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陽の光が差し込む喫茶 桜は
落ち着いた珈琲の香りに満たされていた。
時也は、藍の着物にきちんと襷を掛けたまま
アリアのためにコーヒーのおかわりを淹れに
厨房から戻ってきたところだった。
両手には陶器のカップとポット
何気ない日常の延長──
そのはずだった。
しかし。
リビングへの扉を開けた瞬間
時也の足が止まる。
その視線の先。
アリアの胸に
彼が──
泣きじゃくりながらしがみついていた。
まるで
愛しい者に再び巡り会えたかのような
救われた子供のような表情で。
アリアはその背を優しく抱き
何も言わず
ただ包み込むように静かに彼を抱いていた。
「⋯⋯⋯⋯⋯⋯」
時也の瞳から、すっと光が消えた。
彼はわかっている。
彼女が魔女狩りの中で失った者たちと
今また巡り会っていることも。
記憶を交わした想いがあり
再会の涙があることも。
理解している。
理解しているはずなのに──
胸の奥に
凍てつくような感情がじわりと滲み始めた。
(⋯⋯誰であろうと、アリアさんに⋯⋯
ああして触れていい道理は、ありません)
着物の裾が擦れる音が、小さく響く。
そして
低く抑えた声が、彼の喉から搾り出される。
「⋯⋯⋯⋯〝俺〟の妻に⋯⋯
何を、しているんです?」
冷たい声だった。
それは、喫茶桜の店長の顔ではない。
料理人でも、穏やかな笑顔でもない──
ただ、アリアの夫であるという
揺るぎない執着と所有の声。
しがみついていた彼が、ぴくりと反応する。
泣き腫らした瞳が
ぽかんとこちらを見返し──
だが
次第にその唇の端がゆっくりと
ぐにゃりと吊り上がる。
「ふふ⋯⋯出たねぇ、時也の〝激重感情〟」
その顔に浮かぶのは
明らかに〝ライエル〟ではない。
口角の角度、瞳の陰り──
それだけで、時也は理解した。
(⋯⋯アラインさん、ですね)
襷を解くと
彼は手早くそれを両手に持ち直し
ぴんと張った。
「⋯⋯アラインさん、どうかお覚悟を」
姿勢を崩すことなく
ただ静かに近付いていく。
だがその足取りは
確実に〝首を絞め落とす〟間合いへと
向けられていた。
アラインは
肩を震わせるほど笑いを噛み殺しながらも
真正面からその嫉妬に燃える男の眼差しを
見返していた。
(⋯⋯うん、やっぱりいいね。
時也はこうでなくちゃ)
その狂信的な感情。
理性の皮を被った激しすぎる愛情。
誰よりも強く、誰よりも深く
アリアに執着しているのは──
この男なのだ。
まさに
狂おしいほどの愛を胸に抱いた
アリアという神の忠実な信徒。
その姿を見て
アラインは心の中でぞくりと陶酔に震えた。
だが──
「⋯⋯時也」
短く、鋭く。
アリアの一言が、空気を切り裂いた。
それだけで、時也の足が止まる。
手に持った襷は
瞬間に緩められ、袂にしまわれる。
「⋯⋯⋯⋯⋯かしこまりました」
言葉には従う。
だが、腑に落ちたわけではなかった。
微笑は崩さぬまま
彼の紅に染まりかけていた瞳は
なおもアラインを見据えていた。
じっと、確かに
〝二度と触れるな〟と言いたげに。
「⋯⋯コーヒーを、お淹れいたします」
そう言って差し出したカップを
アリアは無言で受け取った。
湯気の立つその香りには
確かに彼女のために淹れた
時間と想いが宿っている。
だが、その手の甲には──
まだアラインの涙の温もりが残っていた。
それに気付いた時也の眼差しが
ふと僅かに揺らいだ。
(⋯⋯あの男の泣き顔が
そんなに、印象深かったのでしょうか)
思わず視線が、再びアラインへと流れる。
ソファの端に腰掛けた彼は
タオルで顔を拭きながら
まるで何事もなかったような顔をしていた。
「いやぁ、まさか⋯⋯
このボクが泣くなんてねぇ。
アリアの胸を借りて、ごめんね?」
アラインは軽口を叩きながら
気取った仕草でコーヒーを口に含む。
ほんの少し
カップの中身を確かめるように
口をすぼめて──
どこか、時也を〝試す〟ような視線を
チラとこちらへ投げた。
「味は⋯⋯うん。
やっぱり、時也が淹れるのは格別だね」
「ご丁寧にどうも。
ご賞味いただけて、光栄です」
時也は微笑を崩さずに答えたが
口元の笑みに温もりはなかった。
「さて⋯⋯
お二人のお話も、まだ尽きぬようですし
僕は席を外します」
そう言いながら、彼は襷を掛け直し
帯に差していた手拭いを整える。
その仕草は一つひとつが丁寧で
日々の店仕事の一環にすぎぬように見える。
「裏庭の桜の様子を
少し見てこようと思います。
最近は、少し手入れが疎かでしたからね」
口調はあくまで穏やかだった。
けれど、その背に漂う空気には
どこか濁りがあった。
誰が見ても、ただの散歩ではない。
冷静を装いながらも
ほんの少し空気を抜くように
その場を離れたがっているような──
むしろ〝逃げ出す〟ような歩幅。
「ごゆっくり、どうぞ」
そう言い残して、時也は背を向けた。
アラインは唇を噛むように
ニヤリと笑いを噛み殺しながら
アリアの隣でカップを指先で回していた。
「⋯⋯⋯可愛い人だね、ほんと」
アリアは答えなかった。
ただ
時也の背中が扉の向こうに消えていくのを
最後まで見送っていた。