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逃げるように自宅に帰った慶一朗だったが、リアムとは違ってそのまま眠ることも出来ず、ベッドの上で身体を丸めて何度も寝返りを打っていた。
朝帰りの後に散々眠りこけた為に身体が眠りを要求していないこともあったが、それ以上に大きな理由から眠れそうにもなかった。
リアムのお前が好きの言葉が、慶一朗の胸の中に染み込み、心の奥深くで本人すら気づいていない小さな感情に届き、水を得た植物のように花開き始めたのだ。
リアムの告白は今まで何度か言われたものと同じ顔をしていながら、その奥底に得体の知れないモンスターがいるような不思議な感覚があり、無意識にそれを感じ取った慶一朗が逃げ帰った最大の理由、恐怖に繋がっていたのだが、何かが変わることへの恐怖を自覚できていない慶一朗には、ただ訳の分からない恐怖としか感じられなかった。
幼い頃から独りきりで生きて来た慶一朗が十歳の夏に運命的な出会いを果たし、そこから彼の人生が大きく動き始めるのだが、その前夜も今と似たような胸のざわつきを感じていた事を思い出し、前髪をかきあげながら溜息をシーツに落とすと、眠れないのにベッドにいる理由がないと起き出してリビングに向かう。
お気に入りのドラマに出てくる宇宙人やモンスター。それらをデフォルメしたぬいぐるみやサイズはあまり大きくないフィギュアをソファで膝を抱えながら見ていると、ふと隣が気になり、座面を撫でて膝の間に頭を落とす。
リビングで好きなドラマを一緒に見ていた時、ものの試しにと横になってテレビを見てもいいかと問いかけると、好きなようにと笑顔で促されて横になった。
大きめのクッションは麻のカバーが掛かっていて、手触りはゴワゴワしていてあまり好きな感触では無かったが、リアムのものとしか言いようのない匂いが鼻腔を擽り、ドラマよりもそちらに意識が向いてしまった結果、気がつけばリアムの匂いに包まれるように広いベッドの真ん中で眠っていたのだ。
人の家で完全に眠り込むなど殆ど経験が無く、目が覚めた時によくドラマなどである、ここは何処だと呟いたぐらいだったが、リアムのベッドルームだと気付き、暗い階段を降りて行った慶一朗の視界に入ったのは、それなりの大きさがあってもベッドに比べればはるかに狭いソファで小さないびきをかきながら寝ているリアムの姿だった。
己の家で人が眠りこけたからとベッドを提供し、自らは狭いソファで寝るなど、慶一朗の人生の中にここまでの優しさを見せる人はおらず、どれほど己のことを優先して考えてくれている双子の兄、総一朗であってもソファで眠ってしまったらそのままにしておき、自らはベッドに入るはずだった。
少しだけ窮屈そうに、でも心地よい眠りにいたらしいリアムだったが、時折眉根が寄せられて夢でも見ているのだろうか、その夢に出ているのは誰だろうかと一瞬考えるが、本当にどうしてここまで優しい-というか慶一朗の中では甘すぎる-と自然と拳を握り、ここまでしてもらう価値が己にあるとは思えずに唇を噛み締める。
好きと言ってくれた事も信じられず、どうしてと答えが出ているのに慶一朗には理解できない問いを繰り返していると、リアムの顔が一瞬歪んだかと思うと、ごめん、エリーという、女性に対する謝罪の言葉が流れ出し、夢にまでみる女性の存在がいることに気付くと、やはり己よりもその人や他の誰かを好きになった方が良いとの思いが強く蘇り、同時に胸がぎしりと音を立てる。
その音の由来から目を背けたかったが、リアム同様慶一朗も己の気持ちを自覚してしまっていた。
だが、リアムの告白に応えたい気持ち以上に恐怖が強く、自らキスをして逃げ帰って来たのだ。
リアムといると眠り込んでしまうほどの安心感を得ていることにも気付いた慶一朗は、その安心感をもたらしてくれた腕は他の誰かの為に広げられるものであり、己の為には広げられないものだと自らに言い聞かせ、重苦しい溜息をこぼす。
出会ってまだ三ヶ月ぐらいしか経っていない、まだまだ互いに何も知らない関係のリアムに、どうしてここまで惹かれてしまうのか。
