「おや⋯⋯
もう、こんな時間でしたか 」
ふと時也が
壁掛けの時計に目を向けた。
振り子が静かに揺れる時計の針は
既に深夜を大きく回っていた。
「今日は⋯⋯お疲れでしょう?」
時也は優しく微笑んだ。
「それに
暗い話ばかりしまして
すみませんでした⋯⋯」
その笑みの奥に
ほんの僅かに
寂しさが滲んでいるように見えた。
「どうか、ゆっくり休んでください」
穏やかで
心に響く優しい声だった。
「此処は、 貴女さえ良ければですが⋯⋯」
時也は静かに
けれど確かな意思を込めるように
言葉を続けた。
「貴女の居場所になれる所⋯ なのですから」
「⋯⋯時也さん⋯⋯」
思わずその名前を呟いた時
レイチェルの胸がふっと温かくなった。
ー居場所ー
それは
ずっとレイチェルが
求めていたものだった。
自分が何者かも分からず
誰かと深く関わればその人に似た姿になり
時には意図せず
すれ違っただけの人の姿にまで
変わってしまう。
誰とも深く関われず
気が付けば
「私は、どんな顔だっただろう?」
と鏡を見ても
元の自分の姿が思い出せない。
そんな人間に
居場所なんてあるはずがない。
そう⋯思い込んでいた。
でも
「⋯⋯ありがとう⋯ございます⋯っ」
レイチェルの声は
自然と滲む涙に掻き消されそうだった。
「何かあれば⋯⋯」
時也は懐から
銀色に鈍く光るものを取り出し
レイチェルに差し出した。
桜吹雪があしらわれた
見事な銀細工の鈴だった。
「この鈴を鳴らしてください。
それか……」
時也は部屋の扉に目を向けた。
「右に出て2つ目の部屋に、僕は居ます」
「右に、2つ目⋯ですね」
「⋯⋯ですが」
時也は言葉を区切り
僅かに苦笑を浮かべた。
「左の3つ目の部屋は
ソーレンさんが居ますので⋯⋯
女性が近付くのは
お勧めいたしません」
「⋯⋯え?」
レイチェルは驚いて時也を見た。
「貴女に危害が及ぶとか
そういう意味ではありませんが⋯⋯
彼は気まぐれで
無神経なところがありまして⋯⋯」
時也は少し視線を逸らし
溜め息を吐く。
「⋯⋯要するに、無礼な男です」
「⋯⋯ははは」
時也は少し笑みを深めた。
「まぁ
何かあれば⋯すぐに僕が参ります。
どうか安心して
お休みください」
その言葉とともに
時也は軽く会釈をし
部屋を後にした。
扉が静かに閉まる音が
しんとした室内に響く。
レイチェルは
しばらくその扉を見つめていた。
彼の言葉が
今でも耳に残っている。
『此処は、貴女さえ良ければですが
居場所になれる所⋯なのですから』
鈴を握る手に
時也の体温の余韻が残っていた。
「⋯⋯此処が」
レイチェルは小さく呟き
目を伏せる。
「⋯⋯私の⋯居場所⋯⋯」
その言葉を反芻した時
胸の奥にずっと絡みついていた黒い塊が
部屋の静けさに
解けていく気がした。
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