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第一話 レッドレイン
若井滉斗は磨き上げた革靴でアスファルトを踏んだ。
額からの汗が頬を伝う前に右手のハンカチで雫を抑える。
夜中だとというのに蒸し暑い。
空はうっすらと朝焼けを迎えている。
若井は右手につけた腕時計にチラリと目線を飛ばした。
時刻は4時18分を示している。
約束の時間まで、あと12分。
こんな朝早くからなんの用事かと言われても仕方ない。
これも仕事の一つだと言い聞かせる。
若井は住宅街をしばらく歩くと茶色のマンションが見えてくる。
ここに来るのは今年で3回目。
流石に辺りの路地にも見慣れて来る頃だ。
若井はマンションの正面にたどり着くとエントランスを抜けた。
エレベーターに乗り込むと5階のボタンを押す。
上昇するエレベーターの中で若井はお土産を再度確認した。
個包装の羊羹が何種類か入った詰め合わせのものだ。
これなら彼も食べられるだろう。
若井は5階で降りると右に曲がった。
2、3個部屋を飛ばすとチャイムを鳴らす。
しばらく待ったが返事が来ない。
しかし若井にとっては予想通りだった。
念の為に再度チャイムを鳴らす。
やはり応答がないのでドアノブを下ろして扉を開けた。
「お邪魔します」
若井は玄関から呼びかける。
返事はない。
それにしても玄関の時点で既にひんやりと涼しい。
どれだけ強く冷房をつけているんだろう。
若井は玄関の鍵をかけると靴を脱いで綺麗に揃える。
そして鞄から持参したスリッパを取り出して履いた。
「涼くん、入るよ」
一言断りを入れてからリビングの扉を開くと部屋は北極のように冷え込んでいる。
「あぁ…」
若井はしばらく爽快感に酔いしれた。
しかし数秒でそれを摂取し尽くすと身を引き締める。
「涼くん」
リビングの扉から声をかける。
当の本人は机に鼻をくっつけてブツブツ何やら唱えている。
仕方ない。
若井はまず部屋を見渡した。
足の踏み場がないほどに散らかっている。
そもそも、どうやって彼の元に行けばいいんだろう。
若井はつま先立ちになるとまだマシに思える所へ足を伸ばす。
相当の汚部屋、転んだら悲惨だ。
何とかゴミの床を歩き切ると藤澤の肩を叩いた。
「あ、ん?」
机に突っ伏していた藤澤が顔を上げると振り返る。
「あ、若井くんか。やっほー 」
そう言うとすぐに机の上に視線を戻した。
「これ…この前のお礼、ありがとね」
若井が話を続けると再び藤澤が視線をこちらに飛ばす。
「ん、お礼?」
若井は羊羹の手提げを藤澤に渡す。
藤澤は受け取るとさっさと取り出して包みを破いた。
「おー!羊羹だー!!」
箱を開けて、ひとつ取り出すとぽいっと若井に投げた。
「あ、ありがとう」
若井は反射でそれを受け取る。
藤澤はとくに返事はせずに開けた羊羹を口にくわえた。
「ぅうん、やっぱこれだー 」
藤澤が大きく頷く。
「良かった…羊羹ははずれなしだね」
「うん、片手で食べられる糖分。最高 」
若井はそういう捉え方なのかと藤澤を見つめた。
「ご飯ちゃんと食べてる?」
「うん」
藤澤が2つ目の羊羹を開けた。
「いつ食べた?」
「若井くんと別れた後」
若井は眉間に皺を寄せると言葉を反芻した。
「俺と別れたあと…え、ほんとに?」
「うん」
藤澤が資料を見つめながら返事をした。
若井は信じられない気持ちで言葉を紡いだ。
「涼くんそれ2日前だよ」
「あ、そうなんだ」
若井は部屋を見渡した。
この部屋で料理は作れない。
「涼くん」
若井は藤澤の腕を掴む。
