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MOCHI076
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コメント
1件
うわあ、読み終わったあとしばらく動けなかった……。 声を失うっていう表現、すごく重たかったな。心の疲れが先に声を休ませるっていう乗組員の言葉が沁みた。仁人が勇斗の袖を掴んだシーン、声じゃなくて指の力で「ここにいる」って伝えるのが、言葉よりずっと深く響いたよ。 舜太が仕組んだ偽装も、優しさと冷たさが一緒になった感じでグッときた。二人だけの船出、ちゃんと続きが気になる…!
夜が明けきる頃には、古都の煙は、もう水平線の向こうに沈んでいた。
仁人は、甲板の端に立ったまま、海を見ていた。
どこまで行っても、水と空しかない。
陸の匂いが、少しずつ薄れていく。
潮風が頬を撫でるたびに、自分が今、何かの境目を越えようとしているのだと、否応なく思い知らされた。
背後に、勇斗の気配があった。少し離れた場所に立ち、こちらを見ている。
振り返れば、きっと目が合う。そうして、何かを言わなければならなくなる。
それが、仁人には、どうしようもなく恐ろしかった。
だから、背を向けたまま、動かなかった。
懐の中で、紙が一枚、かさりと鳴った。取り出して広げると、昨夜まで書いていた詩が、潮風に端を震わせる。最後の一行だけが、空白のままだった。
勇斗は、これを、拾っていった。
兄上と、約束をしていたのだ。仁人は、そのことを、まだ飲み込めずにいた。
確かに兄は言ったのだ。お前は、王にならなくていい、と。そのすぐ後で、忘れろ、と言った。
病の床では、同じ口が、そういう心を持ったまま玉座に就く王がいてもいい、と言った。
どちらも、本当だったのだろう。
兄上は、僕に、王でいてほしくて、そして、王でなくていいと、願っていた。
母上が遺した国。兄上が守ろうとした国。それを、僕は、置いてきた。
胸の奥から、何かが込み上げてくる。仁人は、思わず口を開いた。
――勇斗。
そう呼ぼうとした。
けれど、喉は、空気を震わせなかった。
唇は確かに動いたのに、そこから出たのは、吐息だけだった。
もう一度、試す。
何度試しても、同じだった。
声という形をとる前に、どこかで、ぷつりと途切れてしまう。
仁人は、自分の喉元に、そっと手を当てた。
痛みはない。
苦しくもない。
ただ、あるはずのものが、そこになかった。
背後で、足音が近づいた。
「仁人?」
勇斗が、顔を覗き込む。
仁人は、咄嗟に首を振り、手で喉元を覆った。
それから、もう一度、唇だけを動かして見せた。
何も、聞こえなかった。
勇斗の顔から、色が消えた。
「……声が」
仁人は、小さく頷いた。
勇斗の手が、肩に伸びかけて、宙で止まる。それから、ゆっくりと、下ろされた。
「船に、薬湯を煎じる人がいるはずだ。聞いてくる」
そう言い残して、勇斗は、足早に船室へと向かった。
仁人は、再び、海に向き直った。
涙は出なかった。
ただ、静かに、空っぽになっていくような感覚だけがあった。
年配の乗組員が煎じた薬湯は、薄い草の匂いがした。
仁人は、それを黙って飲んだ。
声は、戻らなかった。
「喉の傷じゃない」
その乗組員は、そう言った。
「心が、疲れすぎると、声が先に休むことがある。時間が要る。……無理に出そうとしなさんな」
それだけ言って、彼は去っていった。
勇斗は、船室の隅で、その背中を見送りながら、拳を握りしめていた。
――これは、罰なのか。
運命に、逆らった。兄王との約束を果たすために、国を裏切り、友を利用し、愛する人の意志を押し切って、ここまで連れ出した。その代償を、この人の喉が、支払わされているのではないか。
――俺が、奪ったのか。
仁人の願いを、叶えたいと思っていた。
その上で、話そうと決めていた。
話す時間さえ、与えられないまま、こうなった。
強引に抱え上げたときの、仁人の軽さが、まだ腕に残っている。
声を奪ってまで、生かしたかったのか。
答えは、出なかった。
出せるはずもなかった。
ただ、どれほど問うても、あの夜明けの古都に、仁人を置いてくる選択肢だけは、どうしても、取れなかった。それだけが、揺るぎない事実だった。
それが、罪だというのなら。
――俺が、全部、背負う
