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まなこ〜友
117
#ますしき
T
5,800
「遅い、雅」
相原さんが不機嫌そうに彼の名前を呼ぶのを聞いて確信した。彼は、黒崎《くろさき》 雅《みやび》、二十八歳。先程も言ったが、私の大学時代の元彼である。
交際の内最後の一年は遠距離で、会ったのは五年も前だったが、三年も交際していたしその顔も声も雰囲気も忘れる訳が無かった。
少し違うのはあの時よりも大人っぽくなり色気が出て、格好良くなっていたこと。そんな彼が今、目の前で少し驚いた表情をしてこちらを見ている。
「夏帆?」
「……」
私を呼ぶ落ち着いたテノールくらいの程よい低さの声に、何も返事なんてできはしなかった。
こんな形で会いたくなかった。何でこっちにいるの。
驚きと複雑な気持ちで何も言葉は出てこない。
私達は大学の先輩と後輩で、サークルも一緒だった。そこで交際を始めた相手だったが、一足先に遠方で社会人になった雅くんと、まだ学生だった私は遠距離恋愛になり、その結果上手く行かず破局。
嫌いになって別れたわけでは無く、今も時々思い出してしまう事もあった元彼。
ここを離れ大手企業で就職をしていた彼が、まさかこちらに戻ってきているなんて思っていなくて、バーで再会なんてこと当然予想もしていなかった。
姿を見てから動揺してしまって、どう声を掛けていいか分からない。ずっと会いたかった様な、会いたくなかった様な、一言ではとても言い表せない感情。
雅くんはその間に落ち着きを取り戻し、私の顔を見て少し笑うと「久しぶり」と、声を掛けてきた。
「元気そうでよかったわ。何も変わってないな」
そう言いながら雅くんはカウンター内に入る。当たり前の様に中に入ったという事は、ここの店員で間違いないらしい。
何も変わってないなんて言ってくる雅くんに、どう返事をしようか悩んだけれど、先程の光景もあり軽くショックを受けてしまっていて「…雅くんは変わったね」と皮肉交じりの言葉を無意識に返していた。
昔は外であんなキスをする人じゃなかった、元彼のあんな姿見たくなかったなんて、どれも私には関係無いのに考えてしまい、今は感情がぐちゃぐちゃだった。
「そりゃ五年も会わなかったらね」
「五年で何があったら外であんな風にキスするの」
「はあ、雅。もうやめなって言ったじゃん。お客さんとそういうの」
私の言葉を聞いた相原さんが溜息を吐いて呆れていた。その感じを見るにもう何度も常習的に行われている様で、周りも知る程の遊び人らしい。
「それでまた金落としてくれんなら良くない? 営業営業」
相原さんの言葉に反省する様子は無く、むしろ面倒だとでも言いたげに溜息を吐いて、グラスにお酒を注いでいた。
女性の気持ちを弄ぶような発言に、思わずはっと短い笑いがこぼれた。
なんだか先程まで会いたかったかも、なんて思っていたのを後悔する程、今は雅くんにがっかりしてしまっている。こんな人だった? と幻滅すらしている。
恋愛経験は決して豊富ではない私だけど、それでも今までで一番好きだったと言える。一度は結婚なんかも本気で考えた事すらあるほどには。
雅くんが大学卒業して、離れる時に『夏帆が卒業したら結婚しよ』なんて、プロポーズしてくれて、あの頃の私はまだ学生だったのに本気だった。
だけどもう、そんな風に誰かを一途に好きでいてくれる雅くんはいない。
当時、振ってしまったのは私だったけれど、それでも別れた事をずっと後悔していて、かなり長く引き摺っていた相手だった。付き合っている時の雅くんは今では考えられないくらい一途に好きで居てくれて、私もそんな雅くんが大好きだった。
なんてそこまで考えてみたが、いや…、五年前の事を言い出してもだわと、そんな感情は溜息と一緒に外に追いやった。
別れた元彼にこんな事思う必要が無い。
遊び人になってしまった所で、私には何の関係も無い。
「てか今何してんの。夏帆」
雅くんの言葉で考え事をやめ、意識を会話へと戻す。
カウンターの中で台に手をつきながらこちらを見ている彼を見た。
相変わらず無駄に見た目だけはよく、スタイルも良い。
一つ外されたシャツの一番上のボタン。
そこから首筋が出ているだけでも妙な色気があるのがまた腹が立つ。
「広告代理店の仕事。あんたが興味ありそうな話なんかじゃない」
「へー、なんか意外。てっきり何だかんだアパレルとか行くと思ってた」
「何で?」
「おしゃれとか好きだったじゃん。頭の天辺から足の爪先まで着飾るの楽しいって感じだったし」
