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サーモンラン、連勤6日目の午後。
ペットボトルが恒の手から滑り落ちた瞬間、
待機室の空気が一段と静かになった。
恒は、呆然としていた。
拾おうともしない。
ただ、手を見つめていた。
ひろは、何も言わずに近づいて、恒の肩に手を添えた。
そのまま、椅子に座らせる。
恒は抵抗しない。
ただ、されるがままに腰を下ろす。
ひろは、落ちたペットボトルを拾い、
待機室の奥へと歩いていった。
恒は、ぼんやりとその背中を見ていた。
頭の中が、うまく動かない。
音も、匂いも、遠くにあるようだった。
数分も経たないうちに、ひろが戻ってくる。
ペットボトルにはストローが差し込まれ、キャップは開いていた。
ひろは、それを恒の前に置く。
そして、何も言わずに恒の頭に手を伸ばす。
指先が、髪をそっと撫でる。
力はない。
でも、確かにそこにある。
恒は、目を伏せたまま、静かに言った。
「……ありがと。」
その声を聞いた瞬間、ひろは違和感を覚えた。
恒の声に、温度がなかった。
いつもなら、少し照れたような響きがある。
でも今は、ただ言葉が口から出ただけのようだった。
ひろは、撫でる手を止めずに、恒の顔をそっと見る。
目の焦点が合っていない。
呼吸は浅く、肩の動きも小さい。
——ああ、これだ。
——これ、私がよくなるやつだ。
ひろは、静かに理解した。
恒も今、解離している。
自分がそうだったとき、恒は何も言わずに隣にいてくれた。
左側に立って、声をかけずに、ただそこにいた。
今度は、自分の番だと思った。
ひろは、何も言わずに恒の隣に座る。
ペットボトルのストローが、恒の手の届く位置にあることを確認する。
それだけで、十分だった。
恒は、少しだけ水を飲む。
でも、表情は変わらない。
ひろは、静かに息を吐いた。
そして、心の中でそっと思った。
——戻ってくるまで、待つ。
——何も言わずに、ただ隣にいる。
それが、恒がしてくれたことだから。
待機室のライトが少しだけ揺れる。
出撃まで、あと数分。
ふたりは並んで座っていた。
言葉はない。
でも、支えは確かにそこにあった。