テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
(りいな視点)
朝が来た。 でも、昨日までの朝とは、何かが違っていた。
旅館の部屋。 障子の隙間から差し込む光は、やけに白くて冷たく感じた。 昨日の朝は、もっと柔らかかった気がする。 光が肌に触れるたび、心まで撫でられるようだったのに―― 今日は、まるで“起きなきゃいけない”と急かされているみたいだった。
布団の中で、しばらく目を閉じたまま、 昨日の夜のことを思い出していた。
すずの涙。 海の手のぬくもり。 はるきの沈黙。
そして、私の中にずっと言えなかったこと。
「転校することになった」 その言葉が、喉の奥で重くなっていた。
畳の匂いが、少しだけ遠くに感じる。 昨日までと同じ部屋なのに、 まるで誰かが空気を入れ替えたみたいだった。
窓の外では、鳥が鳴いている。 でも、その声も、やけに静かに聞こえる。 まるで、世界が息をひそめているみたいだった。
浴衣の袖を通す手が、少し震えていた。 鏡に映る自分の顔は、昨日よりも少しだけ大人びて見えた。 それが、少しだけ悲しかった。
「……今日、言わなきゃ」
小さくつぶやいた声が、部屋の中に吸い込まれていく。 誰にも届かない言葉。 でも、自分の中ではずっと響いていた。
廊下の向こうから、すずの声が聞こえる。
「りいなー、朝ごはん行こー!」
その声は、いつも通り明るい。 でも、私の心は、もう“いつも通り”には戻れなかった。
昨日までの旅は、楽しかった。 笑って、ふざけて、写真を撮って、花火をして。 でも、その全部が“最後”になるかもしれないと思うと、 笑った記憶さえ、少しだけ切なくなる。
足を踏み出すたびに、 この旅が“終わり”に向かっていることを実感する。
階段を降りると、朝の光が廊下に差し込んでいた。 木の床がきらきらと光っている。 その光が、やけに眩しくて、目を細めた。
食堂の前で、海の声が聞こえた。
「はるき、昨日の写真見せてよ」
はるきが「あとでな」と返す。 すずが「もう朝からそっけないなー」と笑う。
みんなは、まだ“昨日の続き”にいる。 でも、私は―― 今日で終わることを知っている。
食堂の扉を開ける。 湯気の立つ味噌汁の匂いが、鼻をくすぐる。 焼き魚の香ばしい香り。 白いごはんの湯気。
全部が、いつも通り。 でも、私の中では、何もかもが違っていた。
「……ねえ、みんな。ちょっと話したいことがあるの」
その言葉を言うまでの数秒が、 永遠みたいに長く感じた。
(りいな視点)
食堂の空気は、やけに静かだった。 湯気の立つ味噌汁の向こうで、みんなの顔がぼんやりと揺れて見えた。 海は箸を持ったまま、はるきは黙って焼き魚を見つめている。 すずは、白いごはんを少しずつ口に運んでいた。
私は、言うタイミングを探していた。 でも、どこにも“正しい瞬間”なんてなかった。
昨日の夜、花火をした庭。 笑い声と火薬の匂いが混ざって、 まるで“永遠に続く夏”みたいだった。 でも、私の中では、ずっと言えなかった言葉が渦巻いていた。
「……ねえ、みんな。ちょっと話したいことがあるの」
声を出した瞬間、空気が少しだけ揺れた気がした。 海が顔を上げる。 はるきが、箸を止める。 すずは、目を伏せたまま。
私は、喉の奥に詰まった言葉を、 ひとつずつほどくように、ゆっくりと話し始めた。
「私、転校することになったの」
その言葉が、空気を変えた。 湯気が止まったように感じた。 誰も、すぐには反応しなかった。
「え……?」
海の声が、震えていた。 その声に、私の胸が少しだけ痛んだ。
「ほんとに?」
はるきの声は、低かった。 感情を抑えているのが、わかった。
「いつ?」
すずの声は、静かだった。 でも、その静けさの奥に、何かが沈んでいる気がした。
「来月。親の仕事の都合で、東京に」
私は、笑おうとした。 でも、うまく笑えなかった。 唇が少しだけ震えて、 目の奥がじんわりと熱くなった。
「だから……この旅が、みんなと過ごす最後の時間になるかもしれない」
沈黙が、重くなった。 箸の音も、湯気の音も、全部が遠くなった。