仁人は、寝台の端に腰を下ろしたまま、窓の外を見ていた。
勇斗が部屋に入ってきても、振り返らなかった。
食事の盆を、勇斗は、黙って卓の上に置いた。仁人は、ほとんど手をつけなかった。
「少しでも、食え」
返事はない。肩が、わずかに強張っただけだった。
無理に向き直らせることは、できる。
古都でそうしたように、腕を掴めば、いくらでもできる。
だが、勇斗は、もうそうしないと決めていた。
「……ここにいる」
それだけを言って、勇斗は、部屋の隅に腰を下ろした。仁人の背中を、見つめられる場所に。
三日目の昼、船は、名もない小さな港に寄った。水と食糧を積み込むための、短い停泊だった。
勇斗は、甲板で荷の積み込みを見ていた。仁人は、船室から出てこなかった。
積み荷を運ぶ若い船乗りが、同僚と、声高に話しているのが聞こえた。
「聞いたか。黄色の国の古都、陥落したってよ」
「ああ、東から来た商人が言ってた。王様は、最後まで城に残ったらしい」
勇斗は、手すりを掴む手に、力を込めた。
「炎に巻かれて、亡くなったそうだ。それと、黒色の国の王子様も、一緒に。……王様に殉じたんだと」
「へえ。黒の王子が、黄色の王に殉じる?変な話だな」
「さあな。でも、赤と黒の国の触れが出たらしいぞ。王と王子の亡骸は、丁重に葬られたって」
勇斗は、ゆっくりと息を吐いた。
舜太だ、と分かった。
二人が死んだことにして、追っ手を断つ。
それが、あの男が用意した、本当の逃げ道だったのだ。
商船を一隻回すだけでは足りない。
生きていると知れれば、黒色の国も、黄色の国の残党も、いずれ追ってくる。
だから、死んだことにした。
そして、それは同時に、為政者としての、冷徹な判断でもあった。
王族が生きていれば、旧臣は旗印にして、いずれ反乱を起こす。
死んでいるのが、統治にとって何よりも都合がいい。
(あいつは、全部、分かっていて)
恩を返すと言った男の、静かな声が蘇る。
その優しさと冷たさが、同じ一つの手から差し出されていることを、今、はっきりと理解した。
船が、再び港を出る頃、勇斗は、船室の扉を開けた。
仁人は、窓辺に座っていた。その背中が、わずかに揺れている。
勇斗は、告げるべきかどうか、迷った。だが、聞かせずにいることは、嘘をつくことと同じだった。
「仁人」
背中は、動かない。
「聞いてほしいことがある。……さっき、港で、聞いた」
勇斗は、言葉を選んで、噂のことを話した。
黄色の国の王と、黒色の国の王子が、古都の炎の中で亡くなったという話。
亡骸が、丁重に葬られたという話。
仁人の肩が、微かに震えた。
窓ガラスに、うっすらと映る横顔。唇が、何かを形づくっては、消える。
おそらく、母上、と。あるいは、王都、と。
勇斗は、仁人の傍らに、静かに膝をついた。窓に映る仁人の顔と、自分の顔が、並んでいた。
「俺たちは、一度、死んだ」
仁人の視線が、わずかに、揺れた。
「世界の中で、黄色の国の王も、黒色の国の王子も、もういない。そう決まった。だから、もう、誰も、俺たちを追わない」
それは、慰めではなく、事実だった。
「ただの仁人と、ただの勇斗として、生きる。それだけだ。冠も、国も、誰かに与えられた役目も、全部、あの炎の中に置いてきた」
仁人は、まだ、振り返らない。
「お前が、俺を許さなくていい。この道を選んだのは、俺だ。声が出なくなったのも、国を捨てさせたのも、全部、俺の罪だ。……全部、俺のせいにしていい。恨んでも、憎んでもいい」
勇斗の声が、掠れた。
「それでも、愛してくれ。俺を、愛してくれ。」
部屋に、波の音だけが、満ちた。
仁人は、長い間、動かなかった。
窓の外では、日が傾き始めていた。
海が、橙色に染まっている。
やがて、勇斗は、立ち上がろうとした。
返事は、期待してはいけないのだと、自分に言い聞かせながら。
その時、袖が、引かれた。
仁人の手だった。
窓の方を向いたまま、振り返らないまま、後ろ手に、勇斗の袖を、そっと掴んでいた。
力は、弱かった。けれど、離さなかった。
勇斗は、動けなくなった。
仁人は、まだ、振り返らない。
顔を見せない。声も、出ない。
それでも、掴んだ指は、確かに、ここにいるのかを、確かめるようにそこにあった。
勇斗は、そっと、その手に、自分の手を重ねた。
海の向こう、まだ見えない遠い岸の、さらに向こうに、紫色の国があるという。
船は、夕暮れの海を、静かに進み続けていた。