テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
第18話:極めて快適な鳥籠と、大型契約の成立
焔の大きな手が、私の手首を容赦なく締め上げている。
大股に進む彼の歩幅に引きずられ、呼吸が浅く乱れた。
靴裏に伝わる石畳の冷たさ。
対照的に、握られた手首からは火傷しそうなほどの熱が注ぎ込んでくる。
「――いいですか陛下。半妖を隣に置くことは、貴方の治世における最大の『汚点』となります」
私は極めて合理的な事実を並べ立てた。
「歴史の統計から見ても、こうした強引な人事は短命に終わる政権の典型的な症例です。周囲の反発を招き、不要な暗殺のリスクを跳ね上げるだけで、実利が欠如しています」
滔々と語る私の理屈を、前を行く絶世の美貌は鼻で嗤った。
足が止まる。
目の前に立ちはだかるのは、豪奢な金箔が施された重厚な木造の扉。
本来であれば『次期皇后の私室』としてあてがわれるべき、権威の象徴だ。
焔は一切の躊躇なく、その威厳ある扉を軍靴の踵で蹴り開けた。
蝶番が悲鳴を上げ、乾いた木が弾ける音が鼓膜を打つ。
「能書きはいいから中を見ろ。……お前のために『整理』させておいた」
背中を押され、よろめきながらその空間へ足を踏み入れる。
そして、呼吸を忘れた。
私の瞳孔が、極限まで収縮する。
そこにあったのは、妃嬪が好むような絹の寝具でも、白粉の甘い匂いを漂わせる豪華な調度品でもなかった。
部屋を支配していたのは、冷たく光る圧倒的な機能美。
壁一面を埋め尽くしているのは、帝立図書館の奥底に封印されていたはずの希少な禁書や、薬草学の原本の山。
埃と古い羊皮紙の匂いが、知の暴力となって鼻腔を殴りつける。
部屋の中央には、見たこともない最新式の機材が鎮座していた。
南蛮渡りの精巧な瑠璃の蒸留器。
水銀と歯車を組み合わせた、恐ろしく滑らかに回転する絡繰(からくり)の遠心筒。
さらに奥へ視線を向ければ、帝都の気候では絶対に育たないはずの希少毒草が青々と葉を広げている。
地下の霊脈の熱を強引に引き込み、南方の瘴気すら再現した、巨大な玻璃(はり)の温室。
背筋に電撃が走った。
薬師としての本能が、心臓の拍動を強制的に跳ね上げる。
この空間を構築するために注ぎ込まれた、天文学的な額の費用。
帝立図書館の禁書を私物化し、地形の理すら捻じ曲げる圧倒的な権力。
喉がカラカラに乾いた。
(……ありえない。遠心分離の絡繰に、熱帯毒草の完全な箱庭……。これがあれば、私の研究は十年は短縮できる……っ)
私は激しい葛藤に苛まれた。脳内の天秤が軋みを上げて揺れ動く。
片方の皿には、皇后という座に伴う膨大な政治的リスク。
もう片方の皿には、目の前に広がる圧倒的な『利益』。
爪が食い込むほど拳を握りしめ、私は深く、長く息を吸い込んだ。
肺の奥を満たす、冷たい空気と薬草の匂い。
(……なるほど。これは愛だの婚約だのという情緒的な話ではない。陛下は私の技術を買うために、この研究棟を私に提供した)
つまり、これは治癒という目的を達成するための、超大型の投資なのだ。
私は振り返り、いまだ困惑の名残を消しきれない顔で、眼前の暴君を見上げた。
「……陛下。非常に不本意ですが、これほどの『対価』を用意されては、断る方が薬師として不誠実です」
乾いた唇を舌で湿らせ、私は明確な契約の意思を口にする。
「分かりました。陛下の呪いが完治するその日まで、私は『婚約者』としての役割(フリ)を、可能な限り演じるとしましょう」
傲慢な暴君の唇が、凶悪な弧を描いた。
「……そうか。なら、今日からここがお前の『籠』だ」
「籠というより、最高の職場(パラダイス)です」
私は彼に背を向け、吸い寄せられるように瑠璃の蒸留器へと歩み寄った。
滑らかな玻璃の表面を指先でなぞる。
完璧な曲線。一切の不純物を含まない透明度。
背後で、満足げな足音が遠ざかっていく。
唯一無二の『後援者(タニマチ)』の存在など、すでに私の意識からは完全に消え失せていた。
〇
それから、数時間が経過した頃。
機材の点検に没頭していた私の元に、一人の使者が訪れた。
差し出されたのは、金箔が散らされた豪奢な和紙の封筒。
保守派貴族の令嬢たちが集う、毒を含んだ社交場――『歌仙会』への招待状だ。
和紙からは、質の悪い白粉と、微量の水銀が混ざったような甘ったるい香の匂いが立ち昇っている。
その匂いだけで、彼女たちの腹の底で渦巻くヘドロのような悪意が透けて見えた。
宮廷の厳しい洗礼。
半妖の娘を嘲笑い、絶望の底へ叩き落とすための、優雅な処刑場への案内状。
「……ご苦労様です」
私は使者の冷ややかな視線を無視し、招待状を受け取った。
そして、それを実験台の片隅へ無造作に放り投げる。
指先で、最新式の遠心筒の歯車を弾いた。
恐ろしいほど静かで、滑らかな駆動音が部屋に響き渡る。
「あぁ、この回転……、素晴らしい……」
貴族たちの陰湿な悪意など、この美しい機材の前では、路傍の石以下の価値しかなかった。
コメント
1件
うわあ、すごい…! 皇后の私室だと思いきや、研究中枢として完全にカスタマイズされた空間が出てきて、思わず息を呑みました。主人公が「不本意だけど断る方が不誠実」と、合理的に契約を受ける流れがめちゃくちゃカッコいいです。最後の歌仙会の招待状を「放り投げて機材に夢中になる」シーン、悪意への無関心が強くてゾクゾクしました…! 研究環境の描写の細かさに、つらみぴえんさんのこだわりを感じます🤍