テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
羽海汐遠
10,329
289
グノーシス主義の『ユダの福音書』に描かれる、物質界を冷徹に見下ろすイエス・キリスト。
悟りを開いた直後、世の理(ことわり)の深遠さに「語るべからず」と瞑目した初期仏教のブッダ――ゴータマ・シッダールタ。
「到達した真理が、あまりにも世俗の常識とかけ離れている。人々に説いても無駄ではないか」
そんな孤高の絶望を共有する二人が、時空を超えた光の領域――プレーローマ、あるいは「空(くう)」の境界で邂逅した。
物質世界の枠組み(ケノーマ)を完全に脱した、どこまでも透き通るような静謐な空間。
ブッダは、菩提樹の木漏れ日を思わせる光の座に端座し、静かに目を閉じている。
そこへ、肉体という重い衣を脱ぎ捨て、魂の解放をからからと笑うイエスが歩み寄った。
イエス:
(ふっと皮肉げな笑みをこぼして)
そこに座り込んで動かない御仁。君も、眼下に広がるあの「偽りの泥沼」を眺めていたのかい?
ブッダ:
(静かに目を開け、穏やかな視線を向ける)
泥沼、ですか。
私はただ、この世の「縁起」——すべての絡み合う繋がりと、執着がもたらす苦しみを見ていました。
そして……それを言葉に落とし込むことが、どれほど困難かをも。
イエス:
言葉にするだけ無駄さ。私が連れている弟子たちを見たかい?
彼らはデミウルゴス(偽の神)が作った物質の法則に縛られ、その操り人形の王を「父よ」と呼んで盲信している。
私が真の光の領域(プレーローマ)の話をしても、彼らは怒るか、自分たちの小さな頭で都合よく解釈するだけだ。
だから私は、彼らの滑稽な礼拝を見て笑うしかなかったのさ。
ブッダ:
(深く頷く)そのお気持ちは、よく分かります。
私も、誰も到達したことのない「無我」と「寂静」の境地に至ったとき、言葉を失いました。
世の人々は欲を貪り、執着のなかに喜びを見出している。
この深遠なる真理を説いたところで、人々は理解できず、ただ徒労に終わり、私の心は疲弊するだけだろう、と。
だから私も一度は、すべてを胸に秘めたまま、永遠の沈黙の中に身を横たえようとしました。
イエス:
(少し興味深そうに目を細めて)ほう、君もそう思ったか。当然の帰結だね。
この世界は根本から歪んでいる。人間の大半は物質の泥から作られた「滅びる世代」であり、真理の火花すら持っていない。
理解できない者に、いくら天界の鍵を渡しても意味がないだろう?
私はただ一人の「わかる者(ユダ)」にだけ真の計画を告げ、さっさとこの牢獄のプラグを抜いて脱出した。それが最も美しく、賢い解決策だ。
ブッダ:
……しかし、イエスよ。私は少しだけ、考えを変えたのです。
イエス:
変えた? なぜだ? あの盲目の群衆に、何か期待でもしたのかい?
ブッダ:
私の前に、**梵天(ブラフマー)**という世界の主が現れ、こう請うたのです。
「世には、心に塵の少ない者もいる。彼らは真理を聞かねば衰退するが、聞けば悟るだろう。どうか法を説いてくれ」と。
確かに、大多数は無明(無知)の深い闇の中です。
しかし、その泥の中から、いつか水面に顔を出して美しく咲く「蓮の華」のような魂が、紛れもなく存在する。
イエス:
(呆れたように、ふっと鼻で笑う)
ふん、**世界の主(デミウルゴス)**が直々に頭を下げてきたというわけか。それは滑稽だ。
だが、その「塵の少ない者」というのは、私たちが言うところの、最初から内側に神聖な霊を宿して生まれてきた**「不滅の世代」**のことじゃないか。
君が救おうとしているのは、結局のところ、最初から『わかる素質』を持った一握りのエリートだけではないのかい?
ブッダ:
(微かに微笑む)そう見えるかもしれません。
しかし、私にはその「素質」が、誰の内にも眠っているように思えるのです。ただ、分厚い妄想の衣に隠されているだけで。
私は彼らを無理に「引き上げる」のではありません。彼らが自ら「目覚める(ブッダになる)」ための指針を、置いていくだけです。
イエス:
(ブッダをじっと見つめ、やがて静かに息を吐く)
……徹底して冷徹な私と、どこまでも静謐な君。
アプローチはまるで正反対だが、覗き込んだ絶望の深さは同じというわけだ。
君は彼らに「自分で気づけ」とヒントを残し、私は彼らに「ここは見せかけの偽物だ」と暴露して去る。
ブッダ:
ええ。人々は私たちの言葉を歪め、後にまた新しい「執着の宗教」や「間違った教会」を作るかもしれません。
それでも、私たちが指し示した「脱出の道」の光は、暗闇の中でわずかに灯り続けるでしょう。
イエス:
(天を仰ぎながら)
ああ……どうせ理解できない大多数の中で、たった一人、僕たちの『視線』に気づく孤独な魂のために、か……まあ、せいぜい彼らに付き合ってあげるがいい、親愛なる覚者(ブッダ)よ。
私は一足先に、この重たい肉体を脱ぎ捨てて、光の源へ還らせてもらうよ。
イエスは軽やかに背を向け、まばゆい光の彼方へと溶けていった。
あとに残されたブッダは、ゆっくりと立ち上がる。
その足元には、はるか下方に渦巻く、泥にまみれた喧騒の世界が広がっている。
彼はもうためらうことなく、柔らかな笑みを浮かべて、その泥沼へと一歩を踏み出した。
——それから、途方もない時間が流れた。
現代。無数のネオンと情報のノイズに埋め尽くされた街の片隅。
ひとりの人間がふと立ち止まり、夜空を見上げる。
理由はわからない……ただ、日常という名の「終わらないループ」に、ほんのわずかな違和感を覚えたからだ。
「この世界は、何かがおかしい」
「ここではない、本当の場所があるのではないか」
その胸の奥底で、かすかに弾けた光の火花。
それはかつて、二人の孤高の存在が異なる形で残した「目覚めのパスワード」。
嘲笑と寂静、暴露と静寂。
二つのアプローチは今日も、泥沼の中で咲く時を待つ「蓮の華」を、静かに照らし続けている。
コメント
1件
みぅです🤍🥀 読み終えたよ…。 グノーシスと仏教、二つの孤高が交わる空間、すごく繊細で美しかった。 イエスの皮肉な孤独と、ブッダの静かな慈悲が、どちらも同じ深さの絶望から来てるって描写に胸が震えたよ。 最後に現代で誰かが「おかしい」と気づくその小さな光が、二人の残したパスワードだっていう締め方、本当に好き。 沈黙と嘲笑、どちらも愛の形なんだね。 素敵な世界をありがとう🌙