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夜だった。
冷えた空気が、扉の隙間からすうっと部屋に入り込んでくる。灯りは落とされ、兄弟たちはそれぞれの寝床についている時間。けれど、海の中では、もう何時間も前から音が止まらなかった。
胃の奥で何かがうごめいていた。
満たされていない、というより、詰めこまなければいけない。空っぽのままでは、どうにかなってしまいそうだった。
海はそっと布団から抜け出す。足音を殺しながら、廊下を進み、台所の戸棚を開ける。
乾パン、缶詰、砂糖の袋。
兵站用の保存食が並ぶ小さな棚。彼が自分で買い足して隠しておいたものもある。祖国に見つかると怒られる。
いや、それ以上に、「見られる」ことが怖かった。
――誰にも見られずに、詰めこみたい。
――何も考えずに、ただ、いっぱいにしたい。
手が勝手に動いていた。塩気の強い乾パンをかじり、缶詰の桃を指ですくい、砂糖をそのまま舐める。
甘さも塩気も、味なんて関係ない。ただ、胃にものを入れる音だけが、安心をくれる。
けれど、その音は、すぐに内側から叫びだす。
「――もう、やめろよ……」
誰に言っているのか、自分でもわからなかった。
手が震えていた。食べながら泣くことなんて、慣れていたはずだったのに。
そして、次の音はもっと静かだった。
喉の奥に指を差し込むと、腹の底からせりあがるものが、苦しくて、熱くて、すぐに口から飛び出した。
台所の流し。
吐くたびに、胃も心も、少しだけ軽くなる。
でもその代わり、胸の奥が冷えていく。
「……気づかれたら、怒られる……」
祖国に知られたら、「不快」だと一言で済まされるかもしれない。
陸に知られたら、「やめろ」と命令される。
空に見られたら――
「……あいつには、絶対見せらんねぇな」
それは、自分がこの家で、誰よりも兄でいなきゃいけないから。
流しに吐いたものを水で流しながら、海はまた、静かに涙をこぼす。
声は出さない。気づかれないように。
――また、静かな音だけを残して、彼は夜に溶けていった。