曖昧に形成された意識は、軽快な機械音によってすぐさま浮上させられる。はっとなって顔を上げてみれば、目の前には険しい表情のロウくんが立っていた。真横に聳える校舎と体育館倉庫に挟まれて視界は若干翳り、その狭い空間には蝉の鳴き声が響き渡っている。手元で鳴り響く着信音で僕は次に続けるべき言葉を思い出し、カラカラの喉を無理矢理こじ開けた。
「──リトくん、だ」
「取れ」
あの時と全く同じ台詞を返すロウくんに、タイムリープって思ったよりピンポイントに指定できるもんなんだな、とまるで場違いなことを考える。建物の影から様子を見てみれば、屋上にはあの巨大なKOZAKA-Cが鎮座していた。
ああ、『あの時』だ。今までずっと何度も何度も夢に見て、その度に後悔しては自分を呪ったあの瞬間がここにある。
もう一度やり直せるなら、あの日に戻ることができるなら。悪夢を見て飛び起きて、その度に泣きながら何度も何度も記憶がすり減るくらい考えた。
──もう二度と、間違えない。
手の中でけたたましい音を立てるスマホをマナーモードに切り替えて、ロウくんへと向き直る。
「ねぇ、ロウくん。KOZAKA-Cって刃物と鈍器ならどっちが有効かな」
「は……? ……つうか電話は」
「切れたらかけ直すよ。……で、例えばあいつって素人の全力の攻撃とかでも討伐できると思う?」
「──お前、まさか」
ロウくんは早くも僕の思惑に勘付いたらしく一層表情を固くした。次の瞬間背中と両腕に鈍い痛みが走り、ぐらつく視界いっぱいにロウくんの顔が映っていることで、ようやく自分が壁ドン──それも恐喝の方のやつ、をされていることを理解する。
「何考えてんだ、変身もできねえ素人はKOZAKA-Cに近づくな。今すぐ考え直せ」
「──って、『組織』の人に言われてきたの?」
「……ッ!?」
僕の言葉がよほど図星だったのか、ロウくんは目を丸くして言葉を詰まらせてしまった。
……あまり時間がない。どうにかして彼を説得しなければ。若干緩くなっていた腕の拘束を解き、逆にロウくんの肩を掴んで必死に懇願する。
「頼むよ、ロウくん……僕1人でどうにかしなきゃいけないんだ、もう時間がないんだよ。お願い、お願いだから……!」
「ッ、でも──」
「──っきみだってわかるだろ! たったひとりの友達を、失いたくない気持ちが!!」
「…………っ、!」
思わず声を荒げると、ロウくんは一瞬泣きそうに瞳を揺らめかせた。
きみだって知ってるはずだ。全部1人で背負い込もうとする友達を何とかして救いたい気持ちと──それはきっと、誰に何と言われようと止まれやしないことも。
ロウくんはぐっと息を止めて逡巡すると、懐から三日月のような形のナイフを取り出し放って寄越した。危なげなく受け取ったそれはよく見ると刀身の曲線の内側が刃になっている、所謂『逆刃』の形状をしている。装飾品やホルダーもついていないことから、おそらく護送車の周りに散乱していた適性者のいないデバイスのうちのひとつをくすねてきたのだろう。
ロウくんもロウくんで何か特殊な出生を持つようだし、もしかすると自刃のために取っておいたのかもしれない。それか、刀を取り上げられた時に不意打ちで反撃する用のものかも。
──そしてそれを、僕に手渡すということは。
視線をロウくんの方に戻してみれば、彼はひどく苦しげな顔で星導くんの方を見ていた。……これはきっと星導くんの適性デバイスではないのだろう。きっと彼の戦闘スタイルはデバイスに頼ったものではなく、もうすでに変質してしまった『新しい手足』によるものになるだろうから。
ロウくんはできるだけ手短に済ませようとしてくれているのか、いつもより更に早口で捲し立てる。
「──刺突。手段を選ぶ余裕がないならまずは何でもいいから刃を突き刺せ。そんで体重ごと下に引きずれば否が応でも肉を裂くことができる」
「……初心者が扱うにはちょっとピーキーじゃない? これ」
「は──甘えんな。どうせ適性もないデバイスなんだし、本領は発揮させらんねえよ。だから全力でやれ。絶対に一撃で仕留めろ」
「……うん、分かった。ありがとう」
「────待て」
早速体育館倉庫から校舎へ侵入しようとすると、ロウくんに引き留められてしまった。
僕の肩を掴んだロウくんは何事かを口籠って、やがて意を決したように真っ直ぐこちらを見据えた。
「……俺達のヒーロー衣装は、あいつらの瘴気から身を守るためのもんでもある。瘴気の正体は分かんねえけど、それを真っ正面から浴びたらどうなるか──保証はできない」
「…………」
『瘴気』というのは初めて聞く言葉だけど、確かこの時はまだKOZAKA-Cが負の感情をエネルギーに換えて溜め込んでいることは分かっていなかったんだったっけ。
