「お見合いをしなさい」
朝食の席でそう言われたとき、現実味のない言葉に家庭内コントでも始まったのかと思った。この父ならばそんなこともやりかねない、と。しかし咄嗟に面白い返しをできるほど、私は笑いのセンスに恵まれていない。
聞こえなかったふりをしよう。
そう決め、素知らぬ顔をしてマグカップに手を伸ばすと、
「まどか、お見合いしなさい」
再度そう言われてしまい、さすがに「えっ」と情けない声を出さずにはいられなかった。
「冗談じゃなかったの?」
「お父さんがこんな冗談を言うと思うか?」
うん、とはさすがに言えず私は下唇を噛む。
それに現実味はなくても、お見合いをすすめられる理由に関しては思い当たるものがいくつかあった。仕事は辞めたし、婚約破棄もしたし。今の私はどうしようもないくらい、宙ぶらりんな状態だといえる。……とはいえ、だ。
私は探り探りに「でもさ」と慎重に切り出す。
「いくらなんでも、お見合いというのはあまりに飛躍しすぎなのではないだろうか」
「僕からすれば、まどかが出版社を辞めたのだって十分突飛な行動に思えたのだけれど」
そこを突かれると痛い。
ただ、腑に落ちないものはある。私の未来が不透明なものになってしまったとき、しばらくはゆっくり過ごしたらいいと言ったのは、ほかならぬ父だったではないか。なのに突然お見合いだなんて。
言いたいことを整理しようと、一旦深呼吸をしてみる。朝の澄んだ空気を肺に送り込ませると、寝起きでぼんやりとしていた頭が少しずつ覚醒していくのを実感した。
「……そもそも、それはどこからやってきた話なの? 相手はどんな人? お父さんが持ち出してきたってことは、私にとってそれなりにメリットがあるってことだよね?」
物心がついた頃から仕事に邁進しているイメージが強い父だけれど、そんななかでも私はそれなりに愛されていると自覚していた。
だからこそ、なにかしらの事情または算段があるのではと思ったのだ。
「お相手はお世話になってる方のご子息。年齢は三十五で、職業は高校教師だそうだ」
「三十五⁉ 私より十一も上じゃん」
「今時、十歳程度の年の差なんて大したことないよ」
「お父さんがそれ言うと説得力があるね」
そんな悪態をついたとき、一人の女性が「おはよう」とリビングに姿を現した。
彼女は義母の美由希さんで、その存在こそが「年の差は大したことない」という父の言葉に説得力を持たせる根源ともいえる。キャミワンピにロングカーディガンという見慣れた組み合わせは、小説を書くことを生業とする彼女にとって仕事着のようなものだ。顔色もどこか悪いので、徹夜をしていたのだろう。
朝の挨拶もそこそこに、私は食い気味で訊ねてみる。
「美由希さん、私のお見合いのこと知ってる?」
「うん。相手の年齢を聞いたときは、さすがにどうかと思ったけどね。私と同い年だし」
「あっ」
確かに言われてみれば、この人も今年で三十五歳になる。ということはつまり、父は娘に妻と同い年の男を引き合わせようとしているということか。いくらなんでも……とさすがに怒りが込み上げてくる。
「でも事情を聞いて、まあ色々納得したかな」
「納得?」
反芻すると、美由希さんは父の顔色を窺った。
「変に隠さないほうがいいんじゃない?」
「うーん……」
煮え切らない父を見かねたのか、美由希さんはあっさりと打ち明けてくれた。
「相手、篠原先生のご子息なのよ」
思いもよらぬ名前が出てきて、ぎょっとした。
「篠原先生って……『徹夜警備員シリーズ』とかの、あの篠原先生?」
「そうそう」
どういうこと、と父のほうを見てみると、彼は典型的なまでに苦虫を噛み潰したような顔をしていた。罪悪感は少なからず抱いているらしい。
篠原源三先生は文芸界の重鎮だ。ハードボイルド小説の名手と言われており、数多の人気作品を世に出してきただけでなく、近年では多くの賞レースの審査員も担当している。まさにレジェンド作家なんて言葉が相応しい存在だろう。
「でもお父さんって、篠原先生の担当じゃないよね」
「担当じゃなくても、関わりがないわけではないよ」
そりゃそうだ。
父は出版社勤務のやり手編集者として、立場こそ篠原先生と違えど、その界隈での知名度は抜群に高い。自著の出版に文芸イベントの主宰等、活動内容はいち編集者を越えて多岐に渡る。顔の広さは、間違いなく私の想像を遥かに上回るものだろう。
