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いくつも連なった格式高い和室、遠くまで真っ直ぐ見える廊下。ありとあらゆる装飾が施され豪華絢爛、見事とも云える職人技が光る其処はまさしく御殿。
煌びやかながら静寂に包まれた御殿の中を靴も履かず袖下に赤糸で金魚が刺繍された黒い浴衣だけという心もとない服装をした青年が走っていた。
「はっはっはっ……!」
呼吸をするたびに入り込む空気が肺を軋ませ、ドクドクとした動悸が息を出来なくさせる。
しかし足を止めるなどあってはならない、なぜならようやく”此処から出るチャンスがやってきた”のだから。
突如として拐われたのは楽座の時。
そいつは見上げるほど大きく、自身を毘灼の頭と名乗った。圧倒的な力の差で抵抗しようもなす術なく淵天を奪われた挙げ句、気が付けばこの御殿に閉じ込められていた。もちろん此処から出ようと御殿内を歩き回り、人がいないかどうか調べもした。
だが摩訶不思議なことにどれだけ襖を開き奥へ進んでも部屋は連なり、ようやく見つけた格子窓も格子を壊しそこから飛び降りたとて元の部屋に投げ出される。まるで終わりのない迷路のような構造。いや、そうなるよう”例の男”によって妖術がかけられているのだろう。
この場所が例の男の手によるものなら何か罠があり、それにかかれば殺されるのではと危惧をしていたが予想に反し朝昼晩、時間になるといつの間にか食事が置かれているし、夜には風呂が沸いている、布団もなぜか綺麗に敷かれており何不自由なく生活出来てしまっている。
正直なところ、肩透かしを食らったのが事実だ。楽座の時、確かに自分とあの男は刃を向け戦っていた。なのにこの状況は一体何だろうか、全くもって理解し難い。
一刻も早くあの場所へ戻り己の為すべきことをしなければならない、早く、早く戻らなければ。
「俺から30分間逃げ切れば此処から逃してやる。もちろん淵天も返そう」
「その代わり……もしお前が逃げきれなかったら、俺の好きにさせてもらうぞ」
鬼ごっこはこの一言で始まった。
襖を開き、幾つもの部屋を抜け畳の上を駆け抜ける。近くでは自分以外の音はしない、きっと彼奴……目の周りに特徴的な黒い刺青のある酷薄な笑みを浮かべた憎き仇は周辺に居ない。
しかし背中がチリチリと焼き付くような視線は依然として感じる。
「はぁっ……どこにっ」
存在は感じる。きっと自分を片手間に追いかけながら高みの見物をしているのだろう。
あの日の記憶をよく覚えている頭は早く淵天を取り戻し殺せ、そう司令を下そうとする。
しかし今、この場でしなければならないのは”鬼”であるアレから時間内まで逃げ切ること。逃げ切り、淵天さえ手に入れれば。
「とんだ悪趣味だな……っ!」
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小さな幼子がキョロキョロと周りを警戒しながら走りまわるのはなんと愛くるしいことか。
妖術を使い見ていた幽はにこりと笑う。
六平国重、この世界で妖刀を作ることの出来る唯一の刀匠。そして六平国重の実息子である六平千鉱。
六本の妖刀を奪う為に国重の隠れ家へ襲撃をした時が千鉱と初めての出会いである。
ただの黒髪と言い表すにはおこがましい、深みのある漆黒の髪、涙で反射しキラキラと透けるような緋色の目。
刀匠としてはまだまだ未完成な少年、しかしこの少年は将来どうなるのだろうか?唯一と言える肉親を失い、居場所を失い、全てを失い残されるのはきっと絶望と復讐心だけだろう。いまここで復讐の蕾たる少年を摘んでしまっても良い。正直なところ今ここで持ち帰ってしまいたい感情が強い、だが蕾はいつか開花し大輪となる、もし強くなり己の脅威たる時が来たら大事に摘んで鑑賞するのもまた一興。
自身の身を焼かれるような興味と執着と、愛情を零すことなく育て、いつかくる日に一切合切をぶちまけるように愛籠してやるのだ。だからその日が来たら決して逃すことはない、そう確定事項を取り決めた。
殺した刀匠の実息子である千鉱との出会いは毘灼にとって執着と興味を与えるには十分。
その千鉱が楽座で目の前に現れたとき過去に起こそうとした行動は躊躇いなく”今”起こされた。
過去の出会いから現在に至るまで彼に対する心境に変化は無くむしろ日々増すばかりだった。少年はあの日からどのような成長を遂げているだろうか、何度も想像することはあった。しかし実際に目の前にいる人物は無力で泣くだけの、何も出来ない少年から妖刀を持ちルビーを溶かしたような燃える真紅の瞳に復讐心を携えた青年へと至極の成長を遂げていた。
そんな現状の中で最上の獲物が二人きりという最高の場面、躊躇うはずもなかった。
六平千鉱の為だけに作り出した建造物、服、食事、それら全てを享受する彼を見るのはとても愉快だった。しかしまだ足りない、己の執着と悦楽を満たすには。長い間待っていたのだ、あの日からずっと。
あの強かな赤い眼を歪ませるにはどうすれば良いだろうか。
仲良さげにしていた白髪の弱そうな少年を半殺しに?小さな少女を人質にすれば?それとも……
思案した中で一際興味を唆るものを一つ思考した。これを見せたら彼はどんな表情をするのか。どれ面白いものでも見せてやろうと腰を上げると椅子がぎしりと音を立てた。
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この馬鹿げた鬼ごっこが始まってからしばらく経った、走っている距離から見てもあと数分といったところだろう。
あの男は未だ焼きつくような視線を向けてくるだけで姿は見せない。この提案をしてくる時点で何か勝てる算段があるのだろう、となれば最後まで気は抜けない。あの男に見つからぬよう早く逃げ切りさえすれば良いだけ。
そう考えているのになぜか本能が警戒しろと震える。
「六平千鉱」
静寂に包まれ自分の息継ぎの音と足音が響いていた廊下から声が響く。
勿論それは自分の声ではない、となれば導き出される答えは一つ。あの男だ。
逃げ切るにはこの障害物も何も無いまっすぐな廊下では分が悪過ぎる、ちょうど右側にある部屋へ舵を切るため足に力を入れるのと後ろで男が口を歪めるのは同時だった。
襖を開いた瞬間、広がったのは見覚えのある光景。硝煙と血の匂い、これまで生きてきて一度たりとも忘れたことはない。
決して他者に侵されてはいけなかった父との思い出が詰まった大切な場所、憧れていた父と自分の居場所。
それが燃やされ父が地に伏している。
「ぁ…………」
目が離せない、額の傷が熱い、自分の呼吸と鼓動だけが異様に大きく聞こえる。
早く父のそばへ行き助けなければ。
早くこの先へ踏み出して後ろにいる男から逃げ切らなければ。
今しなければいけない事を考えようにもごちゃ混ぜになって答えを導き出せない、それに加え足は凍ったように動かない。
余計なことを考えるな、動け、早く、早く。
「捕まえた」
「……っ!」
彼奴は自分の意識が目の前の光景に囚われている間に距離を詰めてきたらしい。
どうやら自分はまんまと彼奴の術中に嵌ってしまった、それに気付くのにも時間がかかった。
逃げようと体を動かそうにも体を後ろから抱かれていて動くことが出来ない。
大きな手が視界を覆うと意識がじわじわと暗くなっていく。
意識が落ちる間際、最後に聞こえたのは父の亡骸を前に泣くあの日の自分の声だった。