負の──落胆や失望、『停滞』の感情。それらがパンパンに詰まってあんなにも大きく膨らんだ身体。あの時弾けたKOZAKA-Cから立ち昇っていた黒い煙と、キラキラした雨粒のような何か。──あれを、ヒーロー衣装のご加護もなく真正面から浴びたらどうなるか。
一瞬だけ意味もなく躊躇ってみるけど、とっくの昔に覚悟は決まっていた。不安そうにこちらを見るロウくんの目を、しっかりと見つめ返す。
「──きみ達はこんなに全てを犠牲にしたっていうのに、僕だけが何も失わずに済むなんてそんな都合のいい話があるかよ。これから先何を失ったとしても、とっくに腹括っちゃってるんでね」
「……一徹お前、」
「それより、ロウくんはるべくんのこと見といてあげてよ。ちゃんとそばにいて、名前を呼んであげて。──本当に、何もかもが分からなくなっちゃう前に」
ロウくんは僕の何か知っている風な口振りに疑問符を浮かべつつ、これから星導くんに起こるであろうことを何となく察しているのか、特に反論することもなく戻っていった。
屋上の方を見上げてみれば、巨大KOZAKA-Cは今にも足を付けてしまいそうなほどに下降してきていた。いつの間にやらスマホのバイブレーションも止んでいる。
……思ったよりも時間が無いみたいだ。
僕は去り際にロウくんの方を振り返り、拳を突き出してみせる。
「──じゃあまた、明けの明星が登る頃に!」
「……おう」
そうして差し出された拳を軽く小突き、倉庫の建て付けの悪い扉を開ける。
──さて、これからが本番だ。
僕は一度深呼吸をして、後はもう振り返ることなく屋上へと続く廊下を走り出した。
§ § §
学校の廊下を走るのって、卒業してからの方が罪悪感強いんだな。……いやこの時の僕はまだ在校生なんだけど。
無事に校舎へと侵入することに成功した僕はまず、リトくんに折り返しの電話をかけてみることにした。走りながらスマホを起動して、不在着信の通知をタップする。リトくんからしてみれば、突然クソデカいヤバい敵が現れたから同じ建物に残っている可能性のある友人の無事を確認しようと思ったらまさかの応答無し、とかいう我ながら心配すぎる状況なので多分すぐに出てくれるだろう。
案の定階段に差し掛かる前に呼び出し音が止み、《ッもしもし!?》とほとんど銃声みたいな声が鼓膜を貫いた。
《おいテツ、お前今どこいる!? もし校舎残ってんなら早く──》
「──避難しろって言うんだろ。残念だったな! すぐそっち向かうから、待ってろよクソガキ!!」
《っ、あ? ……はぁ゛!!?》
リトくんの心底わけが分からないというような特大の絶叫に、思わずスマホを耳から離した。懐かしいなぁこの感覚……なんて浸ってる場合じゃないか。
もう一度スマホのスピーカーを耳に押し当ててみれば、リトくんの方から聞こえるのは硬質な床を力強く踏み鳴らす音。まずいな、もう階段を登っているらしい。
足の速さではまだ僕の方が勝っているはずだ。高校の校舎って意外と覚えてるものなんだな、と記憶を頼りに一番近い階段を目指してギアを上げる。
《何言ってんだバカ! 早く逃げろって!!》
「いーや絶ッッ対にお断りだね! 意地でも帰らないよ俺は!!」
《〜〜ッんなんだよその意地……! っつか、あれだ、ロウ! あいつに伝えて欲しいことがあんだよ!》
「残念だけどロウくんの番号は僕も知らない!!」
《はァあ!? 役に立たねえなお前!!》
「あ、言ったね!? あ〜あ今リトくんが言っちゃいけないこと言った!!」
そうしてぎゃあぎゃあ言い合っている内に階段まで辿り着いたので、迷わず駆け上がる。この感じも何だか懐かしい。……いや、ただでさえ呼吸するのに忙しいんだから叫ばせないでくれ。
あの時、確かリトくんの方には組織から星導くんを戦闘に連れて来るよう連絡があって、それが駄目ならリトくんが出るしかないとも言われていたんだったか。当時の状況からしても、リトくん1人に任せるのはあまりに危険な任務だった。それなのに今僕は生身で、こんな小さなナイフひとつで乗り込もうとしている。
──いや、やってやるさ。こちとら縛りプレイには慣れているんだ。
「大体ねぇ、きみってばいつもいつも全部ひとりで抱え込もうとしてさ、そうやって蚊帳の外に追いやられた側の気持ち考えたことあんの!? 何にも教えられないまんま、ただ友人が傷ついてくのを見守ることしかできないんだぞ!?」
《こっちだって言わせてもらうけどなぁ!? お前だってただ黙って守られてたことなんてねえじゃねーか! いっつも危ねえことばっかしてこっちに心配かけて、まずは自分の面倒みてから言えよ!!》
「あぁ゛!? それを言うならリトくんだって──」
その瞬間、電話越しにガチャン、と鍵の回る音がした。罵り合っていたせいで気がつかなかったけど、どうやらリトくんは一足先に最上階まで着いてしまっていたらしい。
まずい。まずい、早くしないと間に合わない。早く、早く!!