でも、
「だからってどうして篠原先生に」
まさに寝耳に水とはこのことである。
困惑する娘に相反し、父は開き直ったのかすっかり普段のペースを取り戻し説明した。
「直川賞の授賞パーティーでお会いしたとき、まどかの話になってね。そしたら、それを聞いた篠原先生が閃いたんだよ。うちの息子もいい年になってきたのに、結婚どころか良い人がいる気配すら感じられない。そうだ、自分らの子どもをくっつけたらいいじゃないか。そうすれば全てが丸く収まるだろう——ってな感じで」
「考え方が昭和すぎる」
それにしても、あの人って素であんな感じなのか。
篠原先生はメディア露出が多い方なので、名前を聞けばすぐにその姿が脳裏に浮かぶ。背が高くて、恰幅が良くて、立派な口髭がトレードマークの強面。作風も相まって、豪放そうなイメージが私のなかでは根強い。
「……私、ああいう人はタイプじゃないよ」
「そこに関しては心配いらないよ。息子さん、先生に全然似てないらしいから。亡くなった奥さんに似て、自分よりずっと繊細だって」
「繊細って、それはそれで誉め言葉じゃない気もするけど」
眉間に皺を寄せつつも、あの篠原先生のご子息という存在に好奇心が掻き立てられていないといえば嘘になる。もしかすると、先日『徹夜警備員』の新作を読んだことも影響しているかもしれない。あんな作品を書く人のもとで育った、あの人に似てない人。一体どんな感じなのだろうか。全く想像がつかない。
そこに追い打ちをかけるように、父は言った。
「どうかな、まどか」
私の心の揺らぎは筒抜けらしい。
だからといって結論をここで出してしまうのは早計だし、父の掌の上のようで面白くなかった。悩んだ末に、ひとまず私は何でもなさそうな表情をして、「考えておく」と答えるにとどめておく。
*
約束の時間、親友はスーツ姿で現れた。彼女は保険会社で営業の仕事をしているのだ。二か月ぶりの再会なので、さほど変化はないはずなのに、そのファッションのせいで私は一瞬にして気後れしてしまう。
「なんか立派な社会人って感じ……」
「立派かは分かんないけど」
そう笑って、悠はコーヒーに口をつける。
ブラックが飲めない私は、フラペチーノのカップに張った水滴を人差し指でいじりながら「なんか大人って感じ」と付け足しておいた。
「で、最近のまどかはどんな毎日を過ごしているの?」
小さな水溜まりを作っていた私を見かねるように、悠が訊いてくる。
「家でのんびりしてるよ。なんていうか、人生の休暇って感じ」
「人生の休暇か。その言葉、すごく良いね。パワーを蓄えているような」
「だと良いんだけどね」
三か月前、私は結婚を見据え仕事を辞めた。
積み重なる激務に疲弊し、身も心も削り取られていた。生きることがしんどくて、そんな私をかつての交際相手は見かねたのかもしれない。男女平等、女子差別問題等が議論に持ち上げられる昨今だけれど、そんななかで私は結婚という逃げ場を作ってもらい、そこに突っ込んでしまった。
……まあ、その逃げ場はあまりにも呆気なく潰えてしまったのだけれど。
「大和田くんとは連絡とってる?」
「メールはくるけど、見ないようにしてるかな」
元婚約者である大和田拓斗は、私たちの高校の同級生であった。
「既読すらつけないってことか。かわいそうにねぇ」
かわいそう、という言葉とは裏腹に、その口調は全くもって憐憫の情など滲んでいない。悠は私にも拓斗にも同情などしてないし、なんならこの状況を楽しんでいる節すらあった。変に気を遣われるより、こっちのほうがずっと楽だ——そう噛み締めたとき、私は「あっ」とそれを思い出す。
「ねえ、悠。実はさ、お父さんからお見合いをすすめられて」
そうだ、今日は親友にこのことを相談したかったのである。
「お見合い⁉」
やはりそのワードは当事者以外の人間からしても、インパクトが強いらしい。共感を得られた気になった私は、そこから勢いに乗って今朝の出来事を話した。最初は面白くて仕方ない様子でにやけていた悠だけれど、次第にその表情は真剣なものへと変わっていく。
そしてこちらが全てを話し終えると、彼女は大きくうなずいたのだった。
「いいじゃん。人生の休暇にぴったりの一大イベント。話を聞いた限りだと、お父さんもお見合いしてくれさえすればいいって感じみたいだし」