「選ばないまま、離れることになるかもしれない」
その言葉が、私の胸を刺した。
誰かを選ばないことで守ってきた関係。 でも、もう守れないかもしれない。
海は、拳を握っていた。 はるきは、目を伏せていた。 すずは、何も言わなかった。
私は、みんなの顔を見た。 海の目は、私を見ていた。 はるきの目は、皿の上に落ちていた。 すずの目は、どこにも向いていなかった。
「ごめんね。もっと早く言うべきだったよね」
誰かが返事をするのを待った。 でも、誰もすぐには言葉を返さなかった。
「選びたくなかったんじゃない。 選んだら、誰かが傷つくのが怖かったの。 でも、転校するって決まった時、 それすらできなくなるって思ったら…… もっと怖くなった」
言葉が、ぽろぽろとこぼれていく。 自分でも、何を言っているのかわからなくなりそうだった。
「だから……この旅が終わったら、 私は、みんなの前からいなくなるのかもしれない」
その瞬間、すずが顔を上げた。 海が唇を噛んだ。 はるきが、目を閉じた。
その朝。 “選ばない”という美学が、崩れ始めた。
「転校することになったの」
その言葉が落ちた瞬間、 俺の中で、何かが止まった。
湯気の向こうにいるりいなが、遠くに見えた。 昨日の夜、手を握った。 あのぬくもりは、嘘じゃなかったはずなのに。
「え……?」
声が震えたのは、驚いたからじゃない。 怖かったからだ。 このまま、何も言えずに終わるのが。
(最後の旅って、そういう意味だったのかよ)
俺は、選ばれるつもりだった。 選ばれなくても、ちゃんと向き合うつもりだった。 でも、りいなは――選ばないまま、いなくなる。
それが、いちばんずるい。
昨日の夜、庭で花火をした。 りいなが笑って、俺の手を握った。 その瞬間、俺は思ったんだ。 (ああ、これでいい。選ばれなくても、触れてくれたなら)
でも今朝のりいなは、 その手を、もう離す準備をしていた。
「ごめんね」って言うりいなの声が、 やけに遠くて、やけに優しくて、 それがまた、悔しかった。
(俺は、もっと近くにいたかったのに)
選ばれたかったわけじゃない。 ただ、ちゃんと“届いて”ほしかった。 俺の気持ちが、りいなの中に、少しでも残っていてほしかった。
でも、転校って言われた瞬間、 その願いすら、どこかに消えていった気がした。
(俺の手は、もう届かない場所に行くんだ)
それが、ただただ、悔しかった。
「転校することになったの」
その言葉を聞いた瞬間、 俺は、箸を止めた。
「ほんとに?」
声が低くなったのは、感情を抑えたからだ。 驚きも、悲しみも、怒りも、全部が混ざっていた。
昨日の夜、すずが泣いた。 海が手を握った。 俺は、黙っていた。
でも、それは“選ばせる”ためだった。 りいなが、自分の気持ちに向き合って、 誰かを選ぶなら、それを受け止めようと思ってた。
選ばれなくてもよかった。 ただ、ちゃんと“向き合って”ほしかった。
でも、転校するなら―― それって、逃げてるだけじゃん。
(選ばないって、優しさじゃない。 誰も傷つけないって、誰にも触れないってことだ)
俺は、りいなに触れてほしかった。 選ばれなくても、ちゃんと“届いて”ほしかった。
昨日の夜、りいながすずの涙に気づいて、 海の手に触れて、 俺の沈黙に目を向けなかったのを、 ずっと見ていた。
(俺は、見られなかった)
それでも、今日の朝、 りいなが何かを言うってわかった時、 少しだけ期待してしまった。
でも、その言葉は―― 「転校することになった」
終わりを告げる言葉だった。
「だから……この旅が、みんなと過ごす最後の時間になるかもしれない」
その言葉が、胸に刺さった。 最後って、そんな簡単に言うなよ。
(俺は、まだ終わらせたくない)
でも、りいなはもう“終わらせる”準備をしていた。 それが、いちばん悔しかった。
「転校することになったの」
その言葉を聞いた瞬間、 私は、目を伏せた。
「いつ?」
声が静かだったのは、泣きたくなかったから。
昨日の夜、私は泣いた。 りいなのことが、好きだって気づいてしまったから。 でも、言えなかった。 “選ばれない”ってわかってたから。
