉱の首を突いた。
「?!」
腹に与えられた衝撃よりも、首に与えられた痛みの方が千鉱を苛む。傷付けられた首を咄嗟に抑えるが、痛みは治ることはなく、更に意識を遠い世界へ運んでいく。千鉱は膝をつき、何とか意識を失わないように自分自身を律しながら、男を睨みつける。その折れることのない姿勢に、男は口を押さえながらも笑みを抑えることができなかった。
「その高潔さ、理性、青さ……全てが俺を満たしていく。さあ、行こうか。安心しろ、もう今日は何も起こさない――早くお前を染め上げたいからな、無駄なことは何もしない」
千鉱の耳には、最早断片的にしか男の声が聞こえない。首に与えられた痛みには、何らかの薬が含まれていたのだろう。1秒でも時間が経過すればするほど、意識も力も無くなっていく。身体全身が弛緩していくが、男はそんな千鉱の身体を酷く丁寧に抱き寄せた。そして、何か言おうと口を動かす千鉱の唇に、自分の唇をゆっくりと合わせた。角度を変える度に、千鉱はくぐもった声で抵抗を示すが、それすらも次第に消えていった。完全に意識を飛ばした千鉱の顔の古傷を満足そうに男は撫で、この無機質な部屋から千鉱を連れ出した。
千鉱の愛刀をマーキングのように、置き去りにして。それは、後に柴に回収されることとなるが、それを千鉱が知ることはなかった。
随分長い間眠っているような、それほど眠っていなかったような……どちらが正確かは千鉱にはわかりかねるが、それでも微かに聞こえる子供と大人の話し声で、徐々に意識が覚醒を始める。
重い瞼をゆるゆると開けば、最初に目に入ったのは、どこか見覚えのある指輪を薬指につけた、左手だった。この指輪はあの亡骸が……と思考を巡らせたが、あの左腕と共にあった指輪とは少し異なっているのき気がついた。どこか玩具めいた先のものとは違い、純銀製で繊細な職人の意匠が施され、飾られるのは赤いガラスストーンではなく、柘榴色をした本物の宝石だった。
知らぬ間に、千鉱は白い浴衣に着替えさせられていることに気がつく。見上げた天井は、見知らぬもの。西洋風でありつつも日本的な要素を感じるもである。窓は全て重いカーテンで全て隠されていて、何時なのかも知ることができない。
キングサイズの眠り心地のよい寝台から千鉱は起き上がると、この部屋には寝台とサイドボード以外ないことに気がつく。ただ、寝台とは反対側にある2つの扉のうち、片方から光が漏れ僅かであるが音が聞こえる。夢現に聞いた声と同じだとわかると、不安を抱きながら千鉱はそちらにふらつく足を向かわせ、そっと扉の向こうの光景を視界に入れた。
音の正体。それは、ルームシアターで流れている映像だった。
上品そうな老紳士が、黄色い飴玉のようなものを黒髪の少年に喰ませている。少年は段々と恍惚とした表情を浮かべていき、跪いた老紳士の顔に裸足の先を当てる。それを老いた男が口でしゃぶりながら自慰行為を始めた。淫靡な表情を浮かべた子供は、コロコロと笑い声を上げている。
場面が変わり、老紳士が先程と同じ黄色い飴玉を複数砕いて、湯気の立つコップに入れ溶かしている。そこに少し成長した黒髪の少年がやってきて、老紳士が勧めたそれを飲み始める。段々と酩酊しているかの様子を見せ始めた少年は、老紳士に言われるがまま靴下を脱ぎ、近くの椅子に腰掛ける。そして見せつけるように素足を老人に差し出した。
差し出された足を必死に舐める様を、少年は慈愛に満ちた聖母の表情で見つめる。時折その老いた男の顎をペットのように撫でたりもしていたが、次第に表情が曇っていく。完全に正気を取り戻した少年は、男を突き飛ばし距離を取った。身体を守るように自分自身を抱きしめる少年に対して、男は訳のわからない言い訳を放ちながら、近くにあった刃物で少年を切りつけた。少年の頬には大きな傷が刻まれ、それを見つめた後、老紳士は自身の首を切り裂き自害した。噴水のように溢れる鮮血が画面を塗り潰し、映像は終わった。
