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まなこ〜友
117
#ますしき
T
5,800
「ダメだ、疲れた」
月が照らす夜の街を通行人の中に溶け込みながら歩き、思わず消え去りそうな程の小さな声でそう呟いていた。華の金曜日ではあったが、自分に”華”なんて無く最近は特に残業続きで枯れ木の様な姿になってしまっている。
朝までは化粧をしっかり整え、アッシュグレーのロングヘアーを丁寧に巻いて、身嗜みはかなり気合を入れて出勤したはずなのに気付けばそんなのは意味も無い程、自分の中で目指したはずの輝きなんてものは損なわれていた。だが、必死に仕事をした女性の一日のおわりなんてこんなものだと、自分に言い聞かせた。
そんな私は|朝比奈《あさひな》 |夏帆《かほ》、二十六歳の独身。社名を出せば伝わる程の所で勤務しているが、最初こそ想像していたきらびやかな仕事に憧れたけれど、今ではきらびやかなんて、そんな甘い言葉で表現できるほど容易くはない仕事を、大学卒業してからずっと食らいついて勤務している。
ただ今はそんな忙しい時期もようやく抜け、残業も今日で目途が立ちそうな週末だった。明日は休みだからどこかでお酒を飲んでから帰ろうなんて考え夜の街を歩いていたところだった。特定の店など決まっておらず、歩きながら辺りを見渡して入る店を探す。
なんとなく入りやすそうな店を探していたそんな時、何気無しにふと路地裏に目をやり、男女が濃厚なキスを交わしているのをたまたま見てしまった。まったく隠すつもりは無いのか、見せつけている様子に思わず顔を歪める。
やってらんないわ、本当。疲れきった身体にあんなのは毒よ、と自分に言い聞かせ目線をすぐ他に移したが、よくよく考えるとどこか違和感があった。
この違和感が何なのかを考えても、すぐには思いつかない。
男側、見覚えある顔だった…⋯? いや、気の所為。私の知り合いにあんなどこでも構わず節操なくキスをする男なんていないし、知っていたとしても厄介事に巻き込まれたくないし、と気付かないふりをした。
そのままその出来事を忘れるようにし、辺りを見渡し続けた。この辺りは飲み屋街だしバーも居酒屋もまだやっている時間帯で、それなりに賑わっている。
もう少し奥へ進めばホストクラブが立ち並ぶエリアだが、あちらに行く気にはなれない。以前、先輩に連れられて一度だけ足を踏み入れたが、運悪く外れを引いた。売上至上主義が透けて見えるような安っぽい接客。もちろん商売なのは承知しているが、安くない対価を払う以上、せめて夢を見させる努力くらいはしてほしい。
そんなことを思い出し溜息を吐き歩きながらも、変わらず行き先は見当たらない。疲れもありゆったりとした足取りで探し続けていると、たまたま目に付いたバーがあった。
他に入りたい店もないし……と、疲れもあり妥協に近い気持ちでその店に近付き、そこまで古さを感じない木製のドアを掌で押した。しっかりとした重さを感じながらドアを押し、勢いで中に足を踏み入れた。
中に入った第一印象は、私は好きな雰囲気だった。店内は暗めだけれど、目に優しい照明の色で、中は結構な広さがある。ボックス席が二つに四人掛けのテーブル席が三つ、二人掛けのテーブル席が二つに、カウンター席が十席ほど。
酔っ払いがカラオケを使ってマイクで叫ぶ様に歌う客も、無駄に大声で話す客もおらず、静かに話すにはとてもいい雰囲気で、デートなどにも使えそうな雰囲気なのがまた良い。個人的にあまり若者が集う賑やかな雰囲気のバーが好みではないため、そうではないこのバーのことをすぐに気に入った。
「いらっしゃいませ」