限界を迎えて縮こまろうとする足を無理矢理振り上げて階段を登っていると、《テツ、》とさっきまでとは打って変わってやけに静かな声が耳に届いた。
《……今ならまだ間に合うから、もういい加減帰れ。ヒーローですらないお前が来たところでどうにもなんねえだろ》
「はっ、そうやって嫌われるようなこと言っとけば怒って帰るとか思ってる? 僕がそんな薄情な奴だって言いたいのか」
《そういう問題じゃねえんだよ。……俺の雷はまだ制御が効かないから、下手したら周りまで巻き込むことになる。お前だって怪我したくないだろ? だから──》
「〜〜ッじゃあきみは!! 自ら進んで怪我したいとでも思ってるのかよ!!」
《────ッ、》
喋りながら階段を登り続けるのにも限界が来て、とうとう踊り場で動けなくなってしまう。少しでも足止めをするために僕は精一杯の啖呵を切る。
「そりゃあ誰だって自分から怪我なんてしたくないだろうよ! 傷つきたくないし戦いたくないし、夢だって諦めたくない! ……それなのに、なんできみだけ請け負わなくちゃならないんだ! なんできみだけが、何もかも失わなくちゃならないんだよ!!」
《……っ、そんな、そんなこと……》
「いいや違わない、何にも違わないよ、リトくん。きみは──きみだけが変わらなくちゃいけない道理なんて、あっていいはずがないんだよ!!」
そう絶叫した瞬間、屋上の方から頭に直接響くような声が降ってきた。
ああ、あれは、あの声は。
うわんと頭に反響するそれはあの時遠くから聞いたよりも更に鮮明で明瞭で、思わず引きずられてしまいそうなほどに切実な、魂の叫びだった。
──離れたくない。あの人と一緒にいたい。この想いを捨てたくない。
──大人になりたくない。責任を負いたくない。夢を失いたくない。無邪気な子供のままでいたい。
──このままでいたい。ずっと。ずっと。
────永遠に!
《……………………》
電話越しにリトくんが息を呑むのが分かって、何だか僕も泣きそうになってくる。
ああそうだ、僕だって同じだよ。
リトくんやロウくんやるべくん達とずっと友達でいたかったし、くだらない話で笑っていたかった。責任は負いたくないし働きたくない。ずっとこのままでいたい。
あの時リトくんが雷と一緒に自分の中から弾き飛ばした迷いも、僕と同じだったんだろうか。彼もまた僕と同じように迷って悩んで後悔して、たったひとりで『ヒーロー』になるために、それを全部振り切ってしまったんだろうか。
それなら──もしもきみが同じ気持ちなら。
「……ッよく聞いとけ、リトくん。その声、ひとつも聞き漏らすんじゃねぇぞ」
唸るようにそう宣言し、もう一歩たりとも動けないと悲鳴を上げる足を無理矢理前に進める。
腕も背中も肺も全部痛い。肺よ、将来喫煙ができるくらいには持ってくれよ、と心の中で軽口を叩いてみる。
──ねぇリトくん。
例えば僕らが将来、ミュージカル俳優になったりネット配信者になったり、はたまた全く別の学校に通い直したりなんかすることになったとして。
それでも僕らは途中で離れ離れになったりどちらかが記憶を失くしてしまったりせず、ずっと一緒にいられると思う?
