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りおりんご🍎
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今中希美
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923
#魔法使い
MOCHI076
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古都の西側は、他のどの方角よりも守りが薄い。
それを誰よりも知っているのは、勇斗だった。
仁人を逃がすための算段を、あれほど何度も練り直したのだ。
西の城壁の下には、古い時代に掘られた暗渠が通っている。城内の水を入江へ落とすための道で、今では誰も使わず、格子は錆びて崩れかけていた。
総攻撃の夜明けを待つ闇の中、勇斗は、その暗渠の口から古都へ入った。
城内は、不気味なほど静まり返っていた。
かつては幾百の兵と臣下が行き交ったはずの回廊に、人影はほとんどない。灯りの落ちた部屋が、いくつも続いている。
老臣たちの多くは、この数日のうちに、闇に紛れて去っていったのだろう。責める気にはなれなかった。
回廊の角で、一人の老兵に行き合った。
槍を持った手が、勇斗の顔を見て、ぴたりと止まる。
追放された男が、なぜここにいるのか。老兵は何かを言いかけ、それから、ゆっくりと穂先を下げた。
「……陛下は、奥の執務室におられます」
「いいのか」
「私は、何も見ておりません」
老兵は、それだけ言って背を向けた。その肩が、微かに震えていた。
勇斗は、深く頭を下げ、奥へと急いだ。
執務室の扉の隙間から、細い灯りが漏れていた。
音を立てないように、そっと押し開ける。
部屋の奥、小さな卓に向かって、仁人が座っていた。
冠は、被っていない。簡素な衣のまま、背を丸め、筆を握っている。卓の上には、書きかけの紙が何枚も散らばっていた。政務の書類ではない。その筆の運び方で、勇斗にはすぐに分かった。詩だ。
―――こんなときにも、君は。
最後に会った日よりも、仁人はずっと痩せていた。それでも、筆を握る横顔には、稽古場で舞い直していた頃と同じ、妥協のない真剣さが残っていた。
声をかけられなかった。
勇斗は、扉の傍らに立ったまま、息を殺していた。
やがて、仁人の筆が止まった。
「……幻、ですか」
震える声で、仁人が呟いた。
「ずっと、見るんです。君が、そこに立っている夢を」
「夢じゃない」
仁人の肩が、びくりと跳ねた。
ゆっくりと、本当にゆっくりと、顔を上げる。
灯りに照らされた顔は、驚きと、疑いと、そして、抑えきれない何かで、ひどく揺れていた。
「……勇斗」
「ああ」
「どうして。ここに。追放、したのに」
「戻ってきた」
その一言で、仁人の瞳が、決壊した。
椅子を蹴るように立ち上がり、仁人は、勇斗の胸に飛び込んできた。その体は、驚くほど軽かった。勇斗は、両腕でその背を強く抱き締める。
「戻ってきて、くれたんですね」
震える声が、胸元で響いた。
「僕の願いを、叶えに。……最期の時まで、そばにいてくれるって、言った、あの約束を」
「仁人」
「いいんです。もうなにもかも。君が来てくれた。それが全てです。僕が、間違っていたのかもしれないと、ずっと、思っていました。それでも王として、追放するしかなくて。後悔しても、もう、君はいなくて……」
「謝るのは、俺の方だ」
勇斗は、仁人の肩を掴み、そっと身を離した。
涙に濡れた顔を、正面から見つめる。
「聞いてくれ。今度は、ちゃんと話させてほしい。全部」
仁人は、戸惑ったように瞬きをして、それから、小さく頷いた。