テノール位の低さの落ち着いた声でこちらに声をかけてくれたのは、顔の綺麗なバーテンダーだった。柔らかそうな茶髪の男性は黒のシャツに身を包み、彼の肌の白さがより際立っている。緩やかに弧を描いた二重の瞼がまた柔らかさを強調させていて、それでいて色気を孕んでいる。その綺麗な顔立ちで私に微笑みを向けていて、思わず息を飲んだ。
だが、それよりも見過ごせない程の違和感に思わず眉を顰めた。その服装の男を先ほど路地裏で見たな……、と。もしかしたらここの店員なのだろうか。だとしたら店の近くで何をしているのか呆れるような事態だ。
ツッコみたいところはあるがひとまずカウンターの一番端の席に座り、辺りを見渡した。
金曜日だというのに、客はそんなに多くはない。一人客もいれば二人で飲んでいる客もいる。それもあって一人で入店してもあまり気まずくならず、気兼ねなくこの席に腰を下ろせた。
「何飲まれます?」
そう問われながらメニューを渡され、何を頼もうかとメニューに目を通した。結局いつも通り一杯目はジントニックにする。
どこかのネットの記事でジントニックが美味しいバーはどんなお酒も作るのがうまいというのを見たことがある。それを鵜呑みにしてからは初めてのバーではほとんど一杯目はジントニックにしている。
もちろん気分で違う日もあると思うけれど、無意識のうちに記事のことを思い出し、どこの店でも一杯目はほとんど変わらない。
「ジントニックで」
そう注文をすると「かしこまりました」と微笑んでくれ、手際よく作り始める。その姿がスマートで格好良い。そして美男子の微笑みは心臓に悪い。思わず見惚れていると目が合って、再度微笑まれ更にうっとりする。
「それはそうと、ご来店は初めてですよね」
「あ、はい。ふらっと入ってみたくなって」
「お選び頂けて光栄です。こちらバーの名刺なのですが、お渡ししておきますね」
柔らかく笑い、私の前へと名刺を差し出してくる。
その名刺を受け取り、そのまま見る。
名刺のデザインもシックで格好良い。
黒の名刺に白文字で『SABLE』と言う店名に、オーナーソムリエ 相原 玲と記載されていた。店の住所や連絡先が記載されていて、少し厚みがあり光沢を持った名刺は高級感がある。
そして先程から何度も言っているが、名刺だけではなくバーテンダーも最高に格好良い。この顔も見ているだけで癒される。
私は極度の面食いで顔面優良男性に目が無い。とは言え、ホストには興味がなかったのが、唯一まだ救える所な気がする。
名刺を眺めながらジントニックが出来るのを待っていると、目の前に注文したものが置かれた。手際が良く出てくるのが早い。
頼んでいた物は縁にライムがかかっており、グラスの中で気泡が立ち上っている。一見バーでよく見るジントニックと何ら変わらない、オーソドックスなものだった。
「いただきます」
そのままグラスを掴んで口元まで持っていくと、喉奥にグラスの3分の1程度を流し込んだ。その瞬間炭酸が喉を刺激しながら通り、疲れた体に爽快感をもたらした。今まで飲んだジントニックの中で一番美味しい。
バーテンダーの顔が良く、お酒も美味しくて、雰囲気も良い。ここを好きにならない理由が無く、既にこの店の虜だった。きっと私は近い内にこの店の常連になる。
「すごく美味しいです」
「ありがとうございます。光栄です」
感想を伝えるのは下手なため美味しいと素直に伝えると、上品な笑みを向けられた。一体その笑顔でどれほどの女性を落としてきたのか計り知れないが、事実今私は目の前がチカチカとした。
話していると相原さんの人柄も落ち着いた雰囲気なのに、顔は随分若く見え、ふと年齢の事が気になった。二十代後半……、くらいか……なんて想像をして「おいくつなんですか?」と問い掛けた。
普段は人の年齢を聞くなんて失礼な事をしないが、この興味には勝てそうになかった。
「二十八です」
「ええ……!? もう少しお若いかと思ってました」
