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街中から遠く離れた山奥、世間から秘匿されたそこでカン、カンと高い音が空気を震わせている。音の発生源は木々に囲まれた一つの建物から響いているようだ。炉から燃え上がる炎の側で、火花を散らしながら一人の男が鋼を打っている。叩き、延ばし、折り曲げてはまた叩く。
「…よし」
不純物を叩き出し形を整えた刀身を見下ろす。長く時間はかかったがようやく完成させることができた。後は研ぎ師に依頼すれば美しい刃文が顔を出すだろう。思い起こされるのは地下に眠る六本の刀。それらの特殊な能力によって戦争を勝利へと導き、そして地獄絵図を作り出した。
「こいつなら、きっと…」
それきり黙ってしまった男が刀を強く握る。戦争が終結した今、七本目となる刀を打った真意は彼しか知らない。思いと願いを込められた刀身が炎に照らされ、応えるように鈍く光ったような気がした。
研ぎ師から持ち帰った刀を鞘から引き抜く。刀身は光沢を放ち、地肌と刃文が美しく浮かび上がっている。鋭い白刃を前に刀匠、六平国重としての最後の使命を果たす。
「淵天」
名は随分前から決めていた。祈りにも似た思いが込められた名だった。とはいえ、戦争兵器でもあるこれを振るう時が来なければいい。納刀し、刀掛に置かれた刀は厳かな雰囲気を纏っている。部屋を後にしようと背を向けた、その時だった。
「…っ何だ、」
覚えのある違和感を感じ、廊下へと踏み出していた足を止め思わず振り返る。視線の先、淵天の鍔と鞘の僅かな隙間から重力に逆らって水滴が昇っていく。とぷん、と黒い小さな影が細い水面から跳ね上がった。それは一匹の黒い金魚だった。宙に漂う水滴を縫うように泳ぎ、薄い尾鰭が体に合わせてひらひらと揺れている。
(妖刀特有の、玄力反応…!)
何故今、契約者が存在していないにもかかわらず一人でに能力が発現しているのか。動揺する六平に構わず金魚は優雅に廻る。淵天が微かに発光し始め、やがて強い光を放ち視界が金一色に染まる。焼かれるような眩しさに手を翳し固く目を瞑ることしかできなかった。瞼の裏を刺激する光が収束し、薄く開いた視界が目の前の光景に釘付けになった。
────そこには、一人の子どもが倒れていた。白い襦袢に包まれた体はまだ小さく、全身で刀を抱き締めるように横たわっている。短い黒髪は照明を受けて艶を放ち、この二色だけが子どもを構成する色彩だった。刀掛に置かれていた淵天は消えていた。
「…おいっ!大丈夫か!?」
突如現れた子どもに思考と体が停止していたが、弾かれるように駆け寄った。白い頬は見た目に反して子ども特有の温かさを持っており、小さな寝息にほっと安堵の息を吐いた。肩を何度か揺するとむずがるように眉を寄せ、薄く開いた瞳が六平の姿を捉えた。
「主」
完全に覚醒した子どもが体を起こし、緋色の大きな瞳が真っ直ぐに六平を射抜く。まるで生き写しのような容姿を持つ小さな存在に見上げられ困惑する。もし息子ができたらこんな風に育つのかもしれないと、混乱した頭が場違いにも想像してしまった。
「…主って何だ?お前は誰なんだ?何処から来た?」
「おれは淵天。おれを打ったから、あなたはおれの主」
幼い見た目に反して淡々と、表情を変えずに衝撃的な事実を述べた子どもが手を翳す。宙を泳いでいた金魚が細い指先に近づき、戯れるように体を擦り寄せている。そのまま子どもの体の中へ溶けるように消えていった。
「淵天って…。え、お前が刀ってことか?」
「そう。あなたが呼んだから、おれは出てきた」
「まじか…」
こくりと頷いた子ども──淵天の主張を飲み込むように長く息を吐いた。つまり、作り手である六平を主として慕っていると。名付けた際に主に呼ばれたと認識した淵天が人の身を取り姿を現した、と。そういうことだろう。
