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喫茶桜の店内には
朝の光と共に賑やかな笑い声と
食器の触れ合う音が心地よく広がっていた。
しかしその喧騒から一歩隔たった裏庭は
まるで異なる世界のようだった。
仄かな紫煙と、沈黙の気配。
風に揺れる木々の影が
地面に柔らかな揺らぎを落とし
それを背に、ひとりの男が佇んでいた。
時也は、着物の胸元を少し開け
襷を外した袖口を整えながら
一本の煙草に静かに火を点ける。
火の先が紅を灯し、細く煙が立ち上る。
だが
その所作にはいつものような
柔らかい微笑は無く
瞳にはまだ
うっすらと怒りの名残が滲んでいた。
一口、深く吸い込み、肺に熱を落とす。
吐き出す息と共に
感情のさざ波が静かに整っていく──
はずだった。
しかし、胸の奥で燻るそれは
紫煙のように簡単に
昇華してくれはしなかった。
「⋯⋯やっぱ、吸いに来てたかよ」
いつの間にか背後から届いた低い声に
時也は振り返らず
目を細めたまま微かに笑った。
「⋯⋯ソーレンさん」
隣に立った男は、煙草を一本取り出し
自らも火を点ける。
咥えた煙草から一度深く吸い
顔を顰めながら煙を吐き出すと
ちらりと横目で時也を見やった。
「⋯⋯で、殺り損なったわけか」
「⋯⋯はて、なんのことでしょう」
丁寧に返すその声音に
ソーレンは小さく鼻を鳴らす。
「さっきの声、厨房まで丸聞こえだったぞ。
〝お覚悟を〟なんて、お前の口から出たら
そりゃもう⋯⋯死の宣告だ」
「⋯⋯迂闊でした」
小さく呟き
煙草を咥えたまま、視線を落とす。
ゆっくりと煙を吐き出す彼の視線の先には──
今なお
アリアの胸元にしがみついていた男の姿が
脳裏に焼き付いたまま残っていた。
「⋯⋯あの姿を見て、平静でいられるほど
僕は出来た人間ではないようです」
その言葉は
淡く柔らかい調子で紡がれていた。
だが
そこに滲んでいたのは、紛れもなく──
狂気にも似た愛情だった。
ソーレンは
何も言わず煙草を見つめたまま
静かに煙を吐く。
だが、理解していた。
この男──櫻塚時也という存在の、本質を。
彼は〝狂信者〟である。
言葉遣いも所作も、徹底して穏やかで上品。
誰に対しても礼を忘れず
喫茶の店主として
父のような穏やかさを湛えて接する。
だが──
アリアに関わる何かが、その心に触れた瞬間
その仮面は音もなく剥がれ落ちる。
現れるのは、徹底した愛と忠誠。
ただ純粋に、ただ深く、ただ一人を想い続け
その想いを奪われると感じた時──
この男は迷いも躊躇もなく牙を剥く。
そこにあるのは、憎しみではない。
報復でもない。
ただ、自らの愛に対する絶対の忠誠──
そして、その愛に触れた他者への静かな
だが決定的な否定。
その内に潜む〝純粋さ〟こそが
この男を最も恐ろしくしている。
「⋯⋯ま、殺す前に
アリアに止められてよかったな?」
そう言ってソーレンは煙草をもう一度吸い
吐き出す煙越しに、時也の横顔を見やった。
「⋯⋯本当に、ええ」
時也は笑った。
だがその笑みは
心からのものではなかった。
遠く、小鳥の囀りが木々を渡っていく。
朝の風が裏庭を撫で
桜の葉をさらりと揺らす。
その静けさの中で
ソーレンはふと煙草の火を見つめながら
呟いた。
「お前みたいな奴がキレた時が
一番おっかねぇんだよ。
⋯⋯今日みたいに普段からもう少し怒れよ」
時也は、何も言わなかった。
ただ、淡く笑い
もう一度紫煙を宙へと吐き出した。
けれどその瞳の奥──
穏やかな表情の裏には
まだ確かに燃え続けているものがあった。
それは、愛という名の炎。
煙草の火など比べものにならないほどに
熱く、強く、そして──
