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その時、部屋のチャイムが鳴り、私たちは玄関に視線を向けた。
入ってきたのは、一人の洗練されたフォーマルなスーツに身にまとった男性だった。
「陸翔様、失礼いたします」
「急に呼び出して申し訳なかった」
陸翔兄さまの言葉に、支配人は笑顔で「とんでもない」といいつつ、私に視線を向けた。
「沙織お嬢様、ご無沙汰しております。お嬢様にお会いで来るなら、すぐに参りますよ」
私の服装を見ても変わらず、柔らかな笑みとその言葉に、私はキュッと胸が締め付けられる気がした。
何度も私の誕生日パーティーなどでは、心遣いをしてくれお祝いの言葉を言ってくれた人だ。
自分の心を守るために、この世界がから逃げ出してしまい、どれだけの人に心配をかけたのだろう。
「ご無沙汰しております」
その気持ちを込めて、深くお辞儀をすると、陸翔兄さまが支配人に声をかける。
「彼女の服と必要なものを用意して欲しい。しばらく滞在できるように」
「かしこまりました」
そう言って、支配人は穏やかに部屋を出て行った。時計を見ると、もう20時を過ぎている。
「陸翔兄さま、仕事大丈夫だった?」
そう尋ねながらコートを脱いで陸翔兄さまに返す。早く家に帰らなければならないだろう。ここまでしてもらい、感謝しかない。
「俺のことは気にするな。それより、沙織、お前、本当に何も持たずに出てきたのか?」
私が渡したコートをソファに置きつつ、スマホだけを持っている私を見て問いかける。
「追い出されたから」
「え?」
今さら隠すこともないと、私は苦笑しつつ言葉を続ける。
「叩かれて、そのまま追い出されたの。鍵も持ってなくて」
浮気されたこと、それが幼馴染で、義理の母も彼女の味方だということ。そして、美咲さんと夫にされたことを簡単に話す。
「お前の旦那は最低だな……」
地を這うような怒りを含んだ陸翔兄さまの言葉に、それだけで救われた気がした。
「美咲さんは、芳也がお金を持つようになったら現れたの。それまでは見向きもしなかったのに」
思い出して自嘲気味な笑みがこぼれる。お金はそれほどまでに魅力なのだろうか。芳也が昔、幼馴染の高嶺の花の話をしていた。それが彼女だったのだろう。だから、彼女に誘惑され、私の嘘偽りのない言葉をすべて信じた……。
「さすがにもう離婚しようと思ってる」
美咲さんと出会ってから芳也は変わって変わってしまった。私にももちろん否はあったし、結婚をしたからには我慢も必要だ。
そう思っていたが、もうここまで来たらそんなことを思う必要もないだろう。
「お前は悪くない」
ソファに座って話していた私の頭を、ぽんと陸翔兄さまが撫でてくれる。
小さい頃も、転んだときなどによく慰めてくれた。その手の温かさに、泣きたくなってしまう。
「でも、これからのこともあるし、一度戻らないといけないね。私の物も多少はあるし」
芳也の口座から引き落とされるカードなどは必要はないが、銀行口座や、隠してあった自分の口座の通帳やカードは彼に知られないように隠してある。
「離婚届にもサインしてもらわないと」
そう言った時、チャイムが鳴り、誰かが来たことがわかった。陸翔兄さまが出て、荷物を持って戻ってきた。
その中身を見ると、さきほどの私の服装を見て手配してくれたのだろう。取り急ぎ必要な着替えが入っていた。
「ほら」
「ありがとう」
「とりあえず寒いだろう。風呂に入って着替えてこい」
「え?」
彼がいる前でお風呂に入って着替える? そんなことはできない。そう思ったが、家族としか思われていない私。奥様がいるわけでもなく、二人きり、そんなことを意識していた自分が恥ずかしくなる。ただ、濡れている私を気にしてくれているだけなのに。
「わかった」
着替えを手に取ると、私は浴室へ向かった。
✴サイド 芳也✴
「芳也、美味しかったね」
「ああ」
隣にいるのは美しく華やかな美咲。結局、美咲の父と。俺の母は食事に来ることができず、二人でイタリアンを食べに行った。
帰りのタクシーの中で、美咲が楽しそうに笑うのを見て俺も微笑んで見せる。
食事の間、旅行や買い物の話だと楽しい時間を過ごした。
結婚して一年ほどして、会社が軌道に乗った頃に行われたパーティーで美咲と再会した。
いつも地味な沙織ばかり見ていた俺は、颯爽とドレスを着て歩く美咲を見て、自分の隣にいるべき人は彼女だそんなことを思ったのを覚えている。
しかし、先ほどの自分の行動に、少しだけ罪悪感も沸き上がる。そんな時、美咲がふと口を開いた。
「沙織さん、どうしてるかしら?」
美咲が発した一言で、自分の心の内が見透かされたような気がした。
「帰ってるだろう。あいつに行くところなんてないんだから。家族もいないし、頼れる友達もいない。仕事もしてないから」
大学を卒業してすぐに結婚し、専業主婦になった沙織は、俺がいないと何もできない。
「でも、芳也、なにも持たずに追い出したじゃない。中に入れないんじゃない?」
その言葉に、俺は窓の外に視線を向けた。冬の夜は一層冷え込んでいる。
「ねえ、だから今日は芳也の家に行ってもいいでしょ?」
「家はダメだ」
咄嗟にでたその言葉の意味は俺にもわからないが、沙織が帰ってきているはずだ。
「えー、じゃあ今日もホテル?」
再会したその日、俺は美咲と関係を持った。アルコールの勢いもあったが、こんな魅力的な女に誘われて断る男などいないだろう。
でも、離婚となると話は別だ。
確かに美咲は横にいて映える女性だが、沙織のように俺に尽くすタイプではない。
「ねぇ、叔母さまも早く離婚して欲しそうだったよ。今日のことで、もう決定的でしょ?」
貧しい家で育った俺にとって、父のいない家庭で育ち、母も美咲のことを昔から知っている。
美咲が俺に好意を持っている様子で会話をすると、母はすぐに「美咲のほうがふさわしい」と言い始めた。
「今日は帰ってくれ」
沙織は家の前で、俺のことを待ち焦がれているはずだ。その場に美咲を連れて帰るのは流石にできない。
「えー、どうして?」
そう言いながらも、美咲はタクシーの中でキスをせがんできた。
「仕事があるんだ」
軽くそのキスに応じると、俺は仄暗い自分の中にある黒い感情を感じつつ、家へと向かった。