「あの密書は、本物だ。俺が書いた。……お前を裏切って、舜太に情報を流していたことも、本当だ」
仁人の顔から、血の気が引いていく。
「最後まで聞け。流した情報の見返りに、俺は舜太に頭を下げた。民を殺すな、都を焼くな、そして、お前だけは、何があっても生かせと。国外への逃走経路も、亡命先も、全部、お前を逃がすために探した。……黒色の国も、お前の信頼も、俺は裏切った。弁明はしない。ただ、全部、お前を失いたくなかったからだ」
仁人は、何も言わなかった。
握りしめた指が、勇斗の袖を掴んだまま、白くなっている。
「夜明けに、総攻撃が始まる。舜太が、そう教えてくれた。古都は、保たない。……舜太と柔太朗は、俺たちのために、白色の国の商船を一隻、入江に回してくれてる。名前も身分も捨てて、海の向こうへ渡れる」
「……逃げる、ということですか」
「そうだ」
勇斗は、一度、息を整えた。
ここから先が、本当に、話さなければならないことだった。
「お前が本当に望んでいるのは、王都に戻ることだと、知っている。母君の遺したものを、取り戻したいんだろう。……それでも俺は、お前を連れて、逃げたい。お前に、ただ生きていてほしい。俺の願いは、それだ」
仁人が、顔を上げる。
「兄王が亡くなる前の夜、俺は、あの人の寝室に呼ばれた。そこで頼まれたんだ。仁人が、ただの一人の人間でいられる場所を、お前が作ってやってくれ、と」
「……兄上が?」
仁人の声が、掠れた。
「お前に王でいてほしいなんて、あの人は最後まで、思っていなかった。俺もだ。お前が舞を舞って、詩を書いて、誰にも冠を測られずに笑える場所を、一番近くで、俺が守りたい。それが、俺の願いだ」
部屋に、沈黙が落ちた。
卓の上の紙が、灯りに揺れている。
書きかけの詩の、最後の一行だけが、空白のままだった。
仁人は、長い間、俯いていた。
それから、絞り出すように言った。
「……それは、君の願いでしょう」
勇斗の胸を、鋭いものが貫いた。
「僕の願いじゃ、ありません」
「ああ。そうだ」
勇斗は、目を逸らさなかった。
「俺の願いだ。お前の願いは、お前にしか言えない。だから、本当は、お前にも聞きたい。ずっと聞かなかったことを、聞きたい。……だが、今は、時間がない」
「できません」
仁人は、はっきりと首を振った。
「僕には、まだここに、残っている者がいるんです。数は少なくても、僕を王と呼んで、最後まで残ってくれた人たちが。母上の国を、古都に追い込んで、民を置き去りにして、僕だけ海の向こうへ? そんなことをしたら、僕には、何も残りません。舞も詩も、全部、嘘になってしまう。そこまでして、生きたい、君と逃げたいとは思いません」
「舜太は、降る者には手を出さないと約束した。民も、お前の残した者たちも、殺させない。王都は、焼かれていない」
「それを、信じろと」
「信じなくていい。俺を信じろ」
その時だった。
遠く、東の方角から、角笛が鳴り響いた。
一つ、二つ、三つ。それは、波のように重なって、夜明け前の空気を震わせた。続いて、地鳴りのような鬨の声が、古都の石壁を伝って届く。
予定より、早い。
仁人の顔が、強張った。
「始まった」
「勇斗、僕は、もう―――」
「すまない」
勇斗は、仁人の腕を掴んだ。
「あとで、いくらでも恨んでくれ。恨むのも、怒るのも、話すのも、全部、あとでいい。……今は、生きてくれ」
抵抗する仁人の体を、勇斗は抱え上げた。
いつかと同じ重さではなかった。
痩せた体の軽さに、胸が軋んだ。
「放してください!勇斗、放して!」
叫びながら振り上げた仁人の手が、卓にぶつかり、紙が数枚、宙に舞った。
勇斗は、一瞬だけ足を止めた。
身を屈め、落ちた紙のうち、一番上にあった一枚を拾い上げる。空白の最後の行が、そこにあった。
