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翌日の朝から半日をかけ、ユカリはダビアの穏やかで物静かな川べりを遡った。乗せてもらえる船を探したが、盗賊団すら逃げ出したという砦の噂は街の隅々まで広がっているらしく、元来打算的なミジームの街の船乗りでさえ気乗りしないようで、交渉にすら応じてもらえなかった。
針と糸を売ってくれた少女には悪いと思ったが、ユカリはすでに裾を捲り上げている。やはり歩きにくかったからだ。場所を考えろという教えは心に留める。
蒼穹を黄金に彩る真夏の太陽が南の玉座を降りた頃、ユカリはかつて華やかなりし時代には国境であった湖へとやってきた。
幾度となく若者たちの血の流れた湖だが、今は深い青に染まり、光の精に白波を浴びせ、喜び戯れている。寄せては返す眠たげな波の音が静寂と沈黙の布地に縫い込まれていく。辺りには心にまで吹き込むような爽やかな風が吹いている。湖の周囲を囲む野原には錆びた剣や主なき鎧が横たわっており、馨しい緑が控えめに香り立たせ、全てを失った魂を慰めていた。
噂に反して、とても幸福な土地のようにユカリは感じた。積み重なった罪悪と不幸が見え隠れしているにもかかわらず、光も木々も野原も湖も全てがそれらを拒むことなく受け入れている。ここは人にだけよそよそしい。
湖に張り出すように構えられたその砦は、荒れ果て、とても人が住めそうにない有様だ。在りし日の形は保っているが、濃い緑の蔦に覆われ、中庭の木が大きく育ち、豊かな枝葉に陰っている。廃れた砦というよりは寄り集まって押し込められた森のようだ。周囲にも人が住んでいたらしき建物の跡はあるが、こちらは土台といくつかの柱を除けばほとんどが土に還り、とうに過ぎ去った営みの亡霊だけがぼんやりと潜んでいる。
ユカリは確かに魔導書の気配を感じていた。あいかわらず距離も方向も分からず、目に見えず、音に聞こえず、肌に触れられず、ただユカリの心をざわめかせるのだった。とはいえ、目の前の朽ち果てた砦以外に探すべき場所はないだろうとユカリは考えた。他に木立というほどの木々も生えていない野原にあって、あの砦だけは異常だ。
街を出る前に船乗りたちからいくつかの噂を聞いた。巨大な鳥の化け物を見たとか、砦から美しい歌声が聞こえたとか。こういった噂と、その変形が無数に街を跋扈していたのだった。
ユカリは辺りを見渡すが化け物どころか、普通の鳥の姿も見えず、歌どころか人の気配もない。
「どうだ? 魔導書の気配は感じるのか?」とクチバシちゃん人形がユカリに尋ねる。
「どうだろうね」とユカリは曖昧に答える。
どうにも話しづらい。クチバシちゃん人形に話すことはネドマリアにヒヌアラ、ケトラ、パピに筒抜けになるということだ。そのくせユカリの質問にも肝心な部分は答えない。
「彷徨うユカリ」とクチバシちゃんが調子っぱずれに歌い上げる。「故郷には戻れない。傲慢ユカリ。魔導書を独り占め」
ユカリはクチバシちゃん人形の額を指で弾く。「もう、ややこしいから歌わないでよ」
「だから捨てればいいのに、って言ってるのに」とグリュエーがぼやく。
「だから捨てないってば、これはユーアの人形なんだから。勝手に捨てられないよ」
クチバシちゃん人形の言葉はグリュエーに届くが、グリュエーの言葉はクチバシちゃん人形に届かない。しかし、ユカリの言葉から、グリュエーが何と言ったのかクチバシちゃん人形は察したらしい。
クチバシちゃん人形はさらに酷い歌を歌い続ける。「卑しい風はユカリの奴隷。好きなところに吹けやせず。昨日も今日もユカリの奴隷。自由が聞いて呆れるぞ」
『羊の川』の酷い替え歌だった。