でも、今朝のりいなは―― 誰も選ばないまま、いなくなるって言った。
「……ずるいよ、それ」
気づいたら、言葉が口からこぼれていた。
「選ばないまま、いなくなるなんて。 それって、誰も選ばないってことじゃなくて、 誰も傷つけたくないってだけじゃん」
私は、傷ついてもよかった。 選ばれなくてもよかった。 でも、“選ばせてもらえない”のは、 それよりずっと、悲しかった。
昨日の夜、りいなが私の涙に気づいた時、 少しだけ目を合わせてくれた。 でも、それだけだった。
海の手を握った時、 私は、もう“選ばれない”ってわかった。
でも、それでもよかった。 ちゃんと向き合ってくれるなら。
でも、転校するって言われた瞬間、 その向き合いすら、なかったことにされた気がした。
(だったら、もう選んでよ。 誰でもいいから、ちゃんと向き合ってよ)
心の中で叫んだ言葉は、 誰にも届かなかった。
りいなの「ごめんね」が、 やけに優しくて、やけに遠くて、 それがまた、泣きたくなるくらい悔しかった。
りいなが「転校することになった」と言ったあと、 食堂の空気は、しばらく動かなかった。
湯気の立つ味噌汁の匂いが、急に遠くなった。 焼き魚の香ばしさも、白いごはんの湯気も、 全部が“昨日までの朝”のものに思えた。
海は拳を握ったまま、 すずは目を伏せていた。 俺は、ただ黙っていた。
(そうか、いなくなるのか)
昨日の夜、俺は何も言わなかった。 すずが泣いて、海が手を握って、 りいなが揺れているのを見ていた。 でも、言葉にするのが怖かった。
(選ばれないかもしれないって思うと、 言うことが、ただの自己満足に思えて)
でも、今朝のりいなは―― 誰も選ばないまま、いなくなると言った。
それは、俺にとって、 “言わなかったこと”が永遠になるってことだった。
だから、言うしかなかった。
「……俺、最後に伝えたいことがある」
声が、少しだけ震えた。 りいなが、ゆっくり顔を上げる。 海が、はるきを見た。 すずが、息を止めた。
その瞬間、空気が張りつめた。 誰も、箸を動かさない。 湯気だけが、静かに立ち上っていた。
「この旅が終わったら、 りいなは東京に行く。 それなら、俺の言葉は、 ここでしか届かないかもしれない」
言葉を選びながら、 でも、もう選んでる場合じゃないと思った。
「昨日、何も言わなかったのは、 選ばれないのが怖かったからじゃない。 選ばれても、選ばれなくても、 りいなが“選ぶ”ってことが、 ちゃんと向き合ってくれるってことだと思ってたから」
りいなが、何も言わずに聞いている。 その沈黙が、俺の背中を押した。
「でも、転校するって聞いて、 その“向き合う時間”すらなくなるのかと思ったら、 言わずに終わるのが、いちばん怖くなった」
だから、言う。
「俺は、りいなが好きだよ」
その言葉が、空気を変えた。 湯気が、少しだけ揺れた気がした。 海が、少しだけ肩を動かした。 すずが、目を伏せたまま、指先を握りしめた。
「選ばれなくてもいい。 でも、りいなの中に、 俺の気持ちが少しでも残ってくれたら、 それだけで、俺はこの旅に意味があったって思える」
沈黙。 誰も、すぐには返事をしなかった。
でも、りいなの目が、 少しだけ潤んでいるのが見えた。
それだけで、俺は―― 言ってよかったと思った。
「……ありがとう」
りいなが、ぽつりとそう言った。
その声は、震えていた。 でも、ちゃんと届いた気がした。
(この旅が終わっても、 この言葉は、りいなの中に残る)
それだけで、俺は救われた気がした。
はるきが「好きだよ」と言った瞬間、 空気が止まった。
湯気が揺れて、 すずが目を伏せて、 海が少しだけ肩を動かした。
私は、何も言えなかった。 はるきの言葉は、静かで、まっすぐで、 胸の奥に届いた。
(こんなふうに、誰かに真っ直ぐに想われることが、 こんなに苦しいなんて)
「……ありがとう」
それだけは、すぐに言えた。 はるきの気持ちを、ちゃんと受け止めたかったから。
