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『高熱の夜、ほどけた強がり』~m×a~
side 阿部
ズキ、と。朝、目を覚ました瞬間から、こめかみの奥で、嫌な痛みが脈打っていた。
(……これ、完全に風邪引いちゃったかも)
鏡に映る自分の顔は、寝不足をごまかすためのコンシーラーと、元気に見せるための明るい笑顔で武装されていて、一見いつも通りの阿部ちゃん。喉の奥に張り付くようなイガイガも、時折ガンガンと頭に響く鈍痛も、この笑顔の下に隠してしまえば、きっと誰にもバレない。そう、誰にも。
昨日の夜、少し肌寒い中、薄着でロケをしたのがまずかったのかもしれない。平気なふりをしてたけど、身体の芯まで冷え切ってしまった感覚があった。そのツケが、一晩経ってきっちり回ってきたみたいだね。
「みんなー!今日の収録も気合い入れてこー!」
わざと一番大きな声を出して楽屋の空気をかき混ぜる。俺のその声に、メンバーが「阿部ちゃんは、朝から元気だね」と無邪気に笑う。うん、いつも通りの朝だ。これでいい。これがいい。
俺はみんなを支える。それが俺の役割で、俺の居場所。ちょっとくらい体調が悪いからって、それを崩すわけにはいかないんだ。ファンのみんなが期待しているのは、弱った姿じゃなくて、いつだって全力で笑いを取りに行く俺のはずだから。
特に、あいつには……めめには、絶対にバレたくなかった。
ちらり、と視線を向ければ、ソファの隅で静かにスマホを眺めている綺麗に整えられた髪が目に入る。長い手足を持て余すようにして座るその姿は、ただそこにいるだけで絵になるから腹が立つ。俺がこんなに必死で「いつも通り」を演じていることなんて、きっと微塵も気づいていないんだろうな。
それでいい。めめは、俺が無理してるのを知ると、すぐにうるさく言うから。
「阿部ちゃん、無理しちゃだめ」
なんて、普段はあんなに割とそっけない方なのに、そういう時だけ低い声で、有無を言わさぬ迫力で言ってくるんだ。それが心配からくるものだってわかってる。わかってるけど、素直に「うん」って頷けない自分がいる。だって、そんなこと言われたら、甘えたくなるに決まってるじゃない。彼の前でだけは、弱い自分を見せたくないという、くだらないプライドが邪魔をする。
「はい、本番いきまーす!スタジオ入りまーす!」
スタッフさんの声に、俺は「よっしゃ!」と一番に立ち上がった。ズキン、と一瞬、鉄のハンマーで殴られたような激しい痛みが頭を貫いたけど、ぐっと奥歯を噛んで耐える。大丈夫、カメラの前に立てば、俺はプロのアイドル・向井阿部ちゃんになれる。魔法がかかるんだ。
今日の収録は、体を張る系のゲーム企画と、トーク企画の二本立て。まずはゲーム企画からだ。セットには、巨大な滑り台や、粉の入ったプールなんかが用意されている。見るからに、体力を使いそうだ。
(……うわ、最悪だ…)
心の中で悪態をつく。でも、顔には出さない。むしろ、「うわー!めっちゃおもしろそうじゃん!」なんて、一番にはしゃいで見せる。それが、俺の仕事。
ゲームが始まると、俺は水を得た魚のように、セットの中を駆け回った。ローションが塗られた滑り台を、わざと大袈裟に滑り落ちて粉まみれになる。チーム対抗のクイズでは、誰よりも早くボタンを押して、珍回答で笑いを取る。スタジオが、ドッと大きな笑いに包まれるたびに、俺は自分の存在価値を確かめることができた。
でも、その代償は、確実に俺の身体を蝕んでいた。
笑うたびに喉がひりついて、咳が出そうになるのを必死で飲み込んだ。だんだんと、頭の芯がふわふわしてきて、目の前の景色に薄い膜がかかったみたいにぼやけて見える。共演者の話している内容が、右から左へと抜けていく。
(だめだ、集中しなきゃ…っ)
隣に座るめめの横顔が、視界の端に映る。彼は真剣な顔でMCの話を聞いている。その綺麗な横顔を見ていると、なんだか安心して、一瞬、意識が遠のきそうになった。このまま、この肩に寄りかかって眠ってしまえたら、どんなに楽だろうか。
だめだ、しっかりしろ、俺!