「んー…そういうもんなのか…?いや、うん、そういうもんか!淵天は特別ってことだな!」
目の前の存在から悪いものは感じられない。友人も認める眼の良さとおおらかな気質は六平の長所だ。にかりと笑った六平の大きな手が淵天に向けられる。
「…?」
差し出された手を見て僅かに首を傾げたが、主を真似るようにそっと小さな手が重なり握り込まれた。
「これからよろしくな、淵天!」
「…うん。よろしく、主」
初めて触れた人の手は大きくて温かくて、どこか安心する感触だった。
斯して六平の生活に淵天が加わったが、大きな変化はなかった。そもそも目的があって淵天を呼び出した訳ではない。「主、敵はいる?いるなら斬る」「敵!?いないいない!」物騒な発言をした淵天に戦争は既に終結していること、此処には自分しかいないから危険性はないことを説明する。刀としての本質を果たす必要のないことに困惑した様子だったが、やがて六平の後をついて回るようになった。何処に行くのにも小さな体で後を追いかける様は、雛鳥の姿を連想させる。流石に襦袢のままでいさせるわけにはいかないので、六平の服を着せ袖を幾重にも折っているが動きづらそうだ。旧友二人に子ども用の服を頼みたいところだが、意思を持つ妖刀の存在なぞ大事になるだろう。上手く説明できる気もせず、未だ明かせずにいたのだった。
「主」
「その主ってのやめてくれ。慣れないし何か擽ったいんだよなぁ」
「じゃあ何ならいいの」
「えっ!うーん……あ、父さんでいいだろ!」
名案だというように笑う六平を前に、まだ少ない知識を総動員しその単語の意味を思い起こす。
「それって血の繋がってる親子が使うものでしょ」
「淵天は俺が打ったから生みの親ってことになるだろ?」
「……そういうものなの?」
「おう!あ、じゃあお前にも名前付けないとな!」
「名ならあるけど」
「そうだな!でも父親として、息子のお前に名前をあげたいんだ。一晩考えさせてくれ」
「…わかった」
“息子”。心臓の辺りが僅かに騒つき内心首を傾げる。その感情の正体はまだ知らぬまま、何処か明日の訪れを待つ自分がいた。
翌朝。心なしか早足で六平の元へ向かう。手招きされるまま向かい合った淵天へ、一枚の紙を差し出した。
「千鉱」
耳触りの良い音が鼓膜を揺らす。見上げるといつもとは違う、慈しむような微笑みを浮かべて六平が自分を見つめていた。
「お前の名前だ」
大きな赤い瞳が揺れる。体中の血液が沸騰したかのように熱くなり、心臓の辺りが苦しい。不快感はない。この感情に名前はあるのだろうか。ゆっくりと手元の紙に視線を移す。”千鉱”と角張った墨で書かれた字が鎮座していた。
「ち、ひろ」
恐る恐る、緊張した面持ちで音を発する。少し声が震えた。
「ちひろ、ちひろ…」
自分だけの音を唇に乗せ舌の上で転がし、響きを、思いを味わう。馴染ませるように繰り返すその頬は赤く色付き、雪解けに咲く花が綻ぶようにふわりと微笑んだ。
静かに見守っていた六平の手が頭を撫でる。そっと肩を引き寄せ、小さな体が腕の中に収まった。
「気に入ってくれたか」
「…うん。ありがとう……父さん」
水面から顔を出して初めて地上の空気を吸ったように、この時この世界でやっと産声を上げたのだった。
本か何かで知識を得たのか千鉱が家事を担い始め、徐々に親子二人の生活が形成されていく。最初は辿々しかった手付きもすぐに慣れ、その成長の早さに神童だと後に六平は語る。以前は六平が寝静まる頃に刀の姿へと戻っていたが、布団を並べ共に眠るようになった。摂る必要がないと興味を持たなかった食事を一緒に食べるようになった。何より、無機質だった千鉱が少しずつ人らしい表情を浮かべるようになった。息子の変化を嬉しく思うと共に、千鉱の存在に愛おしさとこの生活に心が満たされていることを知った。
