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いよいよイースターホリデーを週末に控えた月曜日の朝、前日の真夜中に感情のぶつけ合いを慶一朗と繰り広げたリアムだったが、仕事にまでその感情を持ち込むのは止めようと決めていた為、慶一朗がどのような態度を取ったとしても、こちらは普段と変わらない態度を心がけていた。
好きと告白したものの三度も断られた。それなのに、他の人へ意識を向けることなど何故か出来ない己に呆れそうになっていたリアムは、好きなのだから仕方がないが、彼との心身の距離感だけには気をつけようと自制の気持ちも持っていた。
彼も自分のことが好きなのではと、見せられる表情や態度から確信できていたのに言葉では拒絶され、その理由がわからず、唯一それを知っていそうな日本で暮らす彼の双子の兄に真夜中にメッセージを送り、電話をかけて来てくれた為に事情を話した結果、弟を頼むと託されたのだ。
それが恋人としてのものか友人としてのものかは分からないが、どちらにしても彼を未だに縛り付ける呪いから解き放つことが出来ればとしか考えられなかった。
少し聞き齧った彼の過去。
想像するだけで胃のあたりに不快感が芽生えるが、それを乗り越えて今この国で一人で生きているのだと思えば、母国ではない国で一人きりという孤独感が手に取るように理解できる。
それがあるからではないが、それも含めた上でただ屈託なく笑ってほしい、傍にいて欲しいとの思いが胸の中で急激に膨れ上がったのだ。
どうか、いつも笑顔でいてくれますように。
辛い時にまで笑わずにいられますように。
それが無理なら、せめてその心が負った傷が癒えますように。
彼の、世界中の全ての罪を背負ったような笑顔を見た時に感じた言葉に出来なかった思いを今のリアムは明確に意識できるようになっていて、滅多にないが神に祈る時と同じ強さで願ってしまう。
どうかそばにいて、いつも笑ってくれますように。
一緒にいて笑顔を浮かべてくれますように。
今まで付き合った彼女たちや生まれた時から付き合いがあり、途中悲しい事情で離れ離れになったものの、誤解が解けてまた仲良くなった幼馴染にも感じたことのない、心の奥底からの願いを胸の内で呟いたリアムは、ロッカールームに入って己のロッカーの前に向かう。
「モーニン、リアム」
「モーニン、ケイ。早いな」
「ああ。今日は何か分からないけど、お前より先に出勤したかったんだ」
いつかのように壁に背中を預けつつ伸びをする慶一朗の言葉にリアムの目が丸くなる。
それが楽しかったのか、端正な顔にニヤリと笑みが浮かび、勝ったと呟いて逆の手を突き上げて伸びをする。
「誰と勝負してるんだ?」
「ん? 俺」
自分と勝負をしていたと笑われて意味がわからないと肩を竦めたリアムは、イースターホリデーはどうするんだとロッカーを開けながら問いかけ、家でジオラマを作ってると返されてしまい、思わず勿体無いと言う言葉が口をつく。
「せっかくの連休なのにもったいないなぁ」
「お前はどうするんだ?」
「俺? 俺は、お前と一緒にデイキャンプに行くつもりにしていたんだけど?」
リアムの上目遣いのそれに慶一朗が何かを思いだした顔になるが、あれはあの時話の流れでそう言っただけじゃないのかと呟き、本気だったのかとリアムを見る。
「趣味のアウトドアに社交辞令で同僚やお隣さんを誘ったりしないなぁ」
だから、キャンプへのお誘いは全て本気だと心外そうに肩を竦めたリアムに慶一朗が申し訳なさそうに目を伏せる。
「なあ、ケイ」
「・・・何だ?」
「家のベランダでバーベキューをしただろう? 楽しかったか?」
遥か昔のことのように思えるが、少し前の出来事を思い出せと笑われても思い出した慶一朗は、その時感じていた気持ちも思い出し、じわりと胸の奥が暖かくなった事に気づく。
初めてバーベキューを経験したが、それはリアムに言われたように楽しかった。