「ご飯奢るから今から行くよ」
「えぇー!?今、なんで?」
藤澤が首を振ると机を掴んで拒否の姿勢を示した。
「なんでじゃない、ちゃんと食べろって言ったよ」
「ちょっと、まって…あとちょっと」
藤澤の視線が机の上の資料に戻ろうとする。
若井は藤澤の頬を手のひらで挟むとこちらに向かせた。
「う、」
藤澤の口がおちょぼ口になる。
若井は言い放った。
「着替えろ、今すぐ」
ーーーーーーーー
ーーーー
「あ、あづい…」
着替えを終えた藤澤は外に出ると暑さにぐったりとした。
玄関の鍵を閉めながら文句を言う。
「なんでこんな暑いのにわざわざ外に出て」
「涼くん部屋、片付けた方がいいよ」
若井の正論に藤澤はパタパタと服を揺らした。
「なんで?」
「そしたら俺がご飯作れるでしょ」
「あぁ、」
藤澤が納得したように頷く。
若井は自分が居なかったら藤澤は生きていけるのか本気で不安になった。
マンションの外に出ると徒歩6分程歩く。
そこに24時営業している定食チェーン屋がある。
席に着くと藤澤はカツ丼を頼んだ。
2日ぶりの食事でそんなに重いものを頼んで胃は荒れないのかと思う。
しばらく談笑しているとカツ丼と、若井が頼んだ唐揚げの定食が机に並んだ。
「頂きます」
藤澤が両手を揃えると箸を取りガツガツとカツ丼を食べる。
対する若井も仕事柄、丸呑みが癖づいている。
2人の皿はみるみるうちに無くなっていった。
若井の唐揚げがあと数口という所でスマホの着信音が鳴った。
内側の胸のポケットに入ったスマホを取り出すと通話ボタンを押す。
「はい、若井」
口の中のものはそのままで返事をする。
『こちら本庁、東京都練桐区の児童養護施設で火災が発生
現在消防が対応中、爆発物が使用された可能性がある』
「了解、被害状況は?」
『確認中、現場にむかえ』
「到着後、本部に連絡は?」
『一報入れろ』
「すぐ向かいます」
若井が返事をすると通話が切れた。
残念だが唐揚げは残そう。
若井が立ち上がると胸ポケットにスマホをしまった。
藤澤が口をもぐもぐさせながら若井を見上げる。
「ごめん、呼び出し」
そう言うと藤澤が慌てて口の中のものを飲み込んだ。
若井と同じように立ち上がる。
「ん、どうした?」
若井は鞄を手にしたまま藤澤の行動を凝視した。
すると藤澤はキラキラとした瞳で若井を見つめ返す。
「爆発事件?」
「…聞こえてた?」
藤澤はこくりと頷くと自分を指さして言った。
「現場行っていい?」
ーーーーーーーー
ーーーー
若井は車で現場に向かっていた。
助手席には藤澤が乗っている。
妙な気持ちだ。
現場につくと交通整備の警官が走ってやってきた。
窓を開けると警察手帳を見せる。
それを確認すると相手は敬礼をした。
「お疲れ様です」
若井も同じように敬礼を返す。
彼の指示に従って車を停車させるとハンドブレーキを引く。
「ついたよ」
到着を伝えると、既にシートベルトを外した藤澤は転がるように降りていった。
「涼くん!まって!!」
若井が慌ててシートベルトを外すと、運転席から降りる。
すると、若井の姿を見つけた相棒の高坂がこちらにやってくるのが見えた。
さて、なんて言い訳をしよう。
藤澤は捜査協力者とはいえ、現場まで連れてくれば余計な立ち入りだと思われてもおかしくない。
「お疲れ様」
すっきりとした印象で高坂が挨拶をした。
「そちらは新しいペア?」
刑事は相棒のことを”ペア”や”ペアっ子”と呼ぶこともある。
つまり嫌味だ。
「いや、えっと」
若井が頭を搔くと、藤澤が高坂に挨拶をした。
「あ、初めまして。臨床心理士の藤澤です」
