それから新谷と金子、細越の3人は、劇の特訓だと言ってはときたま展示場を抜けることが多くなった。
特訓だと言うわりに、せいぜい1時間足らずで戻ってくるため、そこまで根を詰めてはいないのだろうが、それでもファミリーシェルターのメンバーと会っていると思うと、内心は面白くなかった。
あちらの営業は店長と牧村くらいしか知らない。
目立って成績も振るわなければ、表立ったところに自分から出てくるような奴らでもないのだろう。
では必然的に―――。
(十中八九、“パパ“はあいつだろうな…)
感染症対策の換気のため、篠崎は事務所の窓を開け放った。
管理棟を出て自分の展示場に向けて歩いていく牧村の姿が見える。
清潔かつ爽やかに切りそろえられた茶髪。
嫌味のない程度に上等なスリーピースのスーツ。
切れ長の目に光る白い八重歯。
ぱっと見はとてもわからない。
しかしアイツもゲイなのだ。
「…………」
篠崎は彼がこちらを見ていないのをいいことに上から下まで観察してから窓を閉めた。
新谷に対する感情とは別に、牧村に対しては営業同士の独特の疼きを感じる。
嫉妬と呼んでいいのか、焦燥と形容していいのかはわからないが、振り返れば後ろの崖から這い上がってくる彼の頭がすぐそばにあるような気がして、鳥肌が立つ。
他メーカーの自分でもこうなのだから、同じ展示場の店長をはじめ先輩たちはもっと、彼に恐怖感を抱いているだろう。
恐怖はやがて焦りになって、それはどうしようもない僻みに変わり、やがて大きな黒い塊になって彼に襲い掛かってくる。
自分もそうだった。
主任になり、マネージャーになった際には、老輩や二つ三つ上の先輩によく虐められたものだ。
しかしここで自分がへばっていては、これから自分についてくるだろう後輩たちが育たない。
そして自分の影を踏むように、真後ろについて成長してきている同期を、尻込みさせかねない。
だから歯を食いしばって耐えてきたのだ。
回想に耽っているうちに、いつのまにか牧村は展示場の中に消えていた。
そして携帯電話を入れた胸ポケットは、その同期からの着信で忙しく震えていた。
『新谷、前泊させていいですか』
紫雨は挨拶も無しに開口一番そう言った。
「なんでだ。開発部のミーティングは9時からだろ。7時にこっちを出発させれば、前泊しなくていいはずだ」
『チッ』
紫雨は堂々と舌打ちをし、ため息を吐いた。
『じゃあいいや、俺んち泊まらせるんで』
その言い方にカチンとくる。
「聞こえなかったか?前泊は許可しないと言ってるんだ」
『はー?』
紫雨が挑発的な声を出す。
『勘違いしないでくださいよ。定時をすぎたら、個々の自由なんですよ。経費が掛かってないんだから、俺の部屋に泊まろうが、上司である篠崎さんに何も文句を言われる筋合いはないわけですよ』
「それは……」
『あ、間違えました。たかが上司の篠崎さんでした』
『紫雨さん……その辺にしときましょうよ』
後ろから林の声が聞こえる。
「勝手にしろ」
篠崎はフンと鼻を鳴らすと通話を切った。
ああ見えて面倒見のいい男だ。
わざと挑発しようとしているのは十分にわかっている。
それでも――。
劇の練習を終え、事務所に戻ってきたばかりの新谷が携帯電話を取る。
「あ、お疲れ様です。———はい。————あ、はい。よろしくお願いします」
話しながらスリッパに履き替えている。
「え………」
その動作が一瞬止まる。
「………でも」
言いながらチラリとこちらを確認している。
「そう、ですか。わかりました。………はい。了解です。はい、それではよろしくお願いします」
電話を切りながらこちらに近づいてくる。
「お疲れ様です」
微笑を讃えて、席に着く。
――電話のことは報告しない、か。
それはそうだ。話す必要はない。紫雨が言う通り、定時を過ぎれば個々の自由。経費を使わないのだから、何をしようと構わない。
「お疲れ」
小さく返してからため息をついた。
紫雨には林がいる。
そして先ほどの会話を林が後ろで聞いていたということは、当然、その日林もマンションにいるのだろう。
しかし、もし林がいなかったら……?