あの時用意も殆ど出来ないと申し訳なさそうに笑いながら手早く火を起こして肉を焼き、それを好きな器に入れてどうぞと差し出してくれて二人で同じものを食べたのだが、今まで経験したことがないような美味しさを感じた気がし、それも嬉しくてただ楽しかったことを思い出す。
「ああ・・・楽しかった」
「そうか────連休のうち一日だけでもキャンプに行かないか?」
楽しかったのなら次は家の裏庭などではなく、大自然の中でキャンプをしてみないかと笑って誘われ、慶一朗が目を瞬かせる。
「・・・行ったこと・・・」
「ないだろ? だから行ってみないか?」
何事も初めては当然ある、その初めてがもしも楽しいものだとすれば、きっとこの先お前の中でキャンプやアウトドアは楽しいものとして刻まれると笑い、どうだと尚も誘う愛嬌のある顔をじっと見つめた慶一朗は、もしかしてデートに誘ってるのかと口の端を持ち上げて問いかけ、一瞬驚いたように丸くなるヘイゼルの双眸につられるように目を丸くするが、次いで浮かんだ表情に限界まで目を見開いてしまう。
「バレたか」
実はそうなんだ、お前をデートに誘っているんだと、まったく後ろ暗い事など何もないと言いたげな顔に満面の笑みを浮かべ、朗らかという言葉が相応しい笑顔でリアムが頷く。
「ホリデーの一日、デートしませんか?」
断り切れない笑顔と口調で誘われて素直に頷きたくなる気持ちと制止をかける気持ちがせめぎ合うが、昨日の真夜中、堪え切れずに兄に電話を掛けたときのことを思い出し、無意識に拳を握ってしまう。
あの時は大丈夫だと思ったが、やはり心の中には恐怖が存在していて、今はまだそれを克服できる自信がなかった。
だから真っ向からぶつけられる好意を素直に受け止められず、視線を下げてしまう。
「・・・考えておこうかな?」
「本当に?」
また断られたらどうしようかと思っていた、考えてくれるだけでも嬉しいと素直さを前面に押し出したリアムの言葉に慶一朗が一瞬辛そうな顔になるが、ロッカールームのドアを開けながら話をする声が聞こえてきて、その表情をマスクと称した笑顔で覆い隠す。
「・・・今日のランチはどうする?」
人の声で話題を切り替えたらしい慶一朗の問いにリアムがロッカーを閉めつつ、カフェで食べるつもりだから時間が合えば一緒に食うかとさっきと何も変わらない笑顔で逆に問いかけてくる。
「それもいいな」
一緒に食べると本当に食べ物がおいしくなるんだと笑う慶一朗に今度はリアムが言葉を失くした顔になるが、柔らかな笑みへと表情を切り替え、今週はどこの国の料理を食べさせてくれるんだろうなぁと暢気に呟く。
「どこだろうな」
どこでもいいが美味しいものを食べたいと笑いながら肩を並べてロッカールームを出た二人は、自らの職場である建物へと向かう為に手を挙げて一時の別れをするのだった。
「────ソウ、やっぱり無理だ!」
夏がそろそろ終わりそうだと教えてくれている夕暮れの雲をフロントガラスの向こうに見上げながら悲鳴じみた声を慶一朗が発したのは、病院内の駐車場の愛車の中だった。
『・・・まだ悩んでるのか?』
この間腹を括ったんじゃないのかと、呆れ半分諦め半分の声がスピーカーから流れだしてくる。
「括った・・・つもり、だった」
『だったら大丈夫だ、ドンとぶつかってこい、ケイ』
相手はお前が全力でぶつかっても倒れることのない強靭な肉体と同じく健全な精神を持っている男だ、お前ひとりぐらい余裕で支えられるはずだと、その外見だけではなく心のありようもしっかりと見抜いているような声で総一朗が笑い、その後ろから懐かしい声がどうしたんとこれもまた懐かしい大阪の言葉で問いかけてくる。
『ケイさん、リアムと付き合うかどうかで悩んでるん?』
「カズ? ・・・悩んでる、いや、俺なんかと付き合っても・・・」
『あー! まーたそんな言い方してる! 俺、ケイさん好きやけど俺なんかって言うの、大嫌いやねん』
俺の大好きなケイさんでもそれだけは嫌やからやめてと、頬を膨らませている顔が簡単に想像できる声が総一朗の声の向こうから聞こえてきて、咄嗟に何も言えずにいると総一朗が苦笑交じりに忠告してくれる。
『ヒロに嫌われると怖いぞ』
「分かってるよ、それぐらい」