でも、そのあとが、言えなかった。 言葉が喉の奥で絡まって、 心の中で何度も繰り返していた言葉が、 口に出すと、急に重くなる。
(選ばないまま、離れるつもりだった。 誰も傷つけないように。 誰にも触れないように)
でも、はるきが言ってくれた。 「選ばれなくてもいい」って。 「気持ちが残ってくれたら、それだけでいい」って。
その言葉が、私の背中を押した。
だから、私は――選ぶことにした。
「……ごめん、はるき」
はるきが、ゆっくり顔を上げる。 その目は、何も責めていなかった。 ただ、静かに、私の言葉を待っていた。
「私、海のことが好き」
その言葉が、空気を震わせた。 すずが、息を止めた。 海が、目を見開いた。
「昨日の夜、海が手を握ってくれた時、 胸がぎゅってなった。 それまで、誰かを選ぶのが怖くて、 ずっと逃げてた。 でも、あの瞬間、 “選びたい”って思ったの」
言葉を紡ぎながら、 自分の心が少しずつほどけていくのを感じた。
「はるきの言葉、すごく嬉しかった。 ちゃんと届いた。 でも、私の心は―― 海に向かってたんだと思う」
はるきは、何も言わなかった。 でも、その沈黙が、優しかった。
「ごめんね。 でも、ちゃんと選びたかった。 誰かを傷つけることになっても、 自分の気持ちに嘘をつきたくなかった」
沈黙。 誰も、すぐには返事をしなかった。
でも、はるきが、少しだけ笑った。
「……そっか。 なら、ちゃんと選んでくれて、ありがとう」
その言葉が、涙よりも優しかった。
私は、はるきの目を見て、 深く頭を下げた。
そして、海の方を向いた。
海は、まだ何も言っていなかった。 でも、その目は、私を見ていた。 まっすぐに。 少しだけ、驚いたように。 でも、どこか嬉しそうに。
「海……昨日の夜、手を握ってくれた時、 私、すごく嬉しかった。 怖かったけど、 その怖さよりも、 “この人のそばにいたい”って思ったの」
海は、何も言わずに、 ゆっくりとうなずいた。
「転校するって決まって、 全部終わらせようとしてた。 誰も選ばないまま、 誰も傷つけないまま、 いなくなろうとしてた」
「でも、それって、 誰にも触れないってことだった。 誰にも届かないってことだった」
「だから、私は――選ぶことにした」
「海のことが、好き」
その言葉を言った瞬間、 胸の奥が、少しだけ軽くなった。
すずが、目を伏せたまま、 指先をぎゅっと握りしめていた。 その姿が、胸に刺さった。
(ごめん、すず。 でも、私はもう逃げない)
はるきは、静かに笑っていた。 その笑顔が、少しだけ切なかった。
海は、まだ何も言っていない。 でも、その目が、 私の言葉をちゃんと受け止めてくれているのがわかった。
私は、初めて“選んだ”。
それは、怖くて、痛くて、でも―― 少しだけ、誇らしかった。
朝の光が、旅館の縁側に差し込んでいた。 昨日の夜、りいなが海に気持ちを伝えたあと、 私はずっと、自分の中の何かが揺れているのを感じていた。
悔しさでも、悲しさでもない。 ただ、胸の奥にしまっていた“好き”が、 もうしまっておけないくらい、膨らんでいた。
縁側に出ると、はるきがいた。 一人で、庭をぼんやりと眺めていた。
「……はるき」
私の声に、はるきが振り向いた。 その目は、少し眠たげで、でも優しかった。
「すず。どうしたの?」
「ちょっと、話してもいい?」
はるきは、うなずいた。 私は、彼の隣に座った。 木の板がひんやりしていて、 昨日の夜の余韻が、まだ残っているようだった。
「昨日、りいなが海に気持ちを伝えた時、 私、なんか……すごく静かだった」
「泣きそうだったけど、泣かなかった。 たぶん、泣いてもよかったんだけど、 泣いたら、自分の気持ちがごまかされちゃいそうで」
はるきは、黙って聞いていた。 その沈黙が、私には心地よかった。
「私ね、ずっと“誰にも選ばれない”って思ってた。 りいなは海を見てて、海はりいなを見てて、 はるきは……誰も見てないようで、 でも、ちゃんと見てる人だった」
「その“ちゃんと見てる”の中に、 私が入ってるかどうか、ずっとわからなかった」
「でもね、昨日の夜、 はるきが“すずはすずのままでいい”って言ってくれた時、 なんか、すごく嬉しかったの」