千鉱の中で塞いでいた記憶が開かれていく。映像のあの老紳士はかつて預けられた養父で、あの子供は自分自身であることを。父の死に際して、学業が優秀であったことから慈善活動家の養父に引き取られ、普段は全寮制の学校に入れられたことを。年2回の長期休暇のときだけ養父と過ごしていたことを。切りつけられた後、混乱しながら通報して、その後駆けつけてくれた柴に引き取られたこと――
映像を見つめた千鉱は吐き気と酷い頭痛で立っていられなくなり、大きな音を立ててその場に座り込んだ。ガラガラと自身の内側が崩れていくような感覚に、千鉱は襲われる。必死に保っていた自分の内なる本性を思い出してしまって、千鉱は戻れないことを再認識した。
「死者からの借り物だったが、どうだったか?千鉱」
ルームシアターの前に置かれたソファに、優雅に腰掛けた男が振り向きもせずに、千鉱に呼び掛ける。それに、千鉱は答えることができない。その反応を察した男は立ち上がり、千鉱のすぐ側に寄って行き、しゃがみ込んだ。
「あの映像は、うちの上顧客だったお前の養父が趣味で残していたものだ。まさか、自分の死に際の姿を残してしまうなんて思わなかっただろうな。薬の情報を漏らさないために組織が回収した映像だったが、お前を知って調べるうちに繋がりが見えてきてな……非常に興味深かった」
そう千鉱に話しかける男は、指輪がはまっている千鉱の左手を取り、その甲に愛おしそうに口付けた。
「とてもよく似合っている。きちんと大きさも確認したから、生まれてからずっとそこにあるようだ……」
うっとりするような表情で自分を見つめる男に、千鉱は弱々しく尋ねた。
「――お前は何がしたい?俺をどうするつもりだ?」
不安げな揺れる真紅の双眼を見つめながら、男は千鉱に接吻をする。千鉱は特に抵抗することをせずに、それを受け入れた。唇が離れると、男はとても優しげに千鉱の耳元で言葉を紡いだ。
「お前を愛してしまったから、側に置いておきたい。もう、氷の上に立つように懸命に高潔であろうとしなくてもいい。そんなことしても、お前は汚れてしまっている。生まれながら魔性なんだ。鴉は白銀には戻れない……それでも、俺が愛したいから染め上げたい――全部忘れたいだろう?千鉱」
その真っ黒な愛の告白を聞いた千鉱は、自分の内側で最後まで支えていた糸が切れる音を聞く。そして、諦観の色を真紅の瞳に浮かべて、男に向けて呟いた。
「……わすれたい」
一筋涙を溢した千鉱を男は横抱きにして、隣の寝室に足を進めた。
寝台に横たえた千鉱の口に、レモン色をした錠剤を2つ含ませる。男はサイドボードに置いた水を含み、口移しで千鉱に飲ませた。咽喉の動きを確認した後、更に深く口付けを交わす。千鉱の口元からは、飲み切れなかった唾液が透明な線になり溢れていく。
男は千鉱の浴衣の帯を抜き取ると、はだけた内側に手を滑らせ、鎖骨から臍の辺りまで丁寧に愛撫する。肌は薬の影響か、徐々に温もりを強くしていく。温かさが増すたびに、千鉱の口からは熱を帯びた吐息が漏れ始める。男は愛撫を続けながら、左胸にある小さな飾りを口に含んだ。
「……っああ、いや、はずかしい」
千鉱がその刺激に反応を示して、声を漏らす。男はそれに対して、口をそこから離す。そして、羽のような愛撫だけは辞めずに、囁くように千鉱に問うた。
「お前が嫌がることは、何もしたくない……嫌なら止めようか?」
その声を聞いた千鉱は、生理的な涙の膜が張った、蕩ける真紅の瞳で男を見つめる。そして、おずおずと小さく言葉を紡いだ。