きみの見た目はもう随分変わっちゃったけど、この悪友みたいな関係だけは何にも変わらないまま、ずっと仲良くしてくれるかな。
ねぇ、リトくん。
輝かしい舞台の上からきみの美しい歌声が響くことも、インターネットで僕の才能が開花することもなかったこの世界で、僕らは一体何を残せるっていうんだろう。
僕らの青春は、何のために犠牲になったっていうんだろう。
何もかもを犠牲にして、全て失って。そうして最後の最後まで僕らに残されたのが、己の正義を貫くことだけなんだとしたら。
僕はそれを、この命に代えてでも証明してみせるよ。
「……ッ──おまたせ、リトくん!!!」
そうしてようやく辿り着いた屋上へと続く扉を蹴り飛ばし、僕は全力で呼びかける。僕の声に振り向いたきみは、ほんのちょっとだけ泣いていた。
その奥に佇む巨大な影。あぁヤバい、近くで見るとこんなに怖いんだ。こんなのときみはひとりで戦ったんだな。その胸元の小さな相棒を必死に鼓舞してやりながら、自分は涙さえ流さずに。
「っテツ、お前何する気──」
「はッ、見てろ──こうするんだよ!!」
そのKOZAKA-Cはとても、見上げるほどに大きい。あまりにも大きいので、近距離の武器では足元に刃を届けることすら難しいらしい。
──なら、『飛んで』届ければ済む話だ。
入り口から助走をつけて、僕は思い切り跳び上がる。ジャンプ力には自信があった。
巨躯のせいか愚鈍な動きを先読みして、このナイフの切先を、そいつの脳天めがけて力いっぱい振り下ろす。
「────悪・即・斬ッッ!!!」
ぶしゅッ、と水風船でも割ったみたいな手応えとともに質量のある煙が僕に吹きかかる。
その勢いはあまりに凄まじく、風圧だか重力だかかその場その時だけ外に向かって放たれているような、そんな感覚さえした。
目が眩む。煙みたいに沁みるってわけじゃないけど、何だか視神経そのものを揺さぶられているみたいに視界がぐわんぐわんと歪み出していた。
耳鳴りがする。──いや、正確には耳鳴りではないんだろう。これは至近距離で次々に発される、未来への恨み辛みの言葉達だ。
こんなの生身で受けちゃったらどうなるんだろう。これから僕はどうなってしまうんだろうか。
……ああ、でも、あぁ────もう二度と、きみをひとりにはしないよ、リトくん。
「……──あ、れ……?」
どれくらい経っただろう。煙が晴れて煌めきが空へ昇っていって、ようやく視界が戻ってきた頃。どこを見てもリトくんの姿は見つからず、使い物にならない足を引きずって探し回る。
未だ黒い靄のようなものが漂う最中、貯水槽の手前のフェンスがひしゃげているのが目に入った。
──まさか。
「……ぅ゛…………、」
「リトくん……!?」
リトくんはかろうじて片方の手でフェンスを掴んでいるが、破れたフェンスはぐちゃぐちゃに変形してしまっており、せめて指を引っかけるので精一杯なようだった。
宙ぶらりんになっているリトくんの周りで水色のプラズマが弾けるのを見て、知らぬ間に彼が僕の攻撃を手伝ってくれていたことを知る。おそらく僕へのダメージを少なくするためにKOZAKA-Cに近づきすぎたんだろう、あの爆撃に巻き込まれてフェンスまで飛ばされてしまったらしい。
よく考えてみれば当たり前のことだ。こんなド素人が倒せる相手なら、元よりヒーローなんて存在は必要がない。
ほら、やっぱりきみはこうやってヒーローになることを選んでしまうんだ。
近づこうにも外側にめくれるように倒れたフェンスの上には乗れないし、その端っこに掴まっているリトくんまではどれだけ腕を伸ばしても届かない。それでもどうにかしてやりたくて、必死に手を差し伸べる。
「……っリトくん、手! 僕の手掴んで!!」
「ッ無理、だろ……お前、軽いし……」
「んなこと言ってる場合じゃないだろ!! ほら、早く!! ──いいから手ぇ握れや!!」
「……〜〜〜っっ!!!」
ぱしっ、と手と手が掴み合い、それと同時にフェンスが屋上の壁ごと崩れ落ちた。
──あ、やばい。死ぬかも。
迫り来る地面を見てそう覚悟した瞬間、耳元で「にゃおん」とどこかで聞いた鳴き声がした。
「──〜〜〜〜い゛ッッ……てぇえ゛〜〜……!!」
「おま、お前……ッ! 結局駄目じゃねーかよ……!」
「ああ゛ん!? こうして生きてるんだからありがとうのひとつくらい言ってくれても良いんじゃないかなぁ!?」
