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レイニルが馬車で向かった先は、隣国のアメリア国へと繋がる国境だった。
サンディ国王の妃であるレイニルが行き先を伝えれば、理由も聞かずに馬車は温泉宿から国境へと向かってくれた。
国境に着くとレイニルは馬車から降りる。馬車には、そのまま温泉宿に戻るように告げた。
(シャイン様……ありがとうございました。さようなら)
後ろを振り返る事なく、レイニルは徒歩で進むが簡単に国境を越える事ができた。
アメリア国に入国すれば、レイニルは国の所有物。予想通り、国境から数歩歩いたところですぐに警備隊に囲まれた。
まるでレイニルが入国するのを待ち構えていたかのようだった。
レイニルが連行されたのは予想通りの場所だった。以前にも来た事がある、アメリア城の地下牢だ。
国に身柄を買い取られたレイニルは実家に帰る事すら許されない。
そして牢の中のレイニルの前に現れたのは、あの感情の見えない冷酷な商売人。アメリア国の王子・ヴェルクだ。
「お帰りなさい、レイニル様。お早いお帰りでしたね。まぁすぐに離婚すると思ってましたよ」
黒髪に黒い瞳のヴェルクは、地下牢の暗闇に溶け込んで見えてレイニルの恐怖を煽る。
そんな彼の口調は、まるでレイニルの帰国と離婚を待ち望んでいたように聞こえた。レイニルは目を伏せながら言葉を返す。
「離婚はしていません」
「おや。勝手に逃げてきたという事ですか?」
ヴェルクはニヤニヤと楽しそうに笑っている。実際、レイニルが勝手に逃げてきた事に間違いはない。しかし真実はもっと過酷なもの。
レイニルはその現実を自身の口で語るのが辛い。
「シャインとは口約束の結婚なので……離婚の必要もないのです」
文字通り、シャインとの結婚はキスのみで交わされた『口約束』の契約結婚。正式な手順は何も踏んでいない。
それでもシャインは『オレがルールだ』と明るく笑ってくれたが、その眩しい笑顔を思い出すだけで胸が苦しくなる。
それを聞いたヴェルクは何を思ったのか、牢屋の鍵を開けて扉を全開にした。
「それを聞いて安心しました。商売相手の機嫌を損ねたくはないですから」
水を輸出しているアメリア国にとって、水を必要とするサンディ国は最大の顧客。それは理解できるが、なぜ牢屋から出してくれるのかが分からない。
「さぁ、出てください。レイニル様に夜伽は大変でしたでしょう」
ヴェルクは、シャインが体目当ての遊びでレイニルを娶り、そして捨てたのだと解釈した。クラウディ家の娘の美貌に目が眩むのは無理もない。
今度はまるで憐れむような目でヴェルクに見られたレイニルの不快は増していく。ヴェルクの言葉は真実かもしれないが認めたくはない。
(ちがう……あれは夜伽なんかじゃ……)
あの時の温泉での交わりは……あの時のシャインの熱が偽りの愛だなんて信じたくない。
力尽きて果てるまで、何度も何度も耳元で『愛してる』と囁いてくれた、あの時のシャインの声と、体に刻まれた熱さは記憶から消し去れない。
ヴェルクの後をついて地下牢の階段を上って地上に出る。意外にも外は曇り空。快晴ではないにしろ、レイニルが地上に出たのに雨ではないのは珍しい。
「レイニル様の雨女の能力が弱まったみたいですね。なぜでしょうかね?」
「…………」
その答えを分かっているのに、あえてヴェルクは遠回しにレイニルに問いかける。
レイニルは答えられるはずもない。サンディ国に行ってから自身が大きく変わった事といえば1つしかない。
それは、晴れ男のシャインと交わったからだと。
レイニルが連れて行かれたのは城内の一室。シャインの部屋ほどではないが、煌びやかな内装と家具は貴族特有の気品を感じさせる。
「さぁ、お座りください」
小さな丸いテーブルに向かい合って座ると、メイドの女性が部屋に入ってきて二人の前にティーカップを置く。紅茶の香りが少しだけ神経をリラックスさせる。
ここはどう見てもヴェルクの自室だが、今さら向かい合って何を話したいのだろうか。
「あの、私はこれから、どうなるのですか?」
「はい、その事をお話しようと思いまして。まずは冷めないうちに紅茶をどうぞ」
ヴェルクは王子でありながら、やはり商売人でもある。交渉には慣れているので、すぐに話に入らずに屈託のない笑顔で緊張を解かしてくる。
