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陸翔兄さまを待たせていることもあり、大きな夜景の見えるジャグジーはお預けにして、シャワーだけを浴びて浴室から出た。
先ほどホテルスタッフが持ってきてくれた服は、シンプルで着やすそうなワンピースだったが、とても良いものだとわかる。メイク用品はもちろん、化粧水をはじめとするアメニティもすべて揃っていて、私はそれを手に取った。
「疲れた顔してるな……」
鏡に映った自分を見て、ついそんな言葉が零れ落ちた。
髪も肌も手入れはそれほどできていない。その理由は私のものを買うと芳也がいい顔をしなかった。
会社が大きくなって、自分はかなりのお金を使うようになっても、私に使うのは惜しかったのだろう。
自分のお金を使えば、どこからそれが出てきているんだと詮索されそうで、与えられた生活費の中でやりくりをしてきた。
だから、美容院に行ったのもかなり前だ。
「なにしてたんだろ私……」
呟きつつ久しぶりにきちんとメイクをすると、それなりに見える気がした。髪はだいぶ傷んでいるから、乾かして一つでまた結んだ。
静かにリビングの扉を開けると、東京タワーと見事なインテリアが目の前に広がる。そんな当然のように座り、パソコンを操りながら電話をかけている陸翔兄さまの姿に目を奪われる。
戻った私に気づいたのか、彼は電話をしながら私を手招きした。
テーブルにはサラダをはじめ、前菜やメインなどの料理が並んでおり、とても美しくて目を奪われる。
「じゃあ頼んだ」
そう言って電話を切ると、彼が私の方へ歩いてきた。
「お腹空いただろう。沙織、少し痩せすぎだ。ちゃんと食べてたのか?」
その言葉に私は苦笑してしまう。ここ数か月、食事を作って待っていても芳也は帰ってこなかったり、食べなかったりしたので、私も食欲がなかった。確かに少し体重が減ったかもしれない。
「ありがとう。とてもおいしそう」
椅子を引いてもらって座ったとき、最近、誰かにこんな風に気を使ってもらったことがなかったことに気づいた。
「陸翔兄さまは? 夕食、食べていないでしょう?」
私に付き合ってもらうのは申し訳ないと思いつつ尋ねたが、すぐに家で奥様が食事を作っているかもしれないと思い、後ろめたい気持ちが湧いた。これでは美咲と同じことをしていることになる。
「あ、やっぱり一人で食べるから。早く帰ってあげて」
そう言いかけた私に、陸翔兄さまは静かに座り、私に視線を向けた。
「二人分あるのわかるだろ?」
そう言われてみれば、すべてが二つずつあり、初めから陸翔兄さまが一緒に食べるつもりだったことがわかる。
「そうだね」
ごめんなさい。ありがとう。
その言葉を心の中で呟いた。今日だけは許してほしい。いろいろなことがありすぎて、かなり心が弱っていて、一人になりたくなかった。
陸翔兄さまに頼ってしまったことも、こうして一緒に時間を過ごしていることも、すべて明日には忘れよう。
そう思いながら、美しい前菜のサーモンを口に運ぶと、とろりとした脂が舌の上で溶けていく。
「おいしい」
素直に感想が口をついて出て、思わず笑みがこぼれた。ずっと自分が作ったものばかり食べていて、もう随分外食にも行っていなかった。
「そうか」
そんな私を見て、陸翔兄さまもきれいな所作で料理を口に運んだ。
「沙織」
「ん?」
不意に名前を呼ばれ、私は食べる手を止めて前を向いた。
「離婚、するってことでいいんだよな?」
ストレートに聞かれ、私は少しだけ思案したあと口を開いた。
「うん、私にも悪いところがあったから、できる限り結婚生活を続ける努力をしてきたけど、手を上げられたし、不倫もされたし、もういいよね」
最後は陸翔兄さまに確認するような形になってしまい、答えを聞く前に私は言葉を続けた。
「それに、向こうが離婚して再婚したいんだと思う。彼の母親もそれを望んでる」
「バカな奴らだな」
苦虫を潰した、彼らしくない言葉遣いについ笑ってしまう。
「資産の管理も顧問弁護士にお願いしてるから、当面のお金にも困らないし、どこかで仕事も始めれると思うから心配しないで。まずは芹那に連絡をしなきゃいけないけど」
「芹那さんって、若井芹那? コードシステムの営業部長か?」
「そう。私の親友。それに私コードシステムに籍があるし」
「だから、沙織の夫の会社がコードシステムとの商談を得られたんだな。新規のスマホ事業の」
この短い時間に調べたのだろう。さすがの手腕に脱帽してしまう。
「私情を挟んでごめん。アプリケーションの開発の仕事を紹介した。でも、中身はきちんとコードシステムに利益が出るものだったと思う」
そのために、芳也に気づかれないように人員を送り込んだり、プレゼンの甘い部分は私が陰で修正してきた。
「それは沙織が動いていたからだろう。いなくなってその商談、維持できるのか?」
「え?」
まっすぐ見つめられ、陸翔兄さまがすべてお見通しだということがわかる。彼には昔から隠し事はできない。
「そうだね、そのうちほころびが出ると思う。さすがに私もここまでされたら、協力する気はない」
正直、働いている社員を守りたいという気持ちはあるが、彼にあんなことを言われた今、助ける気はもうない。そんなことを考えていると、陸翔兄さまが「あたりまえだ」と呟いたように聞こえた。