「誰かに選ばれることより、 誰かに“そのままでいい”って言われることの方が、 ずっとずっと、救われるんだなって思った」
はるきは、少しだけ目を伏せた。 その横顔が、朝の光に照らされて、 なんだか切なくて、綺麗だった。
「だから、ちゃんと伝えたいと思ったの。 私、はるきのこと、好きだったよ」
その言葉を言った瞬間、 心の中にあった何かが、すっとほどけた気がした。
「でも、りいなが好きなはるきを、 無理に振り向かせようとは思わなかった。 ただ、私の中にあった“好き”を、 ちゃんと外に出したかっただけ」
「選ばれなくてもいい。 でも、私の気持ちが、誰かに届いたって思えたら、 それだけで、少しだけ前に進める気がするから」
はるきは、ゆっくりと私の方を向いた。 その目は、驚いていたけど、 どこか優しくて、あたたかかった。
「……すず。ありがとう」
「ううん。こっちこそ、ありがとう。 はるきがいてくれて、 私、ちゃんと自分でいられた」
「それだけで、十分だった」
沈黙が、縁側に降りてきた。 風が、庭の木々を揺らしていた。
私は、はるきの隣で、 少しだけ目を閉じた。
(これでよかったんだと思う)
誰にも選ばれなかったけど、 誰かに届いた気持ちが、 私の中に、ちゃんと残っていた。
そしてそれは、 “好き”の終わりじゃなくて、 “私”の始まりだった。
朝の旅館は静かだった。 みんなが朝食を終えて、少しずつ荷物をまとめ始めていた。 私は、すずの姿が見えなくて、 なんとなく、縁側の方へ向かった。
廊下の角を曲がったとき、 すずの声が聞こえた。
「私、はるきのこと、好きだったよ」
足が止まった。 反射的に、壁の影に身を隠してしまった。
聞くつもりなんて、なかった。 でも、すずの声が、 あまりにも真っ直ぐで、 あまりにも切なくて、 その場を離れられなかった。
「選ばれなくてもいい。 でも、私の気持ちが、誰かに届いたって思えたら、 それだけで、少しだけ前に進める気がするから」
私は、息をひそめた。 心臓が、痛いくらいに鳴っていた。
(すず……)
すずの“好き”は、 私が海に向けた気持ちと、 どこか似ていた。
誰かに届いてほしい。 でも、届かなくてもいい。 ただ、自分の中にある“好き”を、 ちゃんと外に出したい。
その気持ちが、 痛いほどわかってしまった。
私は、そっとその場を離れた。 誰にも気づかれないように、 静かに、静かに。
廊下を歩きながら、 胸の奥が、じんわりと熱くなっていた。
(すずは、私に言わなかった)
(でも、それはきっと―― 私が“海を選んだ”から)
私は、縁側の光を背にして、 旅館の廊下を歩いた。
その足取りは、少しだけ重くて、 でも、どこか前を向いていた。
(すずの“好き”を知ってしまった私は、 これから、どうすればいいんだろう)
夕方の空は、少しだけ赤く染まっていた。 旅館の中庭には、誰もいなかった。 私は、すずを探していた。
すずは、池のほとりに座っていた。 水面に映る空を、じっと見つめていた。
「……すず」
私の声に、すずが振り向いた。 その顔は、少し驚いていて、 でも、すぐに笑った。
「りいな。どうしたの?」
私は、すずの隣に座った。 風が、髪を揺らした。
「さっき……縁側で話してたの、聞いちゃった」
すずの笑顔が、すっと消えた。 でも、怒ってはいなかった。 ただ、少しだけ目を伏せた。
「そっか。聞いちゃったんだ」
「ごめん。聞くつもりなかったの。 でも、すずの声が、あまりにも……」
「ううん。いいよ。 聞かれても、後悔してないから」
その言葉が、少しだけ胸に刺さった。 すずは、ちゃんと覚悟してたんだ。
「私ね、すずが“誰にも選ばれない”って思ってたこと、 気づいてたのかもしれない。 でも、見ないふりしてた」
「海のこと、好きになって、 すずのこと、ちょっと遠くに感じてた」
「でも、すずがはるきに気持ちを伝えたのを聞いて、 なんか、すごく……苦しくなった」
すずは、静かに私を見ていた。 その目は、優しくて、でもどこか寂しげだった。
「りいなは、海のこと好きなんでしょ?」