お前の永遠の恋人、一央の恐ろしさはお前と同じぐらい理解していると素直に返した慶一朗だったが、自分の事を必要以上に卑下するなと怒鳴られたことを思い出し、彼も今電話の向こうで顔を赤くして怒っている彼と同じように感じたのだろうと気付き、ここまで怒ってくれる人は本当に大切にしないといけないと、いつか兄とその恋人について話をしたことも思い出す。
「リアムにも必要以上に卑下するなって言われた」
『・・・うん、ソーイチローから聞いたリアムやったら多分言うやろうなぁ』
笑うなとも言ったと聞いた、それを言ってくれるような人なのだ、付き合うことに何の抵抗があるんだと打って変わった穏やかな声で諭すように問われて何もないけれど怖いと素直に答えると、うんと頷いてくれる。
『初めてやもんなぁ。そりゃあ怖いわ。でもさ、リアムも初めてなんやろ?』
彼は今まで女性としか付き合ってこなかったと聞いたが、男女どちらともそれなりに付き合いのあったケイさんに比べれば、きっと彼のほうが怖いだろうし不安なんじゃないのかと呟かれ、何を偉そうに言ってるんやろ、ごめんケイさんと慌てた様な謝罪が続けられる。
「いや・・・そうだな、あいつのほうが不安だろうし怖いよな」
でも、その不安も恐怖もおくびにも出さず、ただ自分と一緒にいられるのが嬉しいと笑顔でいられる、デートをしようと誘ってくるその素直さ、真っ直ぐさに今更ながらに気付いた慶一朗は、深呼吸をした後、イースターホリデーでデイキャンプに行かないかと誘われた事を伝えると、楽しんで来いと総一朗の声に嬉しさが滲み、その後ろで一央がキャンプに行って望遠鏡で星を見たい、ソーイチロー星を教えてくれと、近いうちの休日に自分たちもキャンプに行くことを決めたように声を上げ、総一朗が言葉数少なにそれに同意をする。
「・・・カズ、ダンケ」
『え? ええよ、これぐらい』
ケイさんが楽しくなったんやったらそれでいいと笑ってくれる兄の恋人に見えないのに頷いた慶一朗は、後で彼に電話をして話をすると緊張を覚えつつ伝えると、電話の向こうがぴたりと静まり、どうしたと声を潜める。
『ケイさん、自分を信じてな?』
「・・・この世で一番信じられないのが俺だ」
一央の応援の言葉に皮肉を返してしまう己など好きになれなかったし信じられないがと微苦笑した時、なら俺が信じているお前を信じろと、総一朗が疑うことを許さない強い声で慶一朗の背中を押す。
『この世で一番お前を信じている俺を信じろ』
その言葉にはさすがに皮肉も否定も返せずにただ無言で頷いた慶一朗は、通話を終える前にうん、やってみると小さく呟き、二人から同時に頑張れと背中を押す声援をもらう。
己を信じるなど理解できない事だったが、自分を信じてくれる兄を信じることは出来そうだった。
この世で大切な一握りの人たち。その中でも最も大切にしている人達が背中を押してくれたのだから、どんな結果になろうとそれを信じていくまでだ。
通話を終えた慶一朗が満足の溜息を吐いてフロントガラス越しに夕暮れの空を見上げると、赤く染まり始めた西の空へと流れる雲が目に入り、もう一度溜息を吐いて軽く頬を叩いて気分を上げるためにハードロックの曲を流し始めるのだった。
「────乾杯」
連休前の市内の夜は独特の雰囲気が溢れていて、イースターにちなんだ飾りが通りの店のウィンドウに飾られ、宗教的に関係のない人も行事を気にしない人でも、明日からイースター休暇が始まることを実感していた。
そんな、市内の一角にあるこじんまりとしたパブで、仕事を終えたリアムと慶一朗がビールジョッキとグラスを軽く触れ合わせて乾杯と笑みを浮かべあう。
仕事が終われば飲みに行かないかと慶一朗からのメッセージがリアムのスマホに届いたのは今朝だった。
今日は慶一朗が執刀する手術がいくつか予定されていて、その後カンファレンスがある為にランチを一緒に食べられないほど忙しかったのだが、仕事が終わり、飲みに行くことは決めていたが店はどこだと慶一朗にメッセージを送り返したリアムに届けられたのは、仕事が終われば家に迎えに行く、自宅で待っていてくれとの言葉だけで、迎えに行くも何も隣のフラットに住んでいるんだからと笑いつつ了解と返事をしたのだ。