自分を叱咤して、ぐっと背筋を伸ばす。トークの合間、一瞬だけカメラが他のメンバーを抜いたタイミングで、俺は小さく息をついた。ごほっ、と喉から漏れそうになる咳を、水を飲むふりをしてなんとか誤魔化す。ペットボトルの水が、やけに熱く感じた。
「はい、オッケーでーす!一旦休憩入りまーす!」
ディレクターの声が、まるで水の中から聞こえるみたいに遠かった。その声でぷつり、と張り詰めていた糸が切れる。
「お疲れ様でーす」
周りのメンバーが立ち上がって楽屋に戻っていく中、俺はすぐには動けなかった。ぐらり、と揺れる視界。ソファの背もたれにぐったりと身体を預けて、荒くなる息を整える。心臓がバクバクと嫌な音を立てている。
「……はぁっ、……っ、けほっ、ごほっ…!」
もう我慢できなかった。周りに誰もいないことを確認して、背中を丸めて口元を押さえる。一度出始めると、咳は止まらない。肺が痛い。頭がガンガン響く。視界の端に、黒い点がちらついている。
「……っ、はぁ、……つらい…」
ぽつりと、誰にも聞かれないはずの弱音がこぼれた。その声は、自分でも驚くほどか細かった。
Side目黒
朝、楽屋に入ってきた時から、阿部ちゃんの様子は少しおかしかった。
「みんなー!今日の収録も気合い入れてこー!」
いつもみたいに大きな声を出してはいるけど、その声がほんの少しだけ掠れている。俺の耳は、阿部ちゃんのことになると、ほんの些細な音の変化だって聞き逃さない。それはもう、特技と言ってもいいくらいだ。
それに、顔色も。いつもの健康的な肌の色じゃなくて、少しだけ白い。目の下には、コンシーラーでも隠しきれていない隈がうっすらと浮かんでいる。昨日、ロケで一緒だった時、あいつ、やけに薄着だったのを思い出す。俺が上着を貸そうとしたら、「大丈夫だって!」なんて笑って断られたんだ。
(……阿部ちゃん、また無理してるな)
ソファに座ってスマホをいじるふりをしながら、俺はずっと阿部ちゃんのことを見ていた。他のメンバーと楽しそうに話して、ケラケラ笑っている。けど、その笑顔はどこか薄っぺらくて、目が全然笑っていない。よく見ると、その身体が微かに震えている気もする。
ああいう時の阿部ちゃんは、決まって何かを我慢している時だ。
俺がそれに気づいていることなんて、阿部ちゃんは知らないだろう。気づかれたくないと思っているのも、知ってる。だから、俺はいつも気づかないふりをする。でも、本当はずっと、目で追ってしまっている。そして、心の中では、どうやったらこいつの強がりを崩してやれるか、そればかりを考えている。
収録が始まってからも、俺の心配は募るばかりだった。
カメラの前での阿部ちゃんは、完璧な阿部ちゃんだった。粉まみれになっても、誰よりも大きな声で笑い、体を張って笑いを取りに行く。そのプロ意識の高さは尊敬するけど、今日のそれは見ていて痛々しかった。まるで、蝋燭が消える前に、最後の光を放って燃え盛っているような、そんな危うさを感じた。
トークの合間に、一瞬だけ見せる辛そうな顔。水を飲むふりをして、咳をこらえている背中。俺の席からは、その小さな震えがはっきりと見えた。
(なんで阿部ちゃんは、いつも我慢するんだよ…)
心配と、それから、どうしようもない苛立ちが胸の奥で渦巻く。頼ってほしい。つらい時は、つらいって言ってほしい。俺は、お前のなんなんだよ。ただのメンバーか?それだけの関係なのか?お前のその笑顔を守るためなら、俺はなんだってするのに。
休憩の声がかかった瞬間、俺はすぐに立ち上がって阿部ちゃんの方を見た。案の定、彼はぐったりとソファに沈んで動かない。他のメンバーが楽屋に戻っていくのを見送ってから、俺はゆっくりと阿部ちゃんに近づいた。
セットの陰に隠れて、阿部ちゃんはこちらに背を向けている。その背中が、小さく震えていた。
「……っ、けほっ、ごほっ…!」
絞り出すような、苦しそうな咳。聞いているだけで、胸が締め付けられる。
「……っ、はぁ、……つらい…」
か細い声で呟かれた本音に、俺の中で何かが切れた。
もう、気づかないふりなんてしてやらない。
俺は無言で阿部ちゃんの隣に座り、その背中をゆっくりと、でも、少しだけ力を込めてさすった。
「……っ!?」
びくっ、と大きく跳ねた身体。驚いたように振り返った阿部ちゃんの目は、熱のせいか潤んでいて、驚きに見開かれていた。
「めめ……?な、んで…」
「なんで、じゃない」
俺はできるだけ冷静に、低い声で言った。
「無理してるでしょ」
図星だったんだろう。阿部ちゃんは一瞬、息を呑んで、それから慌てていつものおどけた笑顔を顔に貼り付けた。
「な、何言ってるの!無理なんかしてないって!ちょっとむせただけじゃん!」
「嘘つけ。朝から顔色悪いし、声も掠れてる。さっきからずっと咳、我慢してただろ」
「そ、そんなこと…」
「俺の目、ごまかせると思ってるの?」
じっ、と目を見つめて言うと、阿部ちゃんは気まずそうに視線を逸らした。その頬が、普段よりも赤い。熱があるのは、もう明らかだった。
「ほら、楽屋戻るよ。いつまでもこんなとこにいないで」
俺は立ち上がって、阿部ちゃんに手を差し伸べる。こいつは、きっとまだ強がるだろう。大丈夫だって言い張るに決まってる。
案の定、阿部ちゃんは俺の手を取らずに、自分で立ち上がろうとした。
「だーかーら、大丈夫だって!めめは心配性だよね。ほら、この通り…」
そう言って、へらりと笑いながら立ち上がった、その瞬間だった。
「……あっ」
阿部ちゃんの身体が、ぐらり、と大きく傾ぐ。
その瞳から、すっと光が消える。
「阿部ちゃんっ!!」
俺は叫びながら、倒れこんでくるその身体を、力の限り抱きとめた。
腕の中に収まった身体は、燃えるように熱かった。ぐったりと全体重を預けてくる阿部ちゃんの、荒い呼吸が耳元で聞こえる。
「……うそ、だろ…」
こんなになるまで、たった一人で我慢していたのか。
怒りと、後悔と、そしてどうしようもない愛しさが、ごちゃ混ぜになって胸に込み上げてきた。
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作者名「木結」(雪だるまアイコン)でご検索ください。
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