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家があまり裕福ではなかったから、高校を卒業してすぐに就職できるようにと親に言われるままに商業高校に進学した。高校三年生になり私が事務職を希望したのはもちろん事務のスキルに自信があったからではなく、どちらかといえばコミュ障に近い私が営業職なんて選択肢にもならなかった上に、そうかといって工場勤務が務まるほどの体力もなかったからだ。
どうしても事務職がいいなら公務員になるのがいいよと担任の先生に言われていた通り、民間企業の求人に事務職の募集はほとんどなかった。地元の市役所の試験も受けたけど、一次で落ちた。小さな運送会社が一名だけ事務職で求人していたので、ダメ元で受けてみたら、ほかに何名も応募者がいたはずなのになぜか私のうちに採用通知が届いた。
その会社は〈新世界運輸〉という名前だけはスケールの大きな運送会社で、実際は扱う荷物の半分以上が親会社が発注したもの。会社に発展性はないが、言い換えれば親会社さえ安泰ならこの会社がつぶれる心配もないのだった。
高校を卒業しその会社の管理課に勤め始めた。管理課には社員が課長を含めて五人しかいないが、うち二人が新入社員。高卒の新入社員は私一人だったけど、同じ職場にもう一人大卒で新入社員の男性がいた。
彼の名は原光留。私もぼんやりした性格だけど、彼は私以上にぼんやりした人に見えた。そんな性格だからよく同じ課の同僚にからまれていた。もう十年この職場にいて職場の主のように振る舞うこの同僚には課長も含めて誰も注意できない。
「大学出てるくせにこんなこともできないのかよ」
「こんな無能を採用するなんて、誰がこいつの面接やったか知らないが、どうかしてるぜ、まったく」
そう言う同僚は高卒で主任、私より十歳年上でバツイチの男性。そんなきつい性格だから離婚されるんですよと心の中でずっと思っていた。
私と同じような性格の光留がいじめられるのを見るのが悲しくて、入社からまだまもない六月頃、年と学歴は違うけど同じ新入社員同士という気安さもあって、いっしょに食事しませんかと思いきって誘ってみた。食事といっても私も光留もふだん弁当持参。お弁当を職場から出てどこかで二人で食べるだけの話だ。
光留の快諾を得て、昼休み、私たちは会社の近所にある公園に来た。
以前から感心していたが、今日の光留のお弁当もウインナーをわざわざタコさんにしたり、赤・黄・緑と色の違う食材を使ったりと食欲のそそらせるもの。一人暮らしの彼はもちろんそれを手作りして毎日持参してくる。そのことも意地悪な同僚の攻撃材料になっていた。男のくせにせせこましい、と。その人の昼食はいつもカップラーメン。それが男らしいとは思えないんですけどね。
とはいえ、その件に関しては私は誰も非難できない。だって、実家暮らしの私はいまだに高校時代と同じく母に弁当を作ってもらっているから。
「原さんのお弁当、いつ見てもおいしそうって思ってました」
「小倉さんのお弁当のほうが全然おいしそうですよ」
「私のお弁当には触れないでください。お母さんが作ったもので、私が作ったものじゃないので。それに今日だっておかずは肉じゃがだけだし……」
「肉じゃがを嫌いな男はいませんよ」
知ってる。私の弁当がいつも肉じゃがだの豚の生姜焼きだのと男の人が好きそうなおかずになっているのは、父のお弁当と毎日まったく同じものだからだ。
「もしよかったら交換しませんか?」
私はそれを〈おかずを〉という意味で言ったのだ。それなのに光留はうれしいですと言いながら、弁当箱ごと私によこした。
光留のお弁当は清潔感あふれるものだったし、母が作った肉じゃがとごはんだけの弁当も人に食べさせて特に問題なさそうに見えたから、そのまま私も交換に応じた。
一瞬迷ったけど真っ先にタコさんウインナーに手を伸ばす心の幼い私。
「ウインナー、好きなんですか?」
「子どもっぽくてすいません」
「僕も好きですよ。子供の頃を思い出しますよね」
「分かります。うちの母は一度もタコさんにはしてくれませんでしたけどね」
同僚にいじめられている彼を励ましてあげようというのが当初の目論見だったはずなのに、いい意味で当てがはずれてくれて、思いのほか会話が弾んだ。
これからも毎日お昼をいっしょに食べましょうと約束して、昼休みが終わる五分前、私たちはまた職場に戻った。
ままごとみたいなお弁当交換を毎日続けた。娘のためにと思って作っているお弁当を赤の他人の男に全部食べられていると知ったら、お母さん怒るだろうなと申し訳ない気持ちになりつつも、いけないことをしているという小さな罪悪感が私のいたずら心をくすぐった。
炎暑の八月頃、汗をぬぐいながら私たちは公園でお弁当を食べた。その頃、お互いを同僚以上の存在として意識し合うようになっていた。ぎごちなく意識し合うだけで、当たり障りのない会話だけ続けるままごとみたいな恋だった。
それっぽい会話のやり取りはなかったが、私が彼に恋しているように、彼も私に恋心をいだいてくれていることは分かっていた。
だから私から告白したとき、
「ごめん。僕から告白しないといけなかったのにね」
と謝られた。
私たちは恋人同士になった。お昼だけでなく、仕事帰りにも彼と会うようになった。お互いの呼び方も下の名前で呼び合うようになった。
彼は相変わらず意地悪な同僚にいじめられていた。課長ももう一人の同僚も見て見ぬふり。新入社員で、しかも一番年の若い私に、職場いじめを止める力はなかった。いじめられている光留本人より、それを見ている私の方がよほどもどかしかった。
キスをしたのも私の方から。十月十日のスポーツの日。十六年前のことだけど、まだはっきり覚えている。
「言っとくけど初めてですから」
「僕もそうだよ」
「えっ。光留さん、四年間大学に行ってたんですよね?」
「大学には行ってたけど……。別に女の子と遊ぶために大学に行ってたわけじゃないよ」
そうだった。遊び慣れてなくて誠実な交際しかしないところも、私が彼に惹かれる大きな理由の一つだ。
秋から冬に季節が移っても、私たちの関係はキスから先に進まなかった。
「クリスマスイブ、どこか行きたい場所ある?」
「じゃあ、光留さんのマンションに」
光留は賃貸マンションで一人暮らし。会社まで徒歩で行けるとは聞いていたが、それ以上の情報は持たなかった。
「なんにもない部屋だよ」
「光留さんがいるじゃないですか」
「七海さん……」
感極まって言葉を失った光留と長い長いキスをした。クリスマスイブの夜、私たちは結ばれるだろう。いや、とっくに心は結ばれている。体だけ結ばれていない不自然な状態を正すだけのこと。光留に初めてを捧げることにほんの少しの不安もなかった。