春の風が、校門前の桜を揺らしていた。
橙田えとは制服の袖を軽く押さえながら、足を止めた。
どこにでもある平凡な高校のはずなのに、胸の奥がざらりと音を立てる。
——もう二度と、この色に染まることはないと思っていたのに。
橙色の髪を後ろで結い、無花果色の瞳を細める。
あの頃の“橙の女王”なんて呼ばれていた自分を、誰も知らない。
いまの彼女は、ただの十八歳。
静かに卒業を待つだけの、普通の女子高生だった。
「おーい、えと!」
元気な声に振り返ると、桃色の髪がひらりと舞う。
桃井のあ。大学に進学しても、えとの面倒を見にしょっちゅう学校へ来る親友だ。
「またぼーっとしてんの? 朝から重い顔してると、春が逃げるよ?」
「……逃げてもいいよ。春なんて、すぐ終わるし。」
「はい出た、橙田えとの根暗発言〜!」
のあが笑ってえとの肩を小突いた。その軽さに、えとはようやく口角を上げる。
そんな何気ない日常が、好きだった。
喧嘩も、流血も、裏切りもない穏やかな時間。
誰も“あの名前”を呼ばない世界。
——でも、それは今日で終わる。
ざわり、と。
校舎の方から、妙なざわめきが広がった。
えとは眉をひそめる。人垣の向こう、視線が一点に集まっていた。
「転校生だって!」
「中等部から上がってきたって話!」
そんな声が、風に混じる。
えとは無意識に歩き出していた。
胸の奥が、ずっと凍っていた場所が、熱を帯びる。
——まさか、ね。
人垣を抜けた瞬間、時が止まった。
黒髪に、前髪の一部が赤く染まった少年。
血のように赤い瞳。
そして、どこか痛々しいほどに整った横顔。
「……赤井、ゆあん……」
声が震えた。
彼はゆっくり顔を上げ、えとを見た。
その瞳の奥で、懐かしさと、痛みと、少しの微笑みが交錯する。
「久しぶりだな、橙田えと。」
名前を呼ばれた瞬間、心臓が跳ねた。
彼が消えたのは三年前。
“赤の悪魔”と恐れられた少年。
そして、えとが守れなかった——唯一の“後悔”。
ざわめく周囲の声が遠ざかる。
えとはただ、ゆあんの赤い瞳を見つめていた。
まるで、過去と現在が重なったように。
「どうして……今さら戻ってきたの?」
「約束、まだ終わってねぇから。」
その一言で、世界の色が変わった。
春の光の中、えとは気づく。
封じたはずの自分が、また息を吹き返す音を立てていることに。
——橙が、再び燃え始めた。
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