そして、言葉通り迎えに来た慶一朗の愛車に初めて乗り、やってきたのがシドニー市内のこのパブだった。
ここは慶一朗の行きつけの店のようで、店の前のパーキングに車を止めた途端、ドアが開いてウエイターが出迎えてくれたのだ。
こんな店に来たことがないと感心していたリアムは、通されたテーブルが外から余り見えない店の奥まった場所であること、壁のテレビの声も他の客の声も気にならない場所だと気付き、一人で飲みたいときはここに来ると教えられる。
「そうなのか?」
「ああ。ここだと静かに飲めるからな」
誰も邪魔をしてこない、そんな店をいくつか持っていると気持ちが楽になると笑ってグラスビールを飲む慶一朗にリアムが自分がキャンプに行くようなものかと返し、そうかもしれないなぁと微笑ましそうに笑われる。
「お前もキャンプでリフレッシュをしてるんだ?」
「そうだなぁ・・・意識したことは無かったけど、そうかもしれないな」
働いていると人間関係や色々なことで疲労がたまる、休日には何も考えずにすむ事をしていたいと笑うリアムに同感だと頷いた慶一朗は、ここはシーフード料理が上手いからおススメだと告げると、今食べたいものは何だと問われて目を丸くする。
「俺?」
「そう」
「そう、だな・・・軽いものがいい」
疲れているからかあまり食欲がないと肩を竦める顔は嘘ではなさそうで、ちらりと右手へと視線を向けると、それに気づいた慶一朗が自慢気に手の甲を向ける。
「誰かさんが手当てをしてくれたからきれいに治った」
ダンケ、心優しい誰かさんとにやりと笑った慶一朗に肩を竦めるが、きれいに治って良かったと笑うと、慶一朗の目が少し伏せられる。
「あの子は助けられなかったけど・・・」
次の子供は絶対に同じようなことにはしない、必ず助けると小さな決意を口に出し、ビールグラスを目の高さに掲げる。
「・・・君を救えなかった事を許してくれ、オリヴァー。でも、君の命は無駄にしない」
君が教えてくれた事は絶対に忘れないからと、両親の虐待を受けて十年という短い生を終えてしまった少年、オリヴァーに小さく誓いを立てた慶一朗は、ビールを一気に飲み干すと、少しだけ照れたような顔でリアムを見、君に教わったことは忘れないと繰り返す。
「ケイ?」
「・・・リアム、帰りにハーバーブリッジに寄っても良いか?」
まだ食事をしている最中だが、帰りにポート・ジャクソン湾に架かる橋の袂に行きたいと、緊張している顔で問われて目を丸くしたリアムだったが、お前が寄りたいのならと頷き、運転手はお前だからと片眼を閉じる。
「それもそうだ」
リアムの言葉に嬉しそうに笑った慶一朗は、会話の邪魔をしないように気遣ってくれるスタッフを手招きし、グラスビールをもう一杯と、リアムのために今日のおすすめ料理を作ってくれと注文し、己の分としてエビとアボカドのサラダを頼むのだった。
対岸に見える遊園地のシンボルマークをぼんやりと車内から見ていたリアムは、慶一朗がフロントガラスをノックし、外に出て来いと頭を振ったことに気づいて車から降り立ち、彼の横に並んでボンネットに軽く腰を下ろす。
二人がいるのはハーバーブリッジを支えている石造りのパイロンの傍で、連休前夜を楽しもうと老若男女問、人種を問わず様々な人たちがポート・ジャクソン湾の夜景を楽しんでいたり、指さしては思い出話に花を咲かせているようだった。
そんな人たちから少しだけ離れた市中のすぐそばに車を停めた慶一朗は、ボンネットに寄りかかりながら目の前の穏やかな湾を時折通る船に目を細め、ここで船を見ているとそのまま日本に帰れそうな気がしてくる、総一朗の元に戻れる気がすると、今まで見せたどの笑顔とも違う顔で苦笑し、外洋を行く船がこんな小さなはずはないのになと己の思考を笑うように肩を揺らすが、その気持ちが何となく理解できたリアムがそうだなと頷くと、驚いたような顔で見つめられる。
「俺は飛行機を見ると思うな」
「ああ、そうか・・・ドイツは日本より遠いな」
「そうだなぁ」