千鉱は六平が刀を打つ姿が好きらしく、工房で作業をする時は必ずついて行った。生まれた場所であり炉の炎は安心するとぽつりと呟いていたのは記憶に新しい。作業がひと段落し鋼を打つ音が止んだ頃、不意に父さん、と小さく呼ぶ声がした。
「父さんはどうして此処に閉じ込められてるの?」
「うーん…まあ色々あってな。最終的には自分で選んだから、閉じ込められてるって訳じゃないぞ」
「でも父さんが打った妖刀が戦争を終わらせたんでしょ。なのに結界に囲まれて一人で此処にいる。…父さんの功績なのに」
此処で暮らし始めてから結界の存在にはすぐに気づいた。四方を囲むように外界と隔てるそれは、内から出る分には問題ないという。しかし、終戦後の背景を知らない千鉱には、何故戦争を終わらせたと言っても過言ではない父の自由を制限するのか理解できなかった。安全のためと言いながら、父を蔑ろにしているのではないかと考えてしまう。
「悪いことばっかじゃないぞ。此処ならのんびり刀打てるし、気に掛けてくれる友達もいるしな。それに、今はチヒロもいるから毎日楽しいぞ!」
「…それなら、いいけど」
「だからお前はそんな顔しなくていいよ。何にも心配することなんてないからな」
くしゃりと、大きな手が千鉱の頭を撫でる。工房を出て行った父を見送り、今し方撫でられた頭に自分の手を置く。絡まり合った糸のように自分でも分からない感情が胸に渦巻いたまま、抱えた膝に顔を埋めた。
季節が一つ巡り、千鉱の体は当初より成長し背丈が伸びていた。曰く、人と同じように時間の経過で成長していくらしい。そんなある日、部屋を掃除していた千鉱の手が不意に止まった。視線は扉を通り過ぎて玄関へ、さらにその先へと向けられる。
(───誰だ?)
大きな玄力が近づいてくる。今までこの閉じられた領域に誰も入って来ることはなかったというのに。ピリピリと体に伝わる感覚が、父以外の存在の接近を警告する。
「……っ」
何者かは分からないが、もし父を脅かす存在だったら。ぐるぐると胸の内に溜まっていた感情が溢れ出す。体温が上がるのを感じながら、自然と息を殺しながら縁側へと向かった。
「あ〜疲れた。ほんっま人遣い荒すぎやねん」
「こうも立て続けにヤマが動くとはね。流石に暫くは何もないと思いたい」
凹凸の目立つ山道を歩く影が二つ。六平の旧友、柴と薊が久方ぶりに訪ねてきたのだ。神奈備に所属する二人はここ最近多忙を極めていて、友人の元へ訪れるのも久しくなっていた。目の前の結界へ入り、薄い膜を通り抜けるような馴染みの感覚を得たが。
「……」
「どうした?」
「いや、…何もないわ」
頸を風が撫でつけたような、些細な違和感。結界に何かあれば感知するようになっているし、さっと視線を走らせるも異常は見られない。気のせいだろうと片付けた。
「こんちはぁー」
柴が大きな声で来訪を告げるも、しんと静まり返った引き戸が開かれることはなかった。
「何や、おらんのか」
「工房にもいなさそうだし、地下にいるのかも」
思い付きで来てしまったため六平は知る由もないだろう。友の姿を探すべく動こうとしたその時だった。
「っ!」
此処ではある筈のない殺気を背後から感じ取り、即座に振り返る。今まさに斬り掛かろうと此方に迫る一人の子どもがいた。鋭い刀身が虚しく空を切る音が響く。斬り掛かった姿勢を正し、瞬時に飛び退き距離を取った二人を警戒している。
「子ども…?!」
「…六平に隠し子でもいたんか?!」
六平の名にぴくりと反応し目を細める。両手で強く柄を握り左側に構える。陽光に照らされた白銀の刀身が輝き鋭さを強調している。腰を落とした低い体勢のまま、強く敵を見据えていた。
────来る。
