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翌朝レイチェルは
静かに目を覚ました。
目を開けると
木目が美しい天井が視界に入る。
(⋯⋯此処⋯どこだっけ?)
寝惚けた頭の中で
ぼんやりとした思考が漂う。
何処か心地好い温かさが
体に残っていて
ベッドの中は
まるで守られているような
安心感があった。
ー喫茶 桜ー
その言葉が
ゆっくりと記憶の奥から
浮かび上がった。
レイチェルはハッと目を覚まし
勢い良く身体を起こした。
「⋯⋯ゆ、夢じゃ⋯⋯なかったぁぁぁ!」
思わず声に出してしまい
はっと口元を押さえる。
昨日の出来事は
全部本当にあった事だったんだ。
目の前の世界が
昨日の混乱と激しさの余韻を残したまま
静かに朝の陽射しを浴びていた。
(⋯⋯良かった)
胸の奥から
ふっと安堵が広がる。
私の新しい居場所。
ちゃんと⋯存在してた。
壁掛け時計に目をやると
短針は8の文字を指していた。
(⋯⋯もう8時か⋯
みんな、きっと起きてるよね?)
レイチェルはベッドから抜け出し
寝乱れた服を整えてから
部屋を後にした。
廊下は静かで
木の床が靴下越しに心地好い。
階段を降りると
広々とした洋風のリビングが
広がっていた。
白を基調とした空間には
クラシックな調度品が整然と並べられ
柔らかな陽光が窓から差し込んでいる。
その中で真っ先に目に入ったのは
テーブルで静かに新聞に目を通す時也と
その隣で静かにカップを口に運ぶ
アリアの姿だった。
時也は眼鏡を掛け
落ち着いた様子で
記事に目を走らせている。
アリアは無表情のまま
指先でカップを持ち上げ
その唇に触れさせていた。
「⋯⋯おはようございます⋯っ」
レイチェルは
少し緊張しながら声を掛けた。
「おはようございます。
レイチェルさん
しっかり休めましたか?」
「はい!
久しぶりに、ぐっすりと!」
時也は新聞から顔を上げ
柔らかな笑みを浮かべた。
アリアもまた
深紅の瞳を静かに向けてくる。
無表情ながら
その目は何処か穏やかに見え
警戒の色は感じられなかった。
「今、お食事をお持ちしますね。
どうか、掛けてお待ちください」
時也はそう言うと
椅子を引き
キッチンへと向かった。
「は、はい……っ」
レイチェルは
促されるまま椅子に腰を下ろした。
リビングには
心地好いコーヒーの香りが漂い
静かな時間が流れていた。
アリアとの二人きりの時間が
少しだけ気まずい⋯
と言うより
ソワソワと緊張してしまい
レイチェルはリビングの様子を
目だけで見渡す。
暫くして
時也がトレイに朝食を乗せて
戻ってきた。
トーストにベーコンと目玉焼き
コンソメスープ、サラダ
フルーツが彩り良く並んでいる。
「さてと⋯⋯」
時也はトレイをテーブルに置くと
ふっと息をついた。
「僕はそろそろ
営業の支度をしないといけませんね」
そう言いながら
時也は懐からタスキ紐を取り出した。
器用にその端を咥えると
肩の後ろへ手を回し
着物の袖をたくし上げて結び始めた。
無駄の無い、慣れた動作。
タスキを結び終えた時也の姿は
さっきまでとは違い
何処か凛とした空気を纏っていた。
その様子に
レイチェルは無意識に見入っていた。
「⋯⋯何か?」
見られている事に気付いた時也が
少し照れくさそうに微笑む。
「あ⋯⋯すみません、つい⋯っ」
「あはは!
いいんですよ。
自分では慣れた動きでも
他人の目には
新鮮に映るものですからね」
そう言って
時也はテーブルの上に
何かを置いた。
喫茶店の制服だった。
「お食事が済みましたら
こちらに着替えてください。
先ずは、お店の雰囲気に
慣れていただこうと思っています」
「⋯⋯私も、此処で⋯
働いて良いんですか?」
「もちろんですよ。
今日は良かったら
奥のテーブルで動きを見ていてください」
「⋯⋯はいっ!」
「では、後程
店内でお待ちしていますね」
そう言って
時也は静かにアリアを促し
二人で喫茶店の方へと向かった。
扉が閉まり
レイチェルは
残された朝食に目を向ける。
スプーンを手に取り
コンソメスープをひと口。
「⋯⋯あ」
口に広がる、優しい味わい。
温かく、ほんのりと
野菜の甘みが溶け込んでいて
まるで時也の優しさそのものが
詰め込まれているようだった。
思わず、目を閉じる。
「⋯⋯本当に、来て良かった⋯」
レイチェルは
心の底からそう思った。
食事と着替えを済ませ
レイチェルは
居住スペースから
喫茶店へ繋がる扉を
静かに押した。
店内に足を踏み入れた瞬間
ふわりと漂う甘く香ばしい香りが
鼻腔を擽る。
焼きたてのスコーンだろうか?