理由を探せばいくつか挙げられるが、そんな理由などすべて霞んでしまう程、リアムのことがただ好きだった。
こんな風に人を好きになる事など今まで経験してこなかったし、あり得ないと思っていた慶一朗に訪れた変化。
それを齎したのが、人懐っこい子供みたいな笑顔であることは間違いがなく、思い出すだけで自然とこちらも笑みを浮かべてしまう。
その笑顔を、誰かに向ける姿を考えるだけで胸の奥がチリチリと痛むが、好きの気持ちに応えないと決めた以上、その痛みは堪えなければならないものだった。
「────バカだな、俺」
誰かのものになるリアムを好きになったところで、自分のものにはならないのに。
人を好きになどなれば、こんなにも苦しいのにと、自嘲で肩を揺らしながら湿り気を帯びた息を吐いた慶一朗は、我慢できずにベッドルームに駆け込んでベッドに飛び乗ると、スマホを操作し、短いコールの後に聞こえてくる声に悲鳴じみた叫びをぶつけてしまう。
『・・・どうした?』
「Hilfe!! ────助けてくれ、ソウ!!」
もう、どうすればいいか分からない、苦しい、助けてくれと、ドイツ語と日本語混じりで叫んだ慶一朗に、電話の向こうが一瞬静まり返るが、今何処にいると問われてベッドと返すと、助けてくれの言葉が物理的な救助を求めているものではないと察したのか、安堵の吐息が伝わってくる。
「どうすれば良いか分からない・・・っ!」
『ケイ、落ち着け』
聞こえてくる声に落ち着けと何度も促されて漸く己の慌てっぷりに気付いたのか、慶一朗が一つ咳をして寝返りを打つ。
『何があったか話せるな?』
「・・・リアムに、告白された」
告白されたのは少し前だし、その時にはキスもしたが、俺以外の誰かを好きになれと断った事、それなのに好きだと言ってくれること、そんな彼に甘えてしまい、さっきまで彼の部屋で眠ってしまっていた事を自嘲混じりに告げた慶一朗の脳裏、辛い時にまで笑うなというリアムの怒りすらこもった声が蘇り、自然と口の端が下がってしまう。
「ソウ・・・笑うな、って・・・」
『え?』
笑顔で全ての感情を受け流して来た己に、祐輔と一央以外に辛い時にまで笑うなと怒鳴る男が現れたと伝えると驚いたような気配が伝わり、その後納得したような溜息を双子ならではの感覚で捉えた慶一朗は、同じような事を言われたのかと問い返し、ついさっきと答えられて飛び起きる。
『さっき・・・リアムと話をしていた』
メッセージが届き内容が気になったから電話で話をしていた所だと教えられ、思わず隣の部屋とを隔てている壁を睨むように見つめた慶一朗は、何か言われたかと恐る恐る問いかけ、お前と同じだと返されて目を丸くする。
「同じ?」
『ああ・・・お前も辛い時に笑うんだなと言われた』
随分と昔、ヒロに泣きながら辛いのに笑うなと怒鳴られた事を思い出したと苦笑する兄に弟も聞かされていた場面を思い出し、己が経験した先程の光景と重ねてしまう。
『彼は本当にお前のことが好きなんだな』
「・・・だから、困ってる・・・!」
『どうして困るんだ?』
「な、ぜって・・・」
リアムがお前を好きだと言っている、それがどうして困る事なんだと問われて絶句した慶一朗は、今まで付き合って来た男女の比率は男が多いし遊び友達も男が多いだろう、最近はいなかった特定のパートナーに彼を選ぶことに何の困難があるんだと冷静な声で問われて咄嗟に何も言えなかった慶一朗だったが、だって俺を好きになれば不幸になると、兄にだけ見せる素直な顔で小さく呟く。
『・・・ケイ』
「だって、そうだろう!?」
お前に何かあった時、俺は俺の身体を好きに出来なくなるんだからと、自分達兄弟を未だに縛り付ける言葉を、シーツを握りしめながら小さく呟いた慶一朗の耳に、遣る瀬無い溜息を総一朗が届けるが、それについてもリアムに話をしたと続け、慶一朗が顔を上げる。
『────俺は、万が一の事があってもお前の身体や臓器の移植など望まない』
この先の人生、万が一事故や病で臓器移植を受ける事があるかもしれない、その場合でもお前ではなくドナーから提供を受けるつもりだと、どうあっても覆ることのない決意を聞かされてただ驚きに目を丸くした慶一朗は、お前は俺の代替のボディパーツなどではないと彼にも伝えたし、納得してくれたと続けられて無意識に頭を何度も左右に振る。