「肝心の大先生のお気持ちは分からないんだけどね」
篠原源三先生の顔を思い出しながら、私は腕を組む。
「全ては会ってみてからだよ。合いそうだったら本当に付き合えばいいんだし、合わなかったのなら正直にそう言えば、さすがの篠原源三だって無理強いはしないでしょ」
「そうだよなぁ」
答えは既にほぼ決まっていたのだが、親友のあと押しもあり、私の気持ちはここで正式に固まったのだった。思うところは何もないと言ったら嘘になる。ただ篠原先生のご子息が気になったのは紛れもない事実だし、なにより自分の体裁のためにも今回の話は受けた方がいいと判断したのだ。
仕事を辞めてからというもの、私は自分の現状に対し、常に後ろめたさのようなものを抱いている。だからこそ悠が言ったところの『一大イベント』に参加してみることで、社会の一員に擬態したかった。両親や、なんなら篠原先生にまでも「無職とはいえ、私は決して社会と距離を置くつもりはないのです」という虚勢を張り、安心したかったのである。
その手段がお見合いというのは自分でもどうかとは思うけれど、こればかりは仕方ない。
*
一週間後、私はタクシーから降りながらぼやく。
「……せっかちさすら、期待を裏切らないな」
こちらの葛藤や思惑をよそに、正式にお見合いが決定するなり、物事はとんとん拍子で決まっていった。あまりのめまぐるしさに、篠原先生の意気込みを肌で感じたものだ。
今日は帝王ホテルで両家の顔合わせを行い、その後、私と見合い相手は二人でホテル内のラウンジで色々と話をするという流れらしい。篠原先生が介入してるので、なんとなく昔ながらのかしこまったお見合いを想像していたが、そういったところに関してはわりと融通が利くらしい。
「私、篠原先生と会うの久しぶりなんだよね。こっちまで緊張しちゃう」
「あの人も個性が強いからなぁ」
両親の会話に少しだけ緊張感が増した。編集者の父にとっても、作家の母にとっても、篠原先生の存在は大きいに違いない。とにかく二人に迷惑がかからない程度に頑張らなくては、と私は自分を奮い立たせた。
帝王ホテルに来るのは、昨年末に開催された会社の忘年会以来で、豪奢なロビーに足を踏み入れると少しだけ怯んでしまった。しかしそれは一瞬のことで、着物姿のその人がこちらに近付いてくるなり、私の気持ちは一転し浮上する。
「新田くん! 美由希!」
今日を迎えるまで、私は何度も篠原先生の著者近影を見ていたため、いざ本人を前にすると「本物だ!」と思わずにはいられなかったのだ。
「いやぁ、皆さん今日は本当にありがとう」
「いえいえ。うちの娘も色々あったものですから、願ったりかなったりですよ」
「そちらが娘さんかね」
「はじめまして。新田まどかです。本日はよろしくお願いいたします」
両親の一歩後ろにいた私は、笑顔を絶やさぬよう意識しながら深々と頭を下げる。篠原先生は「可愛らしいお嬢さんじゃないか」と目尻を下げた。
「うちは男親なうえに息子一人だから……」
長くなりそうな話を遮るように、美由希さんが「篠原先生のご子息は?」と尋ねた。
「ああ、車酔いしたから水をもらいに行ったんだ」
あいつは俺と違ってなよなよしてるからな、という物言いまでもが篠原先生らしくて私は感動すら覚えた。ここまで期待を裏切らない人がいるのか。しみじみしていると、背後から「お父さんの運転が荒いんです」と静かな突っ込みが放たれる。
お見合い相手の登場だ。
私も父も美由希さんも、示し合わせたように振り返る。
やっぱり背は高いんだな、とか、でも父親よりはかなり華奢なんだな、とか思いながら視線を少しずつ上げていく。そして顔を見るなり、気付けば私は呟いていた。
「……篠原先生」
名前を口にしたあとで、「いやいや、そんなわけ」と思いかけたけれど、お相手もこちらを見て、「新田さん⁉」と目を丸くしていたので、やはり間違いではないらしい。
彼は、私が高校時代お世話になった教師だったのである。
互いに動揺を隠せないなか、先生は現実逃避をするようによろよろと美由希さんを見た。そこから流れるように、視線の先が父へと移ったとき——その顔が、さっと青ざめる。
そして、
「新田さん……?」
彼は、もう一度その名を口にしたのだった。
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