確かに私はオシャレや美容関係のお仕事に興味があった。というか、今も趣味として自分でしてみたり、雑誌を読んだりするのは好きだ。美容師やアパレル関係のお仕事も高校時代は夢に見ていたけれど、大学進学する時にとっくに諦めていた。
人にメイクや髪をして、服を決めてあげたりするのは趣味だからこそ楽しめると思った事もあったから。今の仕事も働いてみたら凄くやりがいを感じ、今の自分に何の後悔もしていない。
「てか今も見た感じ、働いて出来る女って感じ。すげぇいい女に見える」
「いろんな女性と遊んでいる遊び人にそう言われるなんて光栄だわ」
簡単に縒りを戻せそうだの、セフレ関係などに持ち込まれても困るので、先に笑顔で牽制しておいた。
雅くんにその気があったかどうかなど知らないが、過去に想いを寄せ合った男女がそう言う関係になりやすいのは、周りの友人から学んでいた。彼が今どんな気持ちであれ、この遊び人に捕まらない様に、牽制しておくに越したことはない。
そんな私と雅くんの会話を聞いた相原さんが口元を隠して肩を震わせている。
「雅が口説き失敗してんのおもしろ」
「黙れ」
雅くんが少し苛立った様子で煙草を取り出し、口に咥えるとそのまま火を点ける。
煙草もまだやめていなかった。それでいて酒好きも変わっていなさそうだから、相変わらず不健康まっしぐらな生活をしているのだなと察した。
当時出会った時には吸っていたし、この男の事だから煙草もお酒も二十歳からなんて法律守れるわけもないだろうと想像すると、もう十年は続けている事になる。
雅くんの事だし、健康診断なんてしなさそう。定期的に健康を気遣って、行っていても笑えるけど…というのは流石に心の中に留めておいた。そもそも健康に気遣うくらいならば酒も煙草もやめた方が良いし、そんな彼の想像も付かない。
「てか、良い男出来た?」
「居たらあんたの事見た時点で逃げてる」
「何で? 元彼ってそんな?」
「いや、あんたが危険だから」
「危険って、まだ再会して数分だろ」
「数分で漂ってんのよ。いろんな女関係のくっさい匂いが」
そんな私の発言に笑って「否定はしねぇけど」なんて言っていた。
忘れていたけれど、そもそもこの男は大学で出会った時、誰にでも手を出すと有名だった。
十八歳の大学入りたてでこの辺よりも田舎な地元を離れて出てきた私は、こんなに綺麗な顔をした男に出会ったことがなかったから、私もコロッと騙された。
交際している間にまともになったと思えば、別れてからまた手が早い男に戻ってしまっただけのようだ。性格の悪さと格好良さだけパワーアップされて戻ってきているから余計に質が悪い。
とはいえ、お互い大人になって友人として話す分には、なんとなく雰囲気も合っているし、むしろいい関係性を築けるのではないかと思う。
「でも何でそんな綺麗なのに夏帆ちゃん彼氏作んないの? よく声かけられるでしょ」
相原さんの言葉に「綺麗なんてお上手」と笑って、手元のグラスの氷を溶かし温度を統一させるために軽く揺らした。
「確かにお付き合いの話は何度か頂いたんだけど、仕事が楽しかったし、お断りしていたの。交際しちゃったら仕事を優先しちゃいそうだったし」
「わけわかんねぇ。遊ぶ為に働くんじゃねぇの?」
「そういう人もいるだろうけど、私は仕事が好きだったから。でも最近三十歳に近付いてきて、結婚まだしないのかみたいな、親と会社からの圧じゃないけどすごいわね。私はまだ結婚したくないし…、最近それがストレス」
「へー、まだそんな古臭い事言う人いるんだ」
「昭和生まれの頭かたい奴だけだろ」
そうバッサリ言い切ってくれる二人もここに関しては、私と同じ気持ちだと知って安心した。
会社はともかくとして、両親が私の事を心配しているのはわかる。特に一人娘だし、今後何かあったときに一人でいてほしくないという親心で…というのは、娘の立場としても理解はしているのだけど、どうしても今は結婚だけは前向きになれない。
「親が本気で心配してて…、その内本気でお見合い相手探されそう」
「何か想像つくわ…。あの親だもんな」
「あの親って?」
「すげぇ過保護。一人娘だから可愛がられすぎてる。夏帆は箱入り娘って感じ」
「…ご丁寧にご説明どうも」
箱入り娘なんて呼ばれるの本当は悔しいけれど、雅くんの言葉は否定できない。甘やかされ、大事に育てられた自覚はある。
そんな状態だから一人なことに尚更心配されているのは分かっているのだけど、今は誰かと暮らすとか結婚して一緒になるとか考えられない。