消えようのないものだった。
時也はただ
その火の点いた先端をじっと見つめていた。
小さな炎の芯が、肺へと紫煙を送り続ける。
けれどその煙では
どうにも払いきれぬ澱が胸の奥に燻っていた。
ほんの数刻前──
アリアの胸にしがみついて
子供のように涙を流していた彼の姿が
焼き付いたように脳裏から離れない。
艶のある黒髪、細く揺れる肩
温もりに縋るように震える指先。
──それを見て
何故、自分はあれほどまでに
殺意を剥き出しにしてしまったのか。
煙を吐き出しながら
時也はその問いを自らの胸に投げかける。
答えは、分かっていた。
嫉妬──それは、確かにあった。
自分は狭量な男だ。
妻に親しく触れる者など
誰であろうと許せる器ではない。
だが。
それだけでは
到底、説明のつかない激情があった。
まるで、あの場にいた彼が
愛する者の命すら奪う〝敵〟に見えて
仕方なかった。
「⋯⋯違う、はずなんです」
呟くような声が漏れた。
握った煙草が、きしりと軋む音を立てる。
感情を押し込めるように
煙を深く吸い込む。
アリアに抱きしめられる彼の姿。
アリアが〝触れていた〟その背中。
だが、そこに重なってしまうのだ──
──あの男の影が。
昨夜。
アリアの首を刎ね、再生を抑えて辱めた
壮年の男。
嘲るように笑いながら
再生するその身体に何度も穢れを刻みつけた
不死鳥の血を欲しがった──〝外道〟
(⋯⋯違う。
あれは、もう
アリアさんが自ら焼き尽くした⋯⋯)
理解している。
理屈では
もう終わったことだと知っている。
けれど──心が、そうは言っていない。
(⋯⋯なのに、何故⋯⋯)
まるで
まだその男が目の前にいるかのような錯覚。
襷紐を握り締めた手の感触が
今もまだ指先に残っている。
あのまま絞めていたら、きっと、自分は──
「⋯⋯昨日の今日だ。
お前の心が、追いついてねぇんだよ」
ふいに隣から届いた声に、紫煙が揺れる。
並んで立っていた彼は
煙草の先を見つめたまま
一度も目を合わせずに言った。
その言葉に、時也はゆっくりと目を閉じた。
〝昨日〟──
(⋯⋯もう、誰にも⋯⋯
彼女を触れさせたくなどない)
「⋯⋯ソーレンさん」
吐き出す煙の間に
ぽつりと問うように言葉が落ちた。
「僕は⋯⋯心が、狭いのでしょうか」
その声は
普段と変わらず丁寧で穏やかだった。
だが、その裏に潜むのは
〝自らを律してきた者〟だからこそ
抑えきれぬ矛盾に引き裂かれている男の
本音だった。
ソーレンはすぐには答えなかった。
煙草を唇に咥え直し、指先で灰を落とす。
ぱち、と灰が石畳に散る音が小さく響いた。
「狭い⋯⋯って言われたら、そうかもな」
ソーレンは煙草を咥えたまま肩を竦め
火の先をじっと見つめながら
ぼそりと呟いた。
「でもな、心が狭ぇからって
想いが浅いわけじゃねぇ。
むしろ⋯⋯どうしようもなく深ぇから
余計に揺れるんだろ」
火種を落とさぬように指先で灰を弾き
そのまま静かに言葉を継ぐ。
「お前は誰よりも〝ちゃんと想ってる〟
だから
自分の中で整理がつかなくなる時くらい──
あって当然だろ」
そして、ゆっくりと顔を上げた。
「それだけのもんを抱えて生きてんなら
時々くらい、迷ってもいいんじゃねぇの?」
煙の中に滲んだその声は
どこまでも静かで、どこか優しかった。
沈黙が降る。
風が一度、強く吹いた。
紫煙と共に
桜の葉がひとひら、地に舞い落ちる。
その中で、時也は何も言わなかった。
ただ、手の中の煙草が燃え尽き
長く伸びた灰がぽとりと落ちる。
その灰を、風がさらってゆく頃──
彼の背は、ほんのわずかだけ沈んで見えた。
燃え残る火種を心に抱きながら
それでも立ち続けようとする男の
寡黙な姿だった。