「うん。好き。 でも、すずの“好き”を聞いて、 自分の“好き”が、ちょっとだけ怖くなった」
「誰かを選ぶってことは、 誰かを置いていくことなんだって、 改めて思ったから」
「でも、すずの気持ちを知って、 私はすずを置いていきたくないって思った」
「だから、ちゃんと向き合いたい。 すずの“好き”も、私の“好き”も、 どっちも大事にしたい」
すずは、少しだけ笑った。 その笑顔は、泣きそうで、でも強かった。
「ありがとう、りいな。 私も、りいなの“好き”を否定したくなかった。 だから、言わなかったんだと思う」
「でも、聞かれてよかったかも。 なんか、ちゃんと“私”になれた気がする」
風が、二人の間を通り抜けた。 夕焼けが、池の水面に揺れていた。
「ねえ、りいな。 私たち、選ばなくてもいいよね」
「うん。選ばなくても、 ちゃんと“好き”を持っていれば、 それだけで、前に進める気がする」
二人は、並んで座ったまま、 空が夜に染まっていくのを見ていた。
その沈黙は、 言葉よりも深くて、 友情よりも優しくて、 恋よりも静かだった。
夜の屋上は、風が少し冷たかった。 旅館の階段を上がって、扉を開けると、 りいなが一人で星を見ていた。
その背中は、どこか寂しげで、 でも、誰にも見せない強さがあった。
「……りいな」
私の声に、りいなが振り向いた。 驚いた顔をして、でもすぐに笑った。
「海。どうしたの?」
「ちょっと、話したくて」
りいなは、うなずいた。 私は、彼女の隣に立った。
「今日、すずと話した?」
「うん。ちゃんと向き合えた。 すずの気持ち、聞いちゃったから」
「そっか。すず、強いよな」
「うん。すごく、強い」
風が、二人の間を通り抜けた。 星が、静かに瞬いていた。
「りいな。俺、ずっと言えなかったことがある」
りいなが、私を見た。 その目は、まっすぐだった。
「俺、りいなのこと、好きだった」
その言葉は、夜空に溶けるように、静かに響いた。
「最初は、ただ面白い子だなって思ってた。 でも、りいなが誰かを選ばないでいる姿を見て、 その“選ばなさ”が、すごく綺麗だと思った」
「でも、同時に、すごく怖かった。 俺がどれだけ好きでも、 りいなは誰も選ばないかもしれないって」
「それでも、言いたかった。 選ばれなくてもいい。 でも、俺の“好き”を、ちゃんと伝えたかった」
りいなは、何も言わなかった。 ただ、静かに私の言葉を受け止めていた。
「すずの気持ちも知ってる。 だから、余計に迷った。 でも、すずが“選ばれなくてもいい”って言った時、 俺も、ちゃんと“選びたい”って思った」
屋上の風は、少しだけ冷たかった。 でも、海の隣にいると、その冷たさが心地よく感じた。
「俺は、りいなを選ぶ」
その言葉が、夜空に溶けていく。 私は、胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じていた。
「海……」
私は、ゆっくりと彼の方を向いた。 その目は、まっすぐで、少しだけ不安そうだった。
「私ね、ずっと“選ばない”って決めてたの。 誰かを選ぶと、誰かを傷つける気がして。 それが怖くて、ずっと逃げてた」
「でも、すずの気持ちを聞いて、 海の言葉を聞いて、 なんか、少しだけ“選ばれてもいいかも”って思えた」
「それは、海が私の“選ばなさ”をちゃんと見てくれて、 それでも“選ぶ”って言ってくれたから」
海は、少しだけ目を見開いた。 そして、ゆっくりと笑った。
「……じゃあ、選ばれてもいい?」
その言葉に、私は笑ってしまった。 なんか、海らしくて、ずるい。
「うん。選ぶ。私、海のこと好き」
その瞬間、海が少しだけ固まった。 そして、耳まで真っ赤になって、 「……マジで?」って小さくつぶやいた。
「マジだよ。聞き返すなバカ」
私は、海の腕を軽く叩いた。 でも、その手は、すぐに海の手に包まれた。
「じゃあ、もう逃がさないからな」
「え、こわ。重い男じゃん」
「うるせ。お前が好きって言ったんだろ」
「うん。言った。だから、ちゃんと甘えさせてよ」