気品に満ちた所作で先に紅茶を口にするヴェルクの伏せた漆黒の瞳すらも、普通の女性なら一目惚れしてしまうほどに美しい。
王族でありながら相手を立てる腰の低さ。ヴェルクはアメリア国の王子にして最強の商人かもしれない。
「さて、先ほども言いましたが、能力が弱まったおかげでレイニル様はお城で暮らす事ができます」
今までのレイニルは地上に出ると大雨が止まないせいで地下牢での暮らしを強いられていた。
能力が弱まったのは、やはりシャインの晴れ男の能力と混ざって中和されたせいかもしれない。
「私、お城で暮らしても良いのですか?」
「もちろんです。充分な肩書きを差し上げますよ」
実家に帰る事ができないレイニルにとって、城に住まわせてもらえるのは純粋にありがたい。だが、逆にその待遇の良さが怖い気がした。
それでも少しだけ安心したレイニルは、ようやく紅茶を一口飲んでほっと息を吐いた。
しかし、最初に良い条件を出して安心させるのはヴェルクの交渉術。彼の漆黒の瞳が鋭くレイニルを見据える。
「ですが、極端に雨量が減るのも困るのです。側に置いて調整する必要がありますね」
「調節……?」
レイニルは嫌な予感がしてきた。弱まった能力を調節する方法……それはシャインと同じ方法を言っているのではないかと。
そして質問しなくても予想通りの答えをヴェルク自らが語り出す。
「私があなたと交わる事で、あなたの中の晴れ男の力を薄めます」
レイニルは青ざめて椅子を少し後ろに引いた。この男は正気でそれを言っているのだろうか。それこそ夜伽の強要にしか聞こえない。
しかしヴェルクは冗談を言っているようにも狂気にも見えない。常に冷静で合理的な答えを出している。
それでも感情として、レイニルにはそれを快諾なんてできない。雨量をコントロールする、つまりレイニルは単なる商売道具だった。
「そんなこと、できません……だって私は……」
私は何だと言おうとしたのか……レイニルは自分自身に戸惑う。こんな時でもシャインの名前と顔が脳裏に浮かび上がる。
「あなたはもう人妻ではないでしょう。でもご安心ください。今度は私が正式にレイニル様を娶ります」
「……え!?」
「私はシャイン様と同じ22歳ですし、悪くはないでしょう」
ヴェルクが言っていた、レイニルに与える『肩書き』とは、アメリア国の王太子妃。ヴェルク王子と結婚する事であった。
まさか、ここでも雨女の能力が目的で娶られるなんて……やはり、雨女が持つのは呪いの能力としか思えない。
ヴェルクが突然席を立つと、正面に座るレイニルの横に片膝をついて跪く。黒いスーツで王子らしからぬ装いだが、その高貴な上目遣いに威圧される。
「レイニル様。私と結婚してください」
まさに、これはプロポーズだった。シャインにも正式に求婚されなかったレイニルは、どう答えていいのか分からない。
ヴェルクの瞳を見ると、建前や偽りではないと分かる。これまでの短期間の過程で、いつからヴェルクはレイニルを本気で愛してしまったのか。
自覚はないが、レイニルの持つ『雨女の能力』と『美貌』はヴェルクをも惹きつけていた。これこそが天性の魔性で呪いの能力と言えるかもしれない。
(どうしたらいいの……シャイン……)
なぜかレイニルの心の中にシャインの名が出てきた。確かにヴェルクと結婚して、アメリア国に安定した雨を降らせる事ができれば、国にとっても有意義だろう。
それで、きっと喜ぶ人がたくさんいる。それが理想の存在意義かもしれない。しかしレイニルは自分の心に目を向けてはいかなった。
レイニルが答えずにいると、その戸惑いを読んだヴェルクが微笑んで立ち上がる。
「お返事は急がなくてもいいですよ。時間はありますので、よくお考えください」
心に余裕を与えてくれるのもヴェルクの誘導なのだろう。確かにレイニルはもう、どこへも逃げられない。
本当は無理矢理にでも婚姻を結ぶ事は可能なのに、レイニルに返答と選択の余地を与えるのもヴェルクの余裕だった。
ヴェルクが本気で愛してくれるのなら、シャインへの未練を捨てられるかもしれない。
レイニルは、このままヴェルクと結婚するのが国のためであり、虐げられた雨女の能力を活かす生き方なのかもしれないと思い始めた。