『移植となれば確かに一卵性双生児同士、拒絶反応も起きにくいだろうな』
でも、もしもそうなった時、俺たちがあいつらから言われ続けて来たように、無条件などではなく、ちゃんとお前の意思とお前を大切に思ってくれる人と話し合った上で協力してくれると嬉しいと、ずっと胸に秘めていたであろう思いを伝えられ、慶一朗がそんな事分からないと子供のような顔で叫ぶ。
『勿論、お前がそうなった場合でもそうだ』
お前が病気になった場合、俺は全てを理解して受け入れてくれる一央と相談してお前を助けるつもりだからと笑う兄に弟は明確な言葉を返せなかったが、だからもうそれを彼と付き合えない理由にするなと優しく諭され、そんな事、今まで考えた事がなかったとシーツに顔を押し付けてくぐもった声で返すと、うんと、全てを理解している声が宥めてくれる。
「・・・ソウ、でも、・・・」
リアムと付き合う事で大きく何かが変わりそうで怖いと本音を零した慶一朗の耳に、ケネスとの事があったからかと流れ込み、それもあるが、どちらかと言えば大阪を離れることを決めた時みたいだと答え、シーツを握る。
大阪の山にある中高一貫校で将来の進路について二人相談していた時、大学までは何があっても二人の生活を守る、不自由はさせないとの約束をさせた父親に報告したのは、高校卒業と同時に慶一朗はオーストラリアへ留学し、医者の道へと進む事だった。
その時の不安と恐怖と少しの高揚感に似ていると続ければ、うんと頷かれて目を伏せる。
「・・・お前の傍を離れるなんて、考えもしなかったのにな」
『そうだな・・・でもお前は、自分で道を開いた』
いつまでも俺におんぶに抱っこじゃなく、自分の足で歩いて行く道を選択したんだと、あの当時の選択が間違っていない事を確信している顔で兄が頷いている姿を安易に想像し、慶一朗の口元に小さな笑みが浮かび上がる。
『────もう大丈夫だな、慶一朗?』
お前はお前の手で将来を掴み取っている、だから少しの変化を恐れてお前を好きだと真正面から告白してくれる人が伸ばした手を掴むことも出来ると、己を全面的に信頼している声で総一朗にそっと背中を押された慶一朗は、何度か深呼吸を繰り返した後、ああと短く返す。
「・・・・・・色々あるかも知れないし、ケネスの時みたいに痛い目に合うかも知れないけど・・・」
あいつと一緒にいればいつも笑っていられそうだと、脳裏に子供みたいな笑顔を浮かべる愛嬌のある顔を思い浮かべ、つられて笑ってしまう己に気付いた慶一朗は、兄の言葉にもう一度頷いて大丈夫と答え、もしも失恋したら慰めてくれと笑うと、スマホの向こうから同じ楽しそうな声が響いてくる。
『その時は何が欲しいんだ?』
「ダージリン鉄道の模型」
『・・・初めて聞いたな、それ』
「おもちゃみたいな蒸気機関車が走ってる」
部屋のジオラマをこの間また壊してしまったからこれから作るつもりなんだと笑う慶一朗の顔はさっきとは打って変わった何かを吹っ切ったような顔で、色素の薄い双眸に好奇心がキラリと浮かんでいて、伸ばした手の甲を見つめて目を瞬かせる。
そこに見えるのは、傷パッドを外した為に残っている微かな傷跡で、これがリアムへの好意を自覚させるきっかけになった事を思い出す。
『ケイ?』
「・・・少し前に、虐待された子供の手術をした」
『・・・ああ』
「その子は救えなかったけど・・・・・・」
リアムとの関係を進めてくれた、色々な意味であの子には頭が上がらないと呟き、右手を握りしめては開くを繰り返す慶一朗の耳の底に、お前は役立たずじゃないとの言葉も蘇る。
「なあ、総一朗」
『何だ?』
「俺は・・・・・・」
役立たずだろうか。
リアムに否定されてもどうしてもそう思えなかった事を、兄にそっと問いかけた弟だったが、間髪入れずにそんな事があるかと返されてそっと目を閉じる。
『もしも次に同じような子供が運ばれて来たら、必ず助ければいい』