それを、仁人の衣の懐に、押し込む。
「お前の詩は、置いていかない」
仁人の抵抗が、一瞬、止まった。
それを幸いに、勇斗は走り出した。
回廊の途中で、窓の外が、赤く染まり始めた。東の城壁の向こうで、火が上がっている。怒号と、金属の打ち合う音が、すぐそこまで迫っていた。
西の暗渠の口に着いたとき、勇斗は、ようやく仁人を地面に下ろした。
「歩けるか」
仁人は、答えなかった。
燃える東の空を、呆然と見つめている。
「仁人」
「……母上」
小さな声だった。
「あれが、母上の遺した国の、最後の灯なんですね」
「見たいなら、見ていい」
勇斗は、静かに言った。
「目を逸らさなくていい。お前が愛した場所を、最後まで見届けていい。そして、それから、前を向け。俺が、先を歩く」
仁人は、唇を噛んだ。
それから、ゆっくりと、勇斗を見た。
涙は、もう流れていなかった。
ただ、深く、疲れた目だった。
「……許したわけじゃ、ありません」
「分かってる」
「君の願いに、頷いたわけでも」
「それでもいい」
仁人は、もう一度だけ、燃える古都を振り返った。
そして、前を向き、暗渠の闇へ、自分の足で踏み出した。
暗渠の中は、湿った冷たい風が流れていた。足元の水が、くるぶしを濡らす。勇斗は仁人の手を引いて、狭い道を進んだ。
しばらく行って、勇斗は、ふと足を止め、後ろを振り返った。仁人が、そこにいた。濡れた壁に片手をつきながら、確かな足取りで、ついてきている。
勇斗は、小さく息を吐き、また前を向いて歩き出した。
数歩進んで、また、振り返る。
仁人が、いる。
また、数歩。また、振り返る。
「……何度も、振り返るんですね」
仁人が、ぽつりと言った。
「いるか、確かめてる」
「います」
闇の中で、仁人の声が、ほんの少しだけ、柔らかかった。
「ここに、います。……この先も、君が、手を、離さない限り」
勇斗は、握った手に、力を込めた。
暗渠の出口は、入江の岩場に開いていた。
潮の匂いと、波の音。東の空は、すでに白み始めている。入江の水際に、帆を畳んだ船が一隻、静かに横づけされていた。白色の国の紋が、船腹に小さく刻まれている。
渡し板の傍らに、船乗りが一人、待っていた。
余計なことは何も言わず、ただ、二人を認めて、深く頷いた。
板を渡る前に、仁人が、立ち止まった。
背後の丘の向こうに、古都の城壁が見える。立ち昇る黒煙が、夜明けの空を、薄墨のように染めていた。
仁人は、そこに立ち尽くしたまま、動かなかった。
長い、長い時間のように思えた。
勇斗は、急かさなかった。
隣に立ち、同じ方角を見つめていた。
やがて、仁人の唇が、微かに動いた。
「……ごめんなさい」
誰に向けた言葉か、勇斗には分からなかった。
母に、残してきた人々に、あるいは、自分自身に。
それから仁人は、勇斗に手を引かれるまでもなく、渡し板に足をかけた。
船が、岸を離れる。
櫂が水を掻き、入江の外へ、ゆっくりと滑り出していく。遠ざかる古都の煙が、朝焼けの中で、小さくなっていった。
甲板の端に、仁人は一人、立っていた。
海風に衣の裾が翻る。
勇斗は、少し離れた場所から、その背中を見つめていた。
声をかけようとして、やめた。
仁人は、もう、古都を振り返らなかった。
コメント
1件
もう、泣きました……。追放した相手が、自分を守るために裏切っていたという真相の切なさ。最後まで仁人のことを「一人の人間」として見ていた勇斗の想いが、暗渠の中で何度も振り返る仕草に滲んでいて、胸が苦しくなりました。「お前の詩は、置いていかない」って台詞、ずっと覚えてます。そして仁人が振り返らなかった背中も…。お二人がこれからどこへ行くのか、ちゃんと読ませていただきます。