「……いやじゃない……つづきはないの?」
そう言って、少しだけ千鉱は上半身を反らした。その様子を見つめた男はもう一度、左胸の飾りを口に含む。今度は含むだけでなく、歯を立て舌で転がすように可愛がる。反対側の胸の飾りは指先で弄び、その2つの刺激に千鉱は気持ちよさそうに嬌声を上げ、身を捩った。
一頻り胸を可愛がると、下着を緩やかに取り除き、臍や陰茎に内太腿、脹脛や足の指先まで、愛撫や口付けを与える。丁寧に撫で上げられ、唇や舌先で味わう。まるで宝物を愛でるようにか、希少な果実を味わうようにか……そのどちらとも取られるような甘やかな行為で、到底残酷な組織の統領からの行動とは結び付けないものである。
酩酊するようなふんわりとした意識の中で、千鉱は自分の身体が、獣に喰われているみたいだと他人事のように感じていた。それ以上に、この先を知りたいとぼんやりと感じている。この意識も、やがて消えゆくものかもしれない――
男はサイドボードから、ローションを取り出しある程度人肌で温めると、その濡れた指先で千鉱の後孔を暴いていった。
千鉱は初めての感覚に混乱して、逃げようとする。それに対して男は空いた方の手で千鉱の手を握り、落ち着かせるように額から頬の傷跡まで、丁寧に口付けを繰り返した。それにより緊張が無くなった身体を見て、後孔に差し込んだ指の本数を増やす。徐々に前立腺からの快感を覚え始めた身体は、その肌の色を薔薇色に染めていった。
十分に千鉱の後が解れた頃合いで、指を全て孔から抜き取る。男はスラックスの前を開き、自身の立ち上がった陰茎を取り出した。それをぼんやりと見つめていた千鉱が、緩やかに口を開く。
「ねぇ……」
嬌声を出しすぎて、若干掠れた声で千鉱は男に話しかけた。
「どうした……千鉱?」
子供の問いかけに答えるような響きで、男は反応を示した。その声を聞いた千鉱は、少しだけ首を傾げながら呟いた。
「……なまえ、まだしらない」
そう言えば、名乗ることをしていなかったことを思い出した男は声を少し上げて笑う。そして、千鉱の美しい真紅を見つめながら答えた。
「――幽だ。これからお前の側にいる男の名前だ」
そう言うと、幽は指輪をはめた千鉱の指先に口付けを落とす。その声を聞いた千鉱は、小さく口を開いた。
「……ゆら」
掠れた小さく甘い声で呼び掛けられた幽は、至極満足そうな表情を浮かべる。そして、柔らかくなった後孔に、正常位で自身の陰茎を挿入し始めた。その圧迫感に、最初は苦しそうな表情を浮かべる千鉱であったが、同時に自分自身の陰茎を幽に弄ばれることによって、その圧迫感を忘れていく。
千鉱の奥に陰茎が当たると、その暴力的な快感に悦びに満ちた声を上げた。
幽は一度陰茎を引き抜き、もう一度、千鉱の身体をそれで貫く。再びの快感に、壊れてしまった千鉱は恍惚の表情を浮かべた。そして、幽の片手を引き寄せて自分の頬に触れさせながら、切なげに幽に話かける。
「……ゆら、はなさないで」
その声を聞いた幽はこれからを夢想した。必死に高潔で理性的であろうとした、哀れで綺麗なこの人間をどのように染め上げていこうか。もうこの私邸から出すつもりもない愛おしい存在をどう作り上げていこうか。考えるだけでも、笑いが止まらない。
「――離すつもりはない、千鉱」
幽の返答を聞いた千鉱は、肚の中から感じる快楽に溺れながら、アクアリウムショップで見つけた慈愛に満ちた笑みと似た小さな微笑みを浮かべる。
さあ、これからどうしていこう?理想の聖母を作り上げる時間は始まったばかりだ。
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