私は、海の肩にもたれた。 その肩は、思ったよりもあったかくて、 なんか、泣きそうになった。
「ねえ、海。 私、選ばれるのって、こんなにあったかいんだね」
「俺も、選ばれるのって、こんなに嬉しいんだなって思った」
「じゃあさ、これからも選び合おうよ。 選ばないことも、選ぶことも、 一緒に揺れて、一緒に決めていこう」
海は、私の頭をぽんぽんと撫でた。 その手が、優しくて、 でもちょっと照れてて、 なんか、すごく好きだった。
「りいな、かわいすぎ。 俺、今めっちゃ幸せなんだけど」
「うるさい。調子乗るな。 でも、私も、めっちゃ幸せ」
二人は、屋上で並んで座ったまま、 星を見上げていた。
その夜空は、何も言わずに、 ただ静かに、二人の“選び合う”気持ちを包み込んでいた。
旅館の裏庭。 昨日と同じ場所なのに、空気が少し違っていた。 星が、昨日よりも近くに感じる。 風が、昨日よりも優しく吹いている。
すずが、手持ち花火の袋を持って現れた。 「最後の夜だし、もう一回やろうよ」 その声は、昨日よりも少しだけ明るくて、 でも、どこか切なさを含んでいた。
はるきは、火をつける係。 ライターを持って、黙々と準備している。 その背中は、相変わらず静かで、でもすずの動きをちゃんと見ていた。
海は、りいなの隣に座っていた。 手をつないでいるのに、どこかぎこちなくて、 でもその不器用さが、りいなには心地よかった。
「昨日より、星が綺麗だね」と、すずが言った。
「うん。なんか、空が広く感じる」と、りいなが答えた。
「それは、たぶん――心が少し軽くなったからだよ」と、はるきが言った。
「お前、急に詩人かよ」と、海が笑った。
その笑い声に、4人がつられて笑った。 その笑いは、昨日までの“揺れ”を少しずつ溶かしていく。
すずは、線香花火を手に持って、 そっと火をつけた。 火花が静かに落ちていくのを見ながら、 ぽつりとつぶやいた。
「ねえ、みんな。 この旅、いろいろあったけど―― 私は、来てよかったって思ってる」
「私も」と、りいなが言った。 「選ばないことを選び続けてたけど、 この旅で、少しだけ“選ぶ勇気”をもらえた気がする」
海は、りいなの手を握り直して、 「俺は、選ばれて幸せだった」と言った。
はるきは、すずの方を見て、 「俺は、選ばれなくても、すずの言葉に救われた」と言った。
すずは、少しだけ目を伏せて、 でもすぐに笑った。
「じゃあ、みんなそれぞれ、ちゃんと“揺れた”ってことだね」
「うん。揺れたからこそ、今ここにいるんだと思う」
線香花火が、静かに落ちた。 その火花が、地面に消えていく瞬間、 4人は、同じ空を見上げた。
沈黙が、4人の間に流れた。 でもそれは、気まずさじゃなくて、 言葉よりも深い“共有”だった。
「ねえ、最後にさ。 みんなで写真撮ろうよ」と、りいなが言った。
「え、俺顔テカってる」と、海が言った。
「それがいいんだよ。旅のリアルってやつ」と、すずが笑った。
はるきがスマホを取り出して、 4人で肩を寄せ合って、 シャッターを切った。
その写真には、 選ばないことを恐れたすず、 選ぶことに踏み出したりいな、 選ばれることを願った海、 そして、見守ることで救いを与えたはるき――
全部が、ちゃんと写っていた。
そのあと、4人は並んで座った。 庭の縁に腰をかけて、星を見ながら、 それぞれの“今”を静かに感じていた。
海が、りいなの耳元でこっそり言った。 「なあ、俺、今めっちゃ幸せなんだけど」
りいなは、笑いながら小声で返した。 「うるさい。私も、めっちゃ幸せ」
すずは、はるきの隣で、 少しだけ肩を寄せた。 はるきは驚いた顔をしたけど、 何も言わずに、すずの手にそっと触れた。
その手は、選ばれなかったことを責めるでもなく、 ただ、“今ここにいる”ことを肯定するような、 そんな優しい手だった。
夜空には、星が降るように瞬いていた。 その光は、誰かを選ぶでもなく、 誰かを置いていくでもなく、 ただ、4人の“今”を照らしていた。
そしてその夜は、 誰かのものになることもなく、 誰かの記憶にだけ残ることもなく、 4人の“揺れ”と“選び”が交差した、 かけがえのない夜になった。