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〜佐野side~
「はやちゃん、明日、ちょっと仕事終わりに用事があるから、夕飯作れないの」
ある日の朝、玄関で靴を履きながら柔太朗が少し申し訳なさそうに言った。
「おう、分かった。会社の飲み会か?」
「ううん。……えっと、しゅんと仕事終わりにご飯行く約束したの」
柔太朗は少しだけ照れくさそうに笑った。
「……そっか、よかったな」
「うん!じゃあ行ってきます!」
「いってらっしゃい」
ガチャリ、と静かに玄関の扉が閉まる音が、やけに重く、冷たく響いてくる。
俺は誰もいなくなった玄関口に立ち尽くしたまま、しばらくの間動くことができなかった。
好きだからわかってしまう。
あいつの世界が俺の知らないところで、俺の入れない場所へと少しずつ、確かな速度で広がり始めていることに。
胸の奥が冷たいガラスで引っ掻かれたように痛み出す。
それでも俺は、「無害なお兄ちゃん」の仮面に必死にしがみついているしかなかった。
そして翌日の夜。
いつもなら柔太朗の包丁の音が響いているはずのキッチンは、静まり返って冷え切っていた。
仕事が終わってまっすぐ帰宅した俺は、ひとりで薄暗いリビングのソファに腰掛け、ただぼんやりと時計の針が進むのを見つめていた。
時刻は二十時を回ろうとしている。
今頃あいつは、舜太という男とどんな顔をして向かい合っているのだろう。
俺の知らない二人だけの話を、楽しそうにしているのだろうか。
その時、テーブルの上に置かれたスマホが不意に短く震えた。
弾かれたように画面を確認する。
柔太朗からのメッセージだった。
《しゅんとのご飯終わったから、今から帰るね! はやちゃん、ちゃんと夜ご飯食べた?》
画面に並ぶ無邪気な文字。
そこには、俺を心配する純粋な優しさがあった。
なのにどうしてこんなにも胸の奥がざわついて、息が苦しくなるのだろう。
《お疲れ。コンビニで弁当買って食べたから平気。気をつけて帰ってこいよ》
いつもの何でもない風を装った返信。
スマホをテーブルに置いた俺は、柔太朗のいない静まり返ったリビングに、行き場のない深いため息を吐き出した。
あいつが笑顔でいてくれるなら、それでいい。
あいつが誰かと外の世界を楽しめるようになったなら、それこそが俺の望んだ最高の結末のはずだ。
そう自分に何度も言い聞かせるけれど、暗いリビングに取り残された俺の心は、どうしようもない寂しさと名前のつかない焦燥感で激しく支配されていた。
ガチャリ、と静かに玄関の鍵が開く。
「ただいま、はやちゃん! 遅くなってごめんね」
パタパタと軽い足取りでリビングに入ってきた柔太朗は、外の冷たい空気をふんわりと纏いながら、俺の顔を見て嬉しそうに微笑んだ。
その手には、お土産らしき小さな紙袋が握られている。
「おかえり。全然遅くないよ、まだ九時にもなってないし。……楽しかったか?」
「うん! しゅんがね、高校のときのクラスメイトの意外な話とか教えてくれてね!
俺、当時は本当に周りが見えてなかったから、そんなことあったんだって驚いちゃった」
柔太朗はスーツのジャケットを脱ぎながら、まるで今日学校であったことをお兄ちゃんに報告する子供のように、楽しそうに言葉を弾ませた。
嘘も後ろめたさも、何一つない。
ただ純粋に、友達と懐かしい話ができたことを喜んでいる無邪気な姿。
「そっか。良かったじゃん」
俺はいつものように優しいお兄ちゃんの顔をして、胸の奥のざわつきを悟られないように笑ってみせた。
「あ、これね、しゅんが『お家の人に』って持たせてくれたの。すごく美味しいマドレーヌなんだって。はやちゃん、明日一緒に食べよう?」
柔太朗はそう言って、俺の前にちょこんと紙袋を差し出した。
……「お家の人に」。
そいつは、柔太朗が誰と同居しているのかまでは知らないようだ。
ただ、柔太朗の日常会話から「お家の人」の存在を察して、気を利かせて持たせてくれたのだろう。
「へぇ、わざわざ俺の分まで。……いい奴だな、その舜太くんって」
「うん、しゅんは本当に優しいよ。俺がちょっと仕事でミスして落ち込んでたときもね、わざわざ俺の部署まで来て『じゅう、大丈夫?』って、お菓子差し入れしてくれたり……」
……じゅう。
あいつの口から自然に零れ落ちた、俺の知らないニックネーム。
トクトクと心臓の奥が冷たく激しく脈打ち始める。
「……そっか。会社でもちゃんと皆に良くしてもらってるみたいで、安心したわ。… …な?山中くん」
「もう!会社じゃないんだから山中くんって呼ばないでよ、はやちゃん」
もちぷよ
1,197
#山中柔太郎
65
柔太朗は少しだけ頬を膨らませて、悪戯っぽく俺を睨んだ。
そのあどけない仕草も、全部、出会ったあの日から何一つ変わっていない。
あいつにとっての俺は、今も変わらないままだ。
だけど、だからこそ、俺はこれ以上あいつに近づくことができないのだ。
「はやちゃん、明日のお弁当は何がいい? はやちゃんが好きな卵焼き、甘いやつ作ってあげるね」
キッチンに向かいながら、嬉しそうに振り返る柔太朗。
あいつが一生懸命作った手料理を食べられるのは、今この世界で俺だけ。
あいつの「ただいま」が聞けるのも、「おかえり」が聞けるのも俺だけ。
一緒に寝るのだって、髪の毛を乾かしてあげられるのだって俺だけ……。
そんな俺だけの特権を心の中で必死に数え上げながら、俺はまだ見ぬ「舜太」という存在に対して、醜くもどこか情けないマウントを取ることしかできなかった。
「お、まじ? じゃあ甘いやつ、特大の頼むわ」
「ふふ、任せて!」
嬉しそうに寝室へと向かうあいつの後ろ姿を見送りながら、俺は静かにポケットの中で拳を握りしめた。
お兄ちゃんとして、あいつの幸せを誰よりも喜んであげるのが、俺の果たすべき役目のはずだから、と自分に言い聞かせながら。
to be continued……
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毎日更新ありがとうございます!モチベです!これからも楽しみにさせていただきます!