それが、その子に対する供養にもなると優しく諭されて頷いた慶一朗は、変な時間に悪かったと苦笑し、気にするなと返されるが、リアムとのことはもう少しだけ考える事を伝えてお休みと小さく告げて通話を終える。
ついさっきまで脳味噌を占めていた、己は人を好きになってはいけないとの思い。
それはまだ心の中に存在していて、一朝一夕には消せないものではあったが、ほんの少し、彼ならば好きになっても良いのではないか、それで何か問題が発生しても、総一朗が言ったように二人で相談し乗り越えていけるのではないかとの思いが芽生え、それが慶一朗の顔から翳りを薄めさせていく。
ケネスとは恋人としての関係を終わらせた今でも友人としての付き合いがあり、一つの形が終わっても新たな形になれた事が少しだけ慶一朗の胸の中にいる恐怖を和らげていく。
誰かとの関係が始まれば、畢竟終わりはやってくる。
その時、今までの様に顔も見たくないといがみ合うのか、ケネスの様に友人としての道を選択するのか。
リアムとの付き合いがどの様になるのかなど全く想像も出来ない事だったが、己に対し際限なく甘やかす様な雰囲気のある年下の青年と一緒にいれば、きっと心から笑える事が増える。
そんな仄かな予感を抱きつつ欠伸をした慶一朗は、遠く離れた日本で驚いているだろう兄に内心詫びつつ不意にやって来た睡魔に負けた様に目を閉じるのだった。
マットレスだけを部屋の隅に置いてベッドがわりにしている部屋にベランダから戻った総一朗は、そのマットレスで頬づえをついた恋人が不貞腐れているような顔で見つめてくることに気付き、一つ肩を竦めてその横に寝転がる。
「・・・・・・どうしたん?」
ずっとベランダに出てるからまた急に観測でもしたくなったのかと思ったと、眠気混じりの大阪弁に苦笑しつつ柔らかな髪に手を差し入れると、諦めのような溜息が一つ落ち、横臥した恋人、一央が足を絡めてくる。
「ヒロ?」
「久しぶりに会えたのに、ほったらかしにしたバツや!」
両足で己の両足を挟み込む恋人のその仕草に自然と笑みを浮かべた総一朗は、事情を説明するから聞いてくれと先に告げ、どうぞと視線で促される。
「先の電話はリアムだ」
「へ? ケイさんちゃうかったん?」
こんな非常識な時間の電話にお前が出る相手なんてケイさん以外にいてると思わなかったと、素直に驚く一央の髪を撫で、二度目はケイだと苦笑を深めると、何があったと不安そうな顔で見つめてくる。
この大きな目を持つ恋人に、遠い昔さっきリアムに言われたのと同じ事を泣きながら言われた事があり、それを思い出すと目の前にいるのが奇跡のような事に思え、細い背中に腕を回すと突然抱きしめられて驚くものの、同じように背中に手を回してくれる。
その、背中に回った手の温もりが与えてくれる安心感とこれからも何があっても守って行こうという決意が生まれた時、リアムが慶一朗を守る、俺も守ってもらうと言った意味を理解する。
「・・・ヒロ」
「なんや?」
「リアムとケイが付き合うかも知れない」
「・・・・・・お前から聞くしかないから分からへんけど、リアム良い人そうやもんなぁ」
本当に付き合う事になったらきっと二人にとって良い事じゃないかと笑う一央の背中を撫で、いい男だからもし機会があれば会わせたいと笑うと、お前がそんな風に言う程の人なら会ってみたいと同じ笑い声が返ってきて、それが嬉しくて一央の背中を撫でていた手を腰に下ろすと朝早いからあかんとにべもない声に制止されてしまう。
「・・・・・・ヒロ」
「・・・あぁ、もぅ! その顔反則やゆーてるやろ!!」
そんな顔を間近で見せられたら断られへんやろうと顔を赤くして叫ぶ一央をシーツと己の身体で挟み込んだ総一朗は、真っ赤になりながらも片足をしっかり足に絡めてくる事に気付き、明日お前の仕事が終われば美味しいものを食べに行くぞと約束しながら白い首筋に顔を寄せる。
当然のように頭に回される手に内心笑みを浮かべ、白い肌にキスをしていくと、徐々に息が上がってくる。
それを楽しみながらリアムと慶一朗から受けた電話が表裏一体のものである事に今更ながらおかしさを感じるが、今は目の前で顔だけではなく体全体を仄かに赤くしている恋人を抱く事に意識を向けるのだった。