今回は大丈夫だとしても、今後このような機会はいくらでも訪れる。
牧村より紫雨や林の方があり得ると、この間漏らした新谷を横目で見る。
牧村と関係を持ったのだから、紫雨とも、もっと言えば林とも、あり得ないわけではない。
隣に座った新谷が項あたりをポリポリと掻きながらため息をついている。
その後ろ髪から覗いた白い項も、肺から吐き出された息も、何ひとつ、自分のモノではない。
―――こいつはもう、自由なんだ。
隣の席に座っていても、こんなに、遠い―――。
篠崎は滲むディスプレイを睨んだ。
◇◇◇◇◇
木曜日になった。
由樹は太陽光発電についてここ数日で自分なりに纏めた資料を鞄にしまった。
「あ、明日だっけ?開発部の説明会」
渡辺が席に座りながら由樹を見上げる。
「そうなんです。一日留守にしますね」
微笑む由樹に、渡辺が頷く。
「ETCカードの許可届出した?」
言いながら大きな体を左右に揺すりながら振り返り、ラックの横の金庫を開けようとする。
「あ、いえ、今回は出してないです」
由樹は慌てて言う。
「えー、下道で行くの?」
その声に隣に座る篠崎も顔を上げる。
「前泊すればいいのに。朝は多分凍結してるよー?」
渡辺がその視線を篠崎と由樹に往復させる。
「大丈夫です。あの、えっと、はい……」
由樹は気まずさに目を細めた。
紫雨からは自分のマンションに泊まるように指示が出ていたが、
「篠崎さんには内緒な。うっさいから、あのおっさん」
と口止めをされていたのだった。
(紫雨さん……。不器用な俺に口止めさせるなんて、無理がありすぎます……)
しかしこちらを見上げた篠崎は、
「気をつけろよ。遅れないようにな」
とだけ言い、視線をパソコンに戻した。
「はい。ありがとうございます」
それ以上何か言われないうちに鞄を持つ。
「それでは、明日終日不在します。何かあったら対応お願いします。お疲れ様でした!」
言いながらコートを羽織って長靴に履き替える。
「……あ」
そうだ。
天賀谷市には雪がない。
今や当たり前のように毎日履いている長靴は必要ない。
しかも明日は説明会だ。
もちろんスーツだ。
革靴だ。
―――思わず篠崎を振り返る。
当面の着替えとスーツは持ってきたが、革靴はマンションに置きっぱなしだ。
(……紫雨さんか林さんに借りるしかないか。でもどっちも貸してくれなそう……)
悩みながら事務所を出る。
時刻はもう19時を過ぎている。
開いている靴屋はあるだろうか。
携帯電話で検索しながら駐車場に向かう。
アパートを探している最中であるため、仮住まいとしてのビジネスホテルへの宿泊代も嵩んでいて、あまり無駄遣いはしたくないが仕方がない。
「はあ……」
ため息は白い塊となって夜空に溶けていく。
「新谷!」
後ろから声がして、由樹は展示場を振り返った。
逆光で良く見えないが、篠崎が立っている。
「ちゃんとキャッチしろよ!」
その手から黒い塊が2つ、こちらに降ってきた。
「………あっ!」
慌ててそれを受け取る。
「!!」
由樹の革靴だった。
ホッとすると同時に胸が熱くなる。
「ありがとうございます……!」
「気をつけて行けよ!」
篠崎は手を上げて、事務所に戻っていった。
「………!!」
先ほど燃えるように熱くなった胸が、今度は刺されたように痛くなる。
靴のことを気づいてくれたことは嬉しい。
自分のことを気遣ってくれたことも、素直に嬉しい。
しかし――――。
あのマンションから―――。
2人で暮らしていた部屋からまた、自分の物が一つ消えてしまったという事実が、とてつもなく寂しかった。
「……ここが」
由樹は口をあんぐりと開けた。
「紫雨さんの家?」
玄関から見ただけでわかる部屋数の多さと、奥に見えるリビングの広さに、由樹は圧倒された。
「そーだけどー?さっさと上がって。なんか恥ずかしいから」