若井は飛び上がった。
前回の事件で藤澤は高坂に会っている。
初めましてではないのだ。
しかし、高坂は訂正せずに口角を上げると右手を差し出した。
「あぁ、初めまして。先週お会いした方に似てますけど」
「涼くん、俺の相棒の高坂
前、会ったことあるでしょ」
若井が耳元で指摘すると藤澤は言葉を言い直した。
「あ、高坂さん。お久しぶりです」
しかし高坂は若井に踏みよると腕を掴んだ。
強い力で掴まれると藤澤から引き剥がされる。
「い、いて」
さらに1、2歩進んで高坂が藤澤から距離を取ると囁くように言った。
「なに市民連れてきてんの」
「市民って…捜査協力者」
「市民みたいなもんでしょ!!」
高坂が囁いたまま、ほぼ叫んだ。
思ったより声が出た高坂は藤澤に聞こえていないか、ちらりと横目で確認した。
「ねぇ」
高坂は若井の肩を掴むとさらに声を潜めた。
「爆発の規模知ってる?」
若井は弾かれるように高坂を見ると首を振って返事をする。
「まだ…そんなに?」
高坂はゆっくりと頷いた。
「思ってたより大規模
他の班も黙ってないはず」
若井は辺りを見渡した。
まだ他の班が投入されている様子はない。
「久世達も来る?」
若井は現場の様子を見ながら高坂に聞いた。
久世は若井達にとっては天敵だ。
何しろ彼とは捜査の方針が合わない。
2人にとって久世は実直すぎた。
何をするにも文句をつけてくる印象だ。
若井は一課に来て、まだ2年も経っていない
故にこの畑の歩き方が分からない
相棒の高坂は6年経つが直感に頼りすぎる所があり、よく叱られる。
対して久世は15年はこの畑にいる。
組織の形や捜査の流れを彼は熟知している。
刑事としても優秀だ。
しかしだからこそ、2人とも久世に苦手意識を持っていた。
高坂は若井が現場を観察しているので敢えてなんでもない所を見て話した。
「まだ分からない。
でもこの規模で私たちだけって事はないでしょ」
高坂は若井の首を腕を回した。
「いい?今回の山、私たちがもらうよ」
「気が早いな」
若井が笑って流すと、彼女の目が狐のように鋭くなった。
若井は慌てて笑顔を取り消した。
「若井、あんたいつまで広告塔やってるつもり?
さっさと刑事になりな」
高坂はそう言うと若井の肩をドシッと叩いた。
「いって…」
若井は叩かれた事より図星を突かれたことに痛みを感じた。
広告塔。
若井は交番勤務の時から他と待遇が異なった。
イケメンすぎる警察官
そう囃し立てられ、ポスターの被写体や啓発ムービーの撮影に駆り出された。
しかし若井はそれに対して反発心を抱いていた。
刑事に必要なのは顔じゃない。
その悔しさから実績を積み上げて来たが、同じ実績のはずの同期よりも明らかに出世が早かった。
早熟のまま捜査一課に置かれたせいか
配属から1年以上経つにも関わず大した成果を上げれていない。
確かにもっと貪欲になるべきだ。
若井は振り返ると高坂の背を追いかけた。
コメント
3件

ぴりさん、新しいお話ありがとうございます! 今回のお話も最高です!! これから登場する大森さんが楽しみです
第1話、一気に引き込まれました!若井さんと藤澤さんの絶妙な距離感がいいですね。仕事柄なのか、涼くんの生活を心配しつつもどこかプロフェッショナルな若井さん。対してマイペースすぎる藤澤さん…この凸凹コンビの掛け合いが楽しいです。爆発事件に現場へ行こうとする藤澤さんの“キラキラした瞳”に思わず笑いました。そして若井さんの“広告塔”コンプレックス、今後の刑事としての成長も気になります。続きが待ち遠しいです🌷