「人形のくせに!」とグリュエーがユカリ諸共に吹き付け、ユカリの髪がめちゃくちゃになる。「グリュエーは誇り高き使命を抱いてる! 悪を散らす緑風! 世界を吹き飛ばす一端! 過去と未来を超える風! グリュエーの名を背負う者!」
「もう! 物騒なこと言わないでよ、グリュエー」髪を撫でつつユカリは愚痴る。
クチバシちゃん人形のひどい歌は止まない。
「悪口雑言、噂を運ぶ! 顧みられぬ小間使い! 西へ東へ罵詈雑言! 今日も明日も明後日も!」
ユカリとクチバシちゃん人形は強風に巻かれて野原を転がった。
ユカリは砦から少し離れた河原の手ごろな大きさの岩に腰かけ、ミジームの街で買っておいた昼食、豆を練り込んだ麺麭に焙り焼きの兎肉を挟んだものを頬張る。少し塩辛いが、疲れを労う味わいだ。
「兎は最期に何か言ってた?」と合切袋から這い出てきたクチバシちゃん人形が意地悪を囁く。
ユカリは卑しい小鬼を前にしたような眼差しをクチバシちゃん人形に向けた。
「これから食べるものに話しかけるわけがないでしょ?」
「焙り焼きにした兎肉とも喋れるのか?」
答えなければいいのにユカリはつい答えてしまう。「まあね。話したことないけど」
「それは兎そのものとは別の人格なのか?」
「たぶん、別だと思うけど。試したことはないよ」
「何で?」
「言わなくても分かるでしょ」
「分からないなあ。何でだろうなあ」
「もういいから」
話さなくても想像しただけで、ユカリは気持ちが悪くなってきた。今、お腹の中の兎肉が喋り出したら頭がおかしくなってしまいそうだ。
魔法少女の魔法の一つ、万物と会話する魔法に恐らく制限はないとユカリは予想していた。だからこそ、ユカリはこの魔法を乱用しないことに決め、特に必要ない限り、食用可能な動植物や人体の一部などと会話することを自分自身に禁じた。ユカリ自身が己の心を守るために必要な規則だろうと考えたのだった。とはいえこの魔法は時々暴発するきらいがある。今、口に入れようとした物に挨拶されるのはとても気まずいことだ。ユカリは身をもって知っていた。
「それよりも」食事を終えてユカリは合切袋の中をあさり、針と糸とクチバシちゃん人形の千切れた腕を取り出した。「繕うからこっち来て」
クチバシちゃん人形が針と自分の腕を交互に見比べる。「その為の針と糸か」
「そう。私が破っちゃったようなものだからね。何とかしようと前々から考えてたんだよ」
ユカリは子供でもあやすように微笑みを浮かべる。
「知らね。勝手にやってろ」
クチバシちゃん人形は一人野原の向こうへ歩いて行ってしまう。
「一人じゃできないってば。あまり遠くまで言っちゃ駄目だよ、クチバシちゃん」とユカリが呼びかけるが、クチバシちゃん人形は言葉でも身振りでも答えなかった。
「そのままユーアのところに帰ってしまえばいいのに」とグリュエーが愚痴る。
ユカリは可笑しそうに笑う。「意地悪なんだか優しいんだか」
その時、幾万の群衆が空高き雲の頂に座す神々に祈りを届けるように、割れんばかりの歌声が轟く。
ユカリは反射的に耳を塞ぐが、その歌声はまるで頭の中で鳴り響いているかのように、耳の奥へ繰り返し叩きつけられる。
勝利の喝采、栄光の賛歌、英雄の称揚。幾重もの喜びと祈りの声が混然一体となった荘厳な旋律が、優雅な律動を得て、湖面を揺らし、大地を震わせ、水底から岩の裏にまで響き渡る。楽器の加わらない声楽が豊かな音と深い響きを振るい、湖とその周辺の野原全体を席巻する。それはまるで砦が歌っているかのようだ。
「栄あれ、我らが王と、我らが楽土。
天仰げ、救いの主、舞い降りるまで。
歌え、歌え、栄光よ。其の容貌に、喜びを。
栄あれ、我らが王と、我らが楽土。
羽広げ、高い空へと舞い上がろうぞ。
歌え、歌え、永遠を。我が王国に、幸いを」