ヨーロッパは遠いが、この物理的な距離が自分と幼馴染の間には必要なものだったと思うと少し感慨深げに呟くと、慶一朗が幼馴染と口の中で呟く。
「・・・小さな頃、幼馴染と一緒にちょっとした事故に遭った。その時、あいつが意識不明になっておじさんおばさんと両親がもめた」
それを見たくなくて、親戚が暮らしていたシドニーに逃げるようにやってきたと、己が母国を離れた理由を今まで話をした誰よりも素直に慶一朗に聞かせたリアムは、エリーという人かと問われて盛大に驚いてしまう。
「どうしてわかったんだ!?」
「・・・寝言でその名前を呼んでいたぞ」
幼馴染というのは想像していなかったが、俺なんかと付き合うのはその彼女に悪いだろうと、どうしても出てしまう自嘲癖を止められずに口にすると、言葉が通じていない相手を目の前にしているような顔でリアムが驚き沈黙してしまう。
「そうだろう・・・?」
「いや、ちょっと待て、ケイ。誤解だ」
ボンネットに寄りかかりながら顔を向けあい、誤解だ何が誤解なんだと言い合う二人の少し後ろを声を潜めた人たちが通り過ぎていくが、痴話げんかかと笑われた気がし、慶一朗が顔を伏せる。
「・・・寝言ってこの間のか?」
「ああ」
「・・・説明するから聞いてくれ」
「何だ」
「エリーは・・・男だ」
咳ばらいをして今世紀最大の告白と言いたげな様子のリアムに慶一朗が胡乱な目を向け、もっとうまいウソはないのかと皮肉を返してしまう。
「嘘じゃない。小さな頃からずっとそう呼んでいるけど、あいつの名前はエリアスだ」
「・・・は?」
「エリアス。生まれたころからの付き合いだからずっとエリーと呼んでるけど、あいつは男で彼女がいる」
今はドイツ南部の大都市で両親が経営している薬局を継いでいると、これで誤解が解けたかと呟きつつも自信がなかったため、スマホを取り出して去年のクリスマス休暇に幼馴染と両親と一緒に記念撮影をした写真を見せ、その中に同年代の女性の姿がないことを慶一朗が確認すると、夜目にもはっきり分かるほど顔が赤く染まっていく。
「・・・気にしてくれてたのか?」
「う、るさい・・・っ!」
「・・・ケイ」
真っ赤な顔を背けてうるさいと言い募る慶一朗の肩に大きな手をリアムが載せると、居心地が悪そうに一度だけ身を捩った後、ほんの少しリアムの方へと体が傾ぐ。
「付き合っている彼女はいない」
今好きなのはお前だけだと、何度も断られているのにそれでもやはり好きな気持ちを抑えられない、一緒にいられるだけで嬉しいと笑い、慶一朗の肩から手を下ろしたリアムは、二人の間で行き場をなくしたようにボンネットについていた、傷の癒えた手に手を重ねると、今度は躊躇いも何もなく受け止められる。
それが嬉しくて。
「やっぱり、まだ付き合ってくれないか?」
これで無理なら最悪友人としてでいい、傍にいさせてくれと懇願するような声でつい慶一朗に告白したリアムは、己の手の下で手が動いたかと思うと、少しだけ体温が低い掌が己の掌を受け止めるようにくるりと引っ繰り返り、初めて見たときにきれいだと思った指が緩く折り曲げられる。
「・・・オリヴァーを救いたかったのは・・・彼のためだけじゃない」
隣で驚くリアムを見ずに暗い水面に反射する建物の照明やハーバーブリッジの明かりを見つめながら慶一朗が呟いたのは、パブでも名前を挙げた少年のことだった。
「虐待を受けた子供を救えば・・・俺も救われるような気がした」
種類や方法は違えども、本来ならば無条件で与えられるはずの両親からの愛情を受けられずに育った彼と己だったが、同じような境遇の子供を救うことで己も救われたような気持になれた、だから救えなかったことはいつも以上に辛かったと告白し、ちらりとリアムへと目を向ける。
「お前のように純粋にあの子を助けたかった訳じゃない」
初めて病院で会ったとき、幼い少女が抱えている手術への恐怖や痛みへの苦痛を和らげる笑顔を浮かべていたが、俺はお前のように患者のことだけを思えなかった。