もうすでにシャワーも終え着替えて待っていた紫雨は、整髪料のとれたサラサラの髪の毛に黒いスウェットの上下で新谷を迎えながら頭を掻いた。
「あ、お邪魔します」
緊張しながら靴をそろえると、由樹は鞄とバックを持って、紫雨の家に上がった。
「……っ」
足が止まる。
「……何突っ立ってんだよ。寒いからさっさとリビングに入ってドア閉めて」
紫雨がソファの背もたれを飛び越えて座りながら言う。
「し、ぐれさん…。これ、何ですか?」
由樹は廊下の壁に入った大きなヒビを指さした。
「あー」
紫雨はソファから覗き込むと、笑った。
「暴漢のあと?」
「……………」
由樹は恐る恐るリビングに入った。
「…………っ」
高そうな皮のソファは一部破けて中のスポンジが見えている。
ベッドのボードは一本欠け、カーペットには茶色いシミが付いていた。
1年前、紫雨が自分たちのマンションに逃げてきたときのことを思い出す。
あの時の林の説明では、紫雨が遊んでいたうちの一人が紫雨に執着していて、その男が少し暴力的なのだと理解していたが………。
「……これ、普通に命の危機じゃないですか」
「あーまあ、そうだったのかな。よくわかん……」
「……紫雨さん!」
「は?」
由樹は思わず紫雨を抱きしめた。
「お、おい、新谷…」
紫雨が押し付けられた由樹のコートに息を吐いた。
「よくぞ、ご無事で………!」
「…………」
紫雨は大きく息を吸うと、抱き着いてきた由樹をゆっくりと剥がした。
「………あーいらつく」
「え?」
「お前さ、そういうとこだぞ……?」
「…………?」
「お前のそう言うところがムキマラ君をオオカミにしたんだっつの」
紫雨は言うと、由樹のコートの襟をつかみ上げた。
「え………わっ!」
あっという間に由樹はソファに押し倒された。
「し、ぐれさん……?」
「林もいると思って安心してた?」
紫雨の首元まで開いたスウェットからくっきりと浮き上がった鎖骨が見える。
「林は来ないよ。このマンションには。なんでかわかる?」
紫雨が由樹の身体を押さえつけたまま耳に口を寄せる。
「このマンションには、俺が他の男とセックスした跡がいっぱいあるから」
「!」
その吐息交じりの声に悪寒が走る。
「だから今日は俺とお前の二人きり……」
言いながら紫雨の手が由樹のスーツのボタンを外す。
「ちょ……紫雨さん……?」
「油断しすぎだって。お前、俺がお前に今まで何やってきたか忘れたの?」
言いながらボタンの開いた隙間から手が滑ってくる。
「今まで篠崎さんがいる手前大人しくしてただけで、ずっとお前のことをこうしてやりたかったんだよ」
その指がワイシャツの上から胸の突起を捉える。
「な、何を……痛っ」
抵抗しようとした手を引っかかれ、痛みに由樹が指を引っ込めると、紫雨は躊躇なくワイシャツの中に指を入れた。
突起を指先で刺激される。
「ん……あ………っ」
たちまちインナーの中で堅くなるそれが、淡い痛みを帯びて熱を全身に伝えていく。
紫雨の肩と胸を、両手で押し返す。
ビクともしない。
自分と体型はそんなに変わらないのに、どうしてこんなに力があるのだろう。
首筋を熱い舌で嘗められ、強く吸われる。
「んっ……!」
膝が脚の間を割って入ってきて、グリグリと股間を摺り上げる。
「……や、だ……!紫雨さん……!」
由樹は歯を食いしばりながら薄目で彼を見上げた。
「……っ!?」
紫雨――じゃない。
自分を押さえつける手の色が変わる。
強さが、手の大きさが、刺激する強さが変わる。
紫雨の白い肌が、金色の目が、どんどん濃い色に変わっていく。
「……っ」
由樹の上に乗っていたのは、紫雨ではなく、牧村だった。
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