このまま好きなだけ働いて、優雅な暮らしして好きなように生きるのもいいかと思っていたりもする。一生懸命働いて、お金がどんどん貯まって、記帳した時にその数字を見ているのが今はすごく楽しい。
それからこうして息抜きにお酒を飲んで、好きな時に遊んで、好きなおしゃれを好きなだけ楽しんで…、そう考えただけで胸が躍るような気持ちになる。
「夏帆ちゃん、なんか飲む? 空になってるよ」
考え事をしていると相原さんに声を掛けられて、手元に置いておいたメニュー表を見た。
「うーん、何にしようかな」
悩んでいると「俺適当に作ろうか、上手いよ」と言いながら煙草の火を消し、私の前にあった空のグラスを回収した。
雅くんにお酒を作ってもらうのなんて初めてだし少し身の危険を感じるけれど、どんなお酒が出てくるのか興味はある。なぜ身の危険を感じるのかは、偏見だけどすごく度数の高いものを作って渡してきそうだと思ったから。
そう疑いを抱きながら雅くんの方を見ると、少し微笑み小首を傾げている。そんな態度が余計に少し胡散臭く怪しさを増している。
「…度数高くしないで、酔いたくないから」
「酔ってからが楽しいじゃん。酒なんて」
そう言いながら人の返事を待たずして、既にお酒を作り始めている。
何を入れているのかとかあまり見えていないけど、手際よくお酒を作る姿は格好いいと思ってしまった。何をしても様になるのは昔からで、性格が悪いと知っているのに、顔が良ければうっとりする自分を殴ってでもいい加減にどうにかしたい。
「ねぇ、本当に度数低めにしてよ? 酔ったら帰り方わかんなくなるでしょ」
「そうなったら、俺が送ってってあげるじゃん」
「勘弁して」
笑いながら話していると、すぐにオレンジ色のカクテルが運ばれてきた。縁にはスライスされたオレンジが添えられていて、こんなにオシャレで可愛い一杯が出てくるなんて想像もしていなかった。
「え、可愛い」
その愛らしい色味に、思わずスマートフォンを取り出してシャッターを切る。きちんと撮れたか画面を確かめると、間違いなくフォルダー内に保存されていた。
それからようやくカクテルに口を付けると、爽やかな風味が広がり、驚くほど飲みやすかった。約束通りアルコールも抑え気味で作られている。
「美味しい…」
「柑橘系好きだったし、こういうのも好きでしょ」
そう話しながらも、手元はキッチン周りを綺麗に清掃している。
そんなことまで覚えているなんて、予想外だった。フルーツ全般が好きで、中でもオレンジやグレープフルーツといった柑橘系に目がないのは事実だけれど、とっくに忘れ去られていると思っていた。
昔から、私は果実系のリキュールを炭酸で割って飲むのがお気に入りだった。雅くんは、もしかしたらそんな些細なことまで覚えていてくれたのかもしれない。
先程まで近くに居た相原さんは他のお客さんの注文を取りに向かったため、カウンターは束の間の二人きりになった。雅くんも他の席へは行かずに、台を拭いたり洗い物をしたりと作業をしながらも、ずっと私の前にいてくれている。
二人になれば流石に気まずくなるかと思ったが、今のところそんな気配はなく、むしろ心地良い会話が途切れることなく続いていた。
「ここ何時まで?」
「一時まで、だけど常連とか来て盛り上がってたら何時まででも開けてる」
そう答えながら煙草を取り出して口に咥えると、煙草に火をつけている。私と再会してからもこの短時間で本日既に二本目を見ているので、かなりのヘビースモーカーだと予想した。
私自身あまり煙草は好まないが、雅くんの煙草を吸う仕草を見ているのは昔から嫌いじゃなかった。理由はそんな姿が大人に見えて格好良かったなんて、本当に単純な考えをしていたのだけれど…。
大学当時から私が知っている周りの男子より大人びていて、本当に格好良くて、久しぶりに見た今でも顔が良いからグッと胸を掴まれた感覚に陥る。
…もちろん冷静になって、この男の性格まで考えなければの話だけども。
顔ばかり見惚れていると誤った感情に行きつきそうなので、カクテルの方に視線を逃した。
コメント
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久しぶりに再会した元彼が、昔より色気を増して遊び人になってる…っていう冒頭の空気感、すごくリアルでした。主人公が「こんな姿見たくなかった」と思いながらも、カクテルの好みを覚えられて動揺する心情の揺れが丁寧で、ぐっときました。あのオレンジのカクテル、スマホで撮りたくなる気持ち分かります。続きが気になります!