それとも
仕込み中のパイや
クッキーの香りかもしれない。
その合間に混じる
しっかりとしたコーヒーの香りが
彼女の心を落ち着かせた。
(⋯⋯いい匂い)
レイチェルは
自然と深く息を吸い込み
柔らかく息を吐き出した。
視線を落とすと
袖を通したばかりの
真新しい制服が目に入る。
白のワイシャツと、黒のスカート。
シンプルなデザインながら
どちらにもさり気なく
桜の刺繍が施されていた。
その可愛らしい花弁は
動く度にふわりと揺れ
見る度にほっとする温かさがあった。
ブラウンのサロンエプロンにも
同じように
桜の刺繍が散りばめられている。
「⋯⋯素敵な制服」
レイチェルは思わず微笑んだ。
その時
ふと視線を感じて顔を上げる。
硝子張りの席に座るアリアの目と
不意に視線がぶつかった。
燃えるような深紅の瞳。
その目が
じっと此方を見つめている。
レイチェルの胸が
無意識にざわつく。
(⋯⋯怒ってない、かな⋯?)
だが、その心配は杞憂だった。
気の所為かもしれない。
けれど⋯⋯
本当に微かに
アリアの口元が微笑んだ気がした。
「嬢ちゃん」
突然の声に
レイチェルは肩を跳ねさせた。
「制服、すげぇ似合うじゃねぇか」
カウンターの奥から
ソーレンがシルバーを磨きながら
手招きをしているのが見えた。
「えっと⋯⋯ありがとうございます」
少し戸惑いながら
レイチェルはソーレンの傍に歩み寄る。
「⋯⋯なぁ?
時也には、気をつけろよ?」
「え?」
ソーレンは
声を潜めるように言いながら
わざとらしく
時也の耳に届くような声量で続けた。
「⋯⋯あいつ、アリアと仕事に関しちゃ
うぜぇくらいに細けぇからな」
レイチェルは
呆れたような笑いが
漏れそうになるのを堪えた。
(時也さん、聞こえてるだろうなぁ)
苦笑しつつ
店内を見渡した。
清潔感があり
落ち着いた空間。
ソーレンが
〝綺麗好き〟と
昨夜、自称しただけあって
確かに店内もシルバーも
驚くほど磨き上げられている。
だが⋯
(⋯⋯せっかく綺麗に
磨かれてるのに)
シルバーのカトラリーは
彼方此方に雑に置かれていた。
フォークとスプーンが入り乱れ
ナイフが端の方で斜めに寄せられている。
どうやらソーレンは
「磨く」事は得意でも
「整える」事は苦手らしい。
レイチェルは一瞬
どうしようかと考えた。
次の瞬間、指をひとつ鳴らす。
パチン!
黒髪がふわりと揺れ
レイチェルの髪が
艶のある茶色に変わった。
瞳は透き通るような⋯青。
制服は桜のままだが
足元にはローラースケートが現れ
コロリと車輪が回る音が響いた。
この姿は
いつぞやの街で出会った
ウエイターの女性のものだ。
きびきびとした動きで
店内を軽やかに滑る姿が
今も鮮明に記憶に残っている。
この女性の姿を借りれば
大抵の飲食店業務は分かるはず。
スケートで滑るように店内を巡り
シルバーを瞬く間に整えていく。
無駄のない動きで
カトラリーの配置を整え
テーブルクロスの皺も直していく。
あっという間にすべてを片付け
ソーレンの前にピタリと止まると
レイチェルはふわりと髪を揺らし
黒髪ボブの姿に戻った。
(⋯⋯30分。
これ以上擬態すると
私は〝私〟で無くなってしまう⋯⋯)
その限界の感覚を
経験で知っているからこそ
レイチェルは
素早く擬態を解いた。
「⋯⋯ほぉ。嬢ちゃん、やるな」
レイチェルの
擬態能力を初めて見たソーレンが
感心したように呟く。
異能を持つ者同士だと
こんなにもすんなり
受け入れられるのかと
レイチェルの気持ちは
軽くなっていた。
「私は、嬢ちゃんだなんて
名前じゃないですよ!」
レイチェルは
舌をちょこんと出して見せる。
「レイチェルです!」
わざと強めに名乗り、続ける。
「それに
本当の私は貴方よりも
もしかしたら歳上かもですよ?
ソーレン?」
敬称を抜き
敢えて親しげに呼んでみせる。
「なっ⋯⋯」
ソーレンは明らかに動揺し
耳まで真っ赤に染まっていく。
「⋯⋯⋯ったく。
女って⋯めんどくせぇ」
「ふふっ」
背を向けながら
頭をガシガシと搔く彼の様子に
レイチェルは
つい吹き出してしまった。
(⋯⋯この人
ぶっきらぼうって言うより
コミュニケーション下手なだけ、なんだな)
それに気付いた瞬間
少しだけ親近感が湧いた。