「よく言われます」
そう苦笑いをしているのを見て、若く予想してしまったのも失礼かと少し反省した。
幼い顔立ちという訳では決してないけれど、肌も綺麗でなんとなく若く見えるが、どこからか溢れ出ている大人の余裕みたいな雰囲気を考えると、確かに二十八歳と聞いても全く変ではない。
「お姉さんのお名前と……、もし失礼じゃなければご年齢聞いてもいいですか?あ、聞くのがそもそも失礼かな」
そう言いながら少し申し訳なさそうに言う相原さんに、笑って首を横に振る。聞かれるのが嫌だという女性は一定数いるだろうけど、私はそう言うのは気にしない。
それと周りの女性がよく「何歳に見えますか?」と期待を孕ませた声で聞いているのもよく見るが、そういう駆け引きも私個人としては楽しめるものでもなく、面倒なのでしない。
「朝比奈 夏帆です。二十六歳」
私の名前と年齢を聞いた後、男性は少し目を見開いた。
「……夏帆さん、ですか。もしかして地元はこの辺ですか?」
「いえ、地元は違うんですけど大学がこの辺りで」
私と相原さんは初対面なはずで、どこかで会った記憶なんて当然ない。それなのに相手はこちらを知っているような反応。
相原さんが「そうでしたか」と柔らかい笑顔で返事をしたのを見て、それ以上は言及しなかった。
「仲良くなりたいので砕けた話し方で大丈夫です。俺もいいですか?」
「もちろん」
急に人に距離を縮められる様な感じは実はすごく苦手。
だけど、相原さんの距離の縮め方は嫌な気がしなかった。
「仲良くなりたい」という言葉は、営業の上で出た言葉かもしれないが、こちらもこれからもしこのバーに通う事になるならばいい関係性を築いておいた方が後々都合がいいから快諾した。
話している内にふと頭の中で、この店に到着する前の光景が頭に過った。
路地裏の方でキスをしていた男性が、相原さんと同じ服装をしていたことを思い出した。もしかしたらここの店員なのでは無いかと予想し「そう言えば、ここもう一人働いていたりします?」と、軽い気持ちで問い掛けた。
制服でもなく私服あんな恰好をした男性はいると言われればいるし、勘違いかもしれないと思うのに、聞かずにはいられなかった。
出来れば違うと言ってほしい。気に入ったバーでそんなふしだらな男がいるなんて思いたくもない。何も考えずに穏やかでいられる癒しのバーであってほしい。
「ああ、そう言えば帰ってこないな。お客さんがタクシー乗るまで見送ってくるって言ってたけど」
そう言いながらドアのほうを見て眉を顰めていた。
怪訝な表情も美形なのがうらやましい。
そんな私の馬鹿な思いを首に横に振って消し去り、じゃあ、やっぱりさっきの男って……と考え始めた時に、店の扉が開いた。ベルの音に引っ張られるようにドアの方へ目を向けると、先程見た黒髪男の姿があった。
違和感は気のせいなどではなかった。
先程外で女性とキスをしていた男は……、
⎯⎯⎯⎯⎯大学時代付き合っていた元彼だ。
コメント
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ああ、なるほど……これは面白い構成ですね。読み終わって「やられた」と思いました。 主人公・夏帆の疲れた日常描写から、雰囲気の良いバーでの出会い、そして最後の一文で全ての意味が変わる——この「Prologue」というタイトルが効いてますね。最初はただの「いいバーを見つけた話」かと思いきや、あの路地裏のキスシーンとバーテンダーの相原さん、そして最後の元彼という三つのピースが一気にはまる瞬間の気持ちよさが素晴らしかった。 相原さんが「夏帆さん?」と聞き返したところで、すでに何かあると感じましたが、まさか本人が元彼だったとは。タグの「クズ」と「再会」がここで回収される構成、巧みです。続きが気になります。