本心は自分を救いたい気持ちがあったと、罪悪感の滲んだ笑みを浮かべる慶一朗にリアムが一度口を開閉させ、特に何も言わずに慶一朗が見ている世界と同じものを見ようと顔を向けるが、重ねられた手が離れようとした事に気付いてそれを引き留める為に手を握り締める。
「────俺は、自分勝手な男だ」
好きだと言ってくれるお前の好意に甘えて料理をごちそうになったり眠り込んだりしてしまい、自分のことしか考えていないと自嘲する慶一朗の言葉に一つずつ頷いて返事をしたリアムだったが、俺以外の人と付き合えと言っておきながら、その場面を想像しただけで胸が苦しくなったと教えられて左手だけで握っていた白い手を足の上に引き寄せて両手で包み込む。
「・・・こんな風に優しくしてもらう資格なんてない」
「俺がやりたいからやっている。資格なんて誰にももらう必要はない」
たとえそれを出すのがお前であってもそんな資格は不要だと言い放ち、夜風に軽く目を細めたリアムは、自分を救いたかったのだろうがその中にオリヴァーへの思いもあったのだろう、だったらすべてが自己中心という訳じゃないと、両手で包んでいる手に伝われと願いつつ言葉を夜風に乗せると、少し傾いでいた身体を支えられないと言いたげに慶一朗が肩を軽くぶつけてくる。
「昔、ここから日本に帰りたいと言ったら随分と酷い目に遭わされた事がある」
「・・・随分と心の狭い人だな」
お前が帰りたいと言うのなら一緒に行けばいいだけなのにと、明日の買い物に一緒に行くと告げるよりも軽い口調で言われて驚いた慶一朗は、今までのキャリアはどうするんだと問いかけて驚いたように見つめられてしまう。
「お前と一緒にいるのにキャリアが不要なら捨てるだけだけど?」
そんなに難しいことかと、自分にとって想像できなかった事をあっさりと返されて呆然と目を見張った慶一朗は、医者にこだわらなければなんでもできるだろうと笑う愛嬌のある横顔に目を瞬かせ、自然とその肩に甘えるように頭を押し付ける。
「・・・こんな、俺で、良いのか・・・?」
「違うな、ケイ。────そんなお前が良いんだ」
自分から他の人と付き合えと言っておきながら嫉妬したり、付き合えないとわかっている相手の部屋で隙を見せるように眠り込んだり、確かに自己中心的な言動をしているお前だけど、それが今のように甘えている証なのだから気にならないと、この時ようやく慶一朗の顔を正面から見つめたリアムは、目尻を赤く染める端正な顔に軽く驚き、ああ、キスしたいと本音を小さく零してしまう。
きっと殆ど誰も見たことがないだろう、甘えてくる表情がただ愛おしくて、先日日本にいる総一朗に問われた、愛しているのかの意味を唐突に理解してしまう。
さっき告げたように、どれほど自己中心的で己を振り回すような言動をとったとしても、甘えている証なのだからと許してしまえる、そんな思いになるなんて想像もできなかったが、隣で笑ってくれたり時々今のような顔を見せてくれるのなら、そんな言動など苦にもならないだろう。
屈託なく笑ってくれ、一緒に食事をし、美味しいと笑顔になってくれ、そして、一日の終わりを迎える時には互いにお休みと言って抱き合って眠りたい。
その、取り繕うこともない素直な思い全てを内包した笑みで慶一朗を見つめれば、色素の薄い双眸が左右に揺れた後、瞼の下に姿を隠す。
先を許されたと気付いたリアムがそっと触れるだけのキスをし、頬を指の背で撫でると、その手を掴まれて武骨な手に口付けされる。
「・・・リアム、好き、だ・・・」
だから他の誰とも付き合うな。
ぼそぼそと聞き取りにくいものではあったが、しっかりとそれを受け取ったリアムは、ここが夜でも人目がある観光地であることを思い出し、車に入ろうと慶一朗の手を撫でる。
「・・・手を離したくないなんて、初めて思った」
お前の手は大きくて暖かくて好きだと、ボンネットから離れて伸びをしながら笑う慶一朗の痩躯を我慢できずに抱きしめたリアムだったが、すぐにその手を離して助手席のドアを開けて慶一朗を座らせると、運転席に乗り込んで驚く慶一朗に有無を言わせずに車のエンジンを掛けて帰路に就くのだった。
急発進気味に立ち去る車を、ハーバーブリッジがただ静かに見守っているのだった。