薄い芝生の上に放り出された僕達はどうしたわけか全くの無傷で、むくりと起き上がるや否やすぐさま言い合いを始めてしまう。同じく芝生の上に転がっているキリンちゃんは目を回してしまったようで、こてんと横になっていた。──かわいいな。こんなかわいい子には、やっぱり兵器じみた扱いなんてされて欲しくない。
頭上がやけに明るいのに気がついて見上げてみれば、あれだけ重たかった雷雲は少し切れ間が見えてそこから暖かな陽射しが差していた。その光を反射して、リトくんの右耳のピアスが煌めく。
「──リトくん。僕はどうしてもきみに、言って聞かせなきゃいけないことがあるんだ。これからヒーローとして名を馳せるであろうきみに、僕からの最後の餞……耳の穴かっぽじってよく聞いとけよ」
「口悪ィな」
ぼそりと呟かれた苦言を聞かなかったことにして、イナズマのマークを避けつつその鍛え上げられた肩を思い切り掴む。
特撮作品に出てくるヒーローのような口元のマスクは表情を半分以上隠してしまうけど、その目元の動きだけでリトくんが動揺しているのがわかった。そりゃそうだ、この僕が正面から真っ直ぐに目と目を合わせてるんだからな。
あの日、あの瞬間から今までずっと温め続けていた言葉を取り出して、僕はゆっくりと口を開いた。
「いいか、リトくん。──諦めるな。きみはどうしたって自分より他人を優先してしまう性分だし、そのために拳や命さえ差し出せちゃうような素晴らしい滅私奉公の精神の持ち主でもある。……でも、だからこそ諦めちゃ駄目なんだよ。やりたいことややりたくないこと、どうしても譲れない信念なんかは絶対に守り通さないといけないんだ。
──きみが『宇佐美リト』であるために。絶対に諦めちゃいけないんだよ、リトくん」
じっと目を見つめて、どうか、どうか伝わってくれと祈る。
あの時僕にできることは何だったのか、それこそ擦り切れるほど何度も考えた。どんな言葉をかければ、どんな顔をすれば、きみに僕の声が届いたのか。
でも結局は万能の説得力のある言葉なんて思いつかなくて、いつも浮かぶのは『変わって欲しくなかった』だなんてみっともなく縋る気持ちばかりで。
だから、その気持ちをそのままぶつけることにした。どうかこの言葉が少しでもきみの後ろ髪を引くきっかけになりますようにと心の底から願いながら。
リトくんのオレンジと水色の瞳がゆらりと揺れて、雫になって溶けていく。
見開かれたその大きな目がじわじわと細められていって、そのうち雫は筋になって、無機質なマスクの上を伝っていった。
「……っ、で、でも、……俺がやらなきゃ、俺が頑張んなきゃいけないんだよ。そうしないと、他の誰かがおんなじ思いをすることになるから、だから、俺……っ」
「……うん、偉いねぇ。よく頑張ったよ、きみは。……でもリトくんは優しすぎるからさ、正義なんて多分向いてないよ。きみが背負いきれなかったそれは、代わりに全部僕が背負ってあげるから──きみはただの善人でいてくれよ」
僕の言葉を聞いて、リトくんが顔を上げる。
「……──何お前、適性見つかったの?」
「いや? 全然。もうからっきし駄目だね。……でも、どうにかしてヒーローになるよ。腐った組織ごと叩き直すような『絶対的正義』になって、いつか絶対、きみの隣に並んでやるからな」
「は、……んだよ、それ」
遠くからサイレンが聞こえる。組織の人達がようやく駆けつけてきたんだろう。
……全く持って遺憾だ。たったひとりの、しかもまだ高校生のヒーローに任せて今まで何をしていたんだ。さっきまで星導くんに凶器を向けていた卑怯者どもめ。
どうせ今の僕は全身にKOZAKA-Cの瘴気もとい停滞のエネルギーを浴びた後なので、何やら小難しい検査やデータ収集など組織にとって無視できない存在になっていることだろう。
どうせなら内側から作り替えてやるからな、見てろよヒーロー組織。
そう心に誓ったのも束の間。突然耳鳴りがしたかと思うと、意識がふわっと遠のいた。どうやらそれは『タイムリミット』の訪れを現しているようで、体はそのままなのに意識だけがどんどん切り離されていく。
感動の再会だったんだし、どうせならもう少しくらい学生気分を味わわせてくれたっていいじゃないか。少しだけ不満に思わなくもないけれど、この身には余るくらいの機会を与えてくれた鬼──じゃないや、ミランくんには感謝してもしきれない。
ブラックアウトしていく視界に映るのは、いつかあの日みたいにいたずらっぽく笑っているリトくんの顔。
これが守れただけでも、僕の中では大偉業だ。
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