「ただいま」
莉子が帰宅すると,
玄関は施錠されリビングは暗く直也の姿は無かった。
(まだ帰って来ていなかった、良かった)
安堵の息が漏れた。莉子はスポーツジムで履いた様に見せ掛けた布袋のスニーカーを廊下の隅に置いた。
(ーーーあ、指輪)
リビングの電気を点け、洗濯物を取り込んでいた莉子は、左の薬指に銀の指輪を嵌めていた事に気が付いた。2階の寝室へと向かいクローゼットの上に隠したクッキー缶を取り出した。
ぎしっ
そのまま力無くベッドに腰掛けると、蓋を開けその中に指輪を仕舞った。
(ーーーーー蔵之介)
胸元を這う蔵之介の熱い唇の感触。
直也とは違う男性特有の汗の匂い。
思い詰めたその眼差しを思い出しながら、ゆっくりと紙飛行機を広げた。
莉子 大好き
莉子 会いたい
莉子 結婚しよう
莉子は16歳の辿々しい文字が綴つづる想いに、涙を流した。
カチャン ギイ
「ただいま」
その頃、玄関先の廊下では仕事から帰宅した直也が、布袋を開け中のスニーカーを取り出していた。ゴム製の靴底に付着している筈の、床に擦れた形跡がなかった。
(やっぱり、そうか)
直也は無言でスニーカーを袋に戻してリビングに脚を運んだ。室内に取り込まれ、ソファに放置されたままの洗濯物、2階に莉子の気配を感じた。
(ーーー莉子)
何気なく目線がチェストへと向いた。近付いて見るとそれは莉子の結婚指輪だった。
直也は美しく輝くプラチナの指輪を摘み暫く見つめると肩を落とし、大きく息を吸って深く吐いた。そしてもう1度大きく息を吸い階下から2階に向かって声を掛けた。
「莉子ーーー!ただいま!」
その気配は慌ただしく、なにかを片付けると階段を駆け降りて来た。それは今にも足を滑らせるのではないかという勢いだった。
「お、おかえりなさい!」
「なに、寝てたの?」
直也はネクタイを解きながら、莉子を凝視した。
「うん。運動したら疲れちゃって。ごめんね」
目が左右に動き、顔は赤らんでいた。莉子の表情からは明らかに焦りが見て取れた。
「それで?ジムではなにをして来たの?」
直也はネクタイを解きながら莉子に微笑み掛けた。
「あっ、うん。今日はストレッチの体操だけだった、身体が硬いですねって言われちゃったよ」
「じゃあ明後日は筋肉痛だね」
「なんで明後日なの」
「そりゃあ、歳を取ると筋肉痛になるのが遅いっていうでしょ」
「ひ、酷い!」
莉子はソファに座りバスタオルを畳みながら直也を恨めしそうな目で見上げた。直也はスーツジャケットを脱ぐと着替えて来ると階段を上って行った。その後ろ姿を見送った莉子の心臓は激しく脈打った。
(ーーーあ、危なかった)
そして危なかったと胸を撫で下ろす自分に罪悪感が沸々と込み上げて来るのを感じた。蔵之介と唇を交わしたあの瞬間、莉子は不倫という人の道に外れた世界に足を踏み入れてしまった。
(直也を裏切っている)
直也の事は愛している、離婚する気など無い。
(でも蔵之介にも会いたい)
タオルを畳み終えた莉子はその不埒な思いをランドリーワゴンに詰め込んだ。
ジャケットを脱いだ直也の視線はクローゼットに注がれた。ドレッサーの椅子を運ぶとその上に乗り、アイアンフレームの籠を避けてその奥に手を差し入れた。
(ーーー無い)
余程慌てていたのだろうクッキー缶がいつもの場所に無かった。廊下に出て階下の様子を窺い見ると莉子はエプロンを身に付けて冷蔵庫の扉を開けていた。シンクのたらいに浮き沈みする茄子、まな板と包丁を準備している。寝室に戻った直也はベッドの下を覗いて見たがクッキー缶はそこにも無かった。
(何処だ)
ナイトテーブルの引き出しの中、隙間、見当たらない。音を立てない様に息を殺してクローゼットの扉を開けたがその中にも無かった。
(ーーー無い)
ジャケット、ブラウス、スカート、ワンピースと木製のハンガーを避け冬物の衣類が入った引出しの中を見てみたがそこにもクッキー缶は見当たらなかった。その時莉子の声が聞こえた。
「直也ーー!」
「な、なに!」
「茄子と豚肉の炒め物なんだけど!醤油とオイスターソースどっちが良い!?」
一瞬考えた。
「醤油!生姜があったら生姜も入れて!」
「分かったーー!」
冷蔵庫を開ける音、茄子を切る音、直也は耳鳴りと激しい動悸を覚えた。最後のワンピースのハンガーを動かすと鞄が置いてあった。
(これだ)
その鞄には妙な膨らみがあり手を入れると硬いものが触れて軽い金属音がした。それは見覚えのある古びたクッキー缶だった。
(ーーーん?)
持ち上げるとこれまでに無かった音がした。直也は床にひざまづくとその蓋を開けた。
(ーーー指輪)
そこには色とりどりの紙飛行機に紛れ黒ずんだ銀の指輪が入っていた。
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