テラーノベル
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家の中から見える景色がどんどんぼやけていく。
まぶたが重くて閉じようとしているのに、心だけがどこかで目を開けていた。
時計の針の音が遠ざかる。足音も声も届かない。
微かな呼吸の音だけが、自分がまだここにいると教えてくれていた。
暗闇の中にふっと光が滲む。
霞んだ光がだんだん形になって 、気づけば懐かしい匂いがした。
木の机
紙の擦れる音
静かな空気
雨が窓にぶつかる音
それは、あの日の図書館だった。
「その本好きなんだ?」
本棚の影から現れる彼はにこっと微笑む。
俺達が出会って間もない頃の記憶だ。
「ふふ、ぺいんとは面白いね 笑ヾ」
彼の笑みを見た瞬間、胸の奥がじんと熱くなる。
照れ隠しに目をそらして手にしていた本をぎゅっと抱えた。紙の匂いがやけに強く残る。
あの日の自分は、どう答えたのだろう。曖昧な声で、ただ「うん」と頷いたような気もする。
それだけで彼は満足そうに、となりに腰を下ろした。肩と肩のあいだには小さな空間があったけれど、心はもっと近くにいた。
ページをめくる音が、静かな雨音に重なる。
外の世界はしとしと濡れているのに、ここだけは時間が止まったみたいに暖かかった。
彼が息をひそめて文字を追う横顔を、横目で見ていた。言葉よりもずっと雄弁に、心を奪う景色だった。
場面はふっと揺らぐ。机の木目がにじんで、気づけば暗い夜道を歩いている。
傘を片手に、もう片方の肩に雨粒が落ちていた。小さなビニール傘を二人で分け合うのは無理があった。
彼の肩に寄り添うたびに、かすかに濡れた服の匂いと、体温のぬくもりが混ざり合った。
「寒〜〜….」
「じゃあもうちょっと俺の方寄りなよ」
なんて照れ笑いで言った言葉が、胸の奥にずっと残っている。
雨は冷たいのに、頬だけが赤くて熱かった。
雨の音が遠ざかると、今度は夏の匂いがした。
ざわめく蝉の声、陽に焼けたアスファルトの熱気。
視界に広がったのは、夏の午後だった。
汗ばむTシャツの袖を捲り上げ、彼は笑いながらアイスを口に放り込んだ。
真剣な顔で勉強する姿も、わざとふざけて落書きする姿も、どこか不器用で愛しかった。
その笑い声を聞くだけで、心臓が跳ねて、喉がからからになった。
同じような絵を描いて、「下手だな」って言われても、悔しさより名前を呼ばれる嬉しさの方が強かった。
次の瞬間、風景はまた滲む。
夏の青から秋の橙へ。
木々が赤や黄色に染まり、枯れ葉が足元に積もる。
二人で歩いた帰り道。彼は何度も立ち止まって、落ち葉を手に取り、光に透かして見ていた。
「これ、押し花みたいに残したらきれいだよね」
「うん 笑ヾ」
そんな何気ない言葉に、どう返せばよかったのか。
ただ笑って頷くだけしかできなかった自分を、今になって悔やむ。
もっと言葉を交わせばよかった。
もっと、素直になればよかった。
空気がふっと冷たくなる。
気づけば冬の気配。吐く息が白くて、指先がかじかんでいた。
彼は手袋を片方だけ外して、俺の手を包んでくれた。
「手つめた」
驚いて顔を上げたら、いつもの笑顔じゃなくて、少し真剣な目だった。
その一瞬が、やけに鮮やかに蘇る。
温もりはすぐに消えたはずなのに、今も指先に残っているようで。
けれど景色はそこから先を見せてはくれない。
春へも、次の時間へも移ろうとしない。
ただ、繰り返すように同じ瞬間ばかりが浮かんでは消えていく。
本の匂い 雨の音 落ち葉の色 手の温かさ
その断片が混ざり合って、やがて一つの光に溶けていく。
「ぺいんと」
反対方向にある暗闇からは俺の名前を呼ぶ彼の声がした。
でも今目に見える光が眩しかった。温かかった。心地よかった。
俺はその光に手を伸ばす。
けれど指先は虚空をすり抜け、何も掴めない。
胸の奥で、かすかな不安が芽を広げる。
まるで自分が透明になっていくみたいだ。
呼吸の音が遠くなる。心臓の鼓動も弱まっていく。
残されたのは、彼の笑顔だけ。
けれど、あの冬の日の朝の記憶が、ふいに差し込む。
窓の外で雪が舞っていた。
俺はもう、立ち上がることもままならなくて、ただ布団の中で視線をさまよわせていた。
彼は笑っていた。
「大丈夫?俺がそばにいるから」
そんな言葉を、何でもないようにかけてくれた。
けれど俺は知っていた。
その声の奥に、わずかな震えがあったこと。
掴んでいた俺の手を、ほんの一瞬だけ強く握ったこと。
気づかないふりをしていたけれど、彼はもう悟っていたのだろう。
今日がどんな日になるのかを。
それを隠そうとして、いつも通りを装う彼の笑顔が、痛いほど優しかった。
その優しさすらも、胸を締めつけた。
光と闇の境目で、俺はぼんやりと思う。
あぁ、俺たちはずっと言葉を選び合って生きてきたんだ。
言えなかったこと、飲み込んだこと。
でも、それでも確かに伝わっていた。
たとえ声に出せなくても。
たとえ明日がもうなくても。
彼は気づいていた。
そして、俺も気づいていた。
光は揺れて、少しずつ滲んでいく。
手を伸ばしてももう届かない。
けれど最後に浮かんだのは、彼の笑顔だった。
それだけでもう十分だと思えた。
コメント
2件
もうこの瞬間ですら泣ける。続き楽しみにしてます!!!
最終話近づいできてるってことですよねもう泣けます