重心が移動し前傾姿勢となり、僅かに後ろに下がっていた左足の爪先に力が入る。踵が地面から浮いた刹那、風を切って小さな鋭い刃が柴へ襲い掛かった。ヒュン、と胴体を狙って薙ぎ払うも躱される。一撃目が空振りするも表情を乱すことなく冷静に思考を回す。大の大人相手では埋められない体格差があり、一度捕まれば振り払うのは難しいだろう。
「低っ…!」
しかし、千鉱はその小さな体躯を生かして低い体勢を保ったまま斬り掛かり、素早さを以って攻めの手を緩めなかった。じりじりと後退する柴が背後に立ち並ぶ樹々へ近づくのを視認し大きく踏み出しかけた瞬間、後方から迫る気配に玄力を纏い加速した体がその場から逃れた。
「速い。動けるね、あの子」
「獣みたいやな」
介入した薊によって距離を開かされてしまった。どちらも玄力の気配が大きい。先程の手はもう使えないだろう。一瞬でも二人を引き離す必要があった。
ふ、と短く息を吐く。生まれてから使うことがなかったもの。しかし、本来果たすべき使命のために編み込まれた力を解放する。
「淵天」
増幅された玄力が高密度に練り上げられ、形を為す。ざぱりと墨のような黒い影が舞い上がり、一匹の金魚が顕現した。
「な、」
「そいつは…!」
後ろ手に構えた刀身が黒く染まり、寄り添うように金魚が泳ぐ。
「涅」
横向きに薙いだ刀身から不可視の斬撃が飛ぶ。風を切り裂いて迫る衝撃を間一髪屈んで回避した。一拍遅れて背後から樹々の倒れる地響きが伝わる。太く分厚い筈の樹の幹はすっぱりと切断され、荒さもない見事な断面を晒していた。
「妖刀…!」
記録にはない妖刀とそれを扱う子どもの存在に少なからず動揺する。その隙を見逃さず縦断された斬撃が二人を分断した。立ち上がる土煙に紛れ緋色の眼光が再び接近する。今度こそ仕留めたと思われた切先は何も捉えず、目を見開いた千鉱の左手首が強く掴まれた。
「捕まえたで」
刀を握ったまま手首を持ち上げられ、宙を浮く体が揺れている。体を捩るも大きな手が強く掴み上げ抵抗を封じられていた。
「君、何者モンや。何処から入った?」
「君みたいな小さな子どもが、何故妖刀を持っている」
「……」
厳しい表情で詰問する二人をじっと見つめる千鉱。やはり皆同じだ。父が生み出した妖刀にしか関心を向けない。その自由を奪っておいて、こんな所に閉じ込めておいて。沸々と湧き上がるこれはきっと怒りなのだろう。
「錦!」
三色の斑模様の美しい金魚が顕現する。玄力を増幅させ刃のように全身に鋭く纏う。バチリと弾かれ思わず手を離した柴の元から逃れ、素早く飛び退いた。
「チヒロ!?」
「っ六平、」
戦闘音を聞きつけ駆けつけて来たのであろう六平が姿を現したが、千鉱に声は届かない。意識が逸れた瞬間を狙い、錦で加速し大きく刀を振り上げた。
「やめろ、淵天!」
「…!」
千鉱の体が金色の光の粒子に変換され輪郭が解けていく。水中に湧き立つ泡のように粒子が散り消えた時には千鉱の姿はなく、そこには一本の刀が浮かんでいた。重力に従い地に落ちた刀がガシャンと音を立てる。静まり返ったこの場には斬り落とされた樹々と抉れた地面の跡が残るだけ。
「六平、どういうことや」
「事情を知ってるんだね?」
「…ああ。全部説明するよ」
物言わぬ姿となった千鉱をそっと持ち上げる。煌めく白銀の刃が鏡のように、憂いを帯びた六平の表情を映し出していた。
「…つまり、あの子は妖刀そのものだと?」
「そうだ。実際にその力を見せてもらったこともある。…戦う姿は初めて見たけどな」
「他の妖刀はそんなんちゃうやろ。なんでそれだけ特殊なん」
場所を移し、畳張の部屋に腰を下ろしながら淵天と千鉱についての説明を終える。俄かに信じ難い現象に言葉を失うも、先程の戦闘を思い出す。荒削りだが小さな体躯で妖刀を扱う姿。此方を射抜く赤い瞳は無機質で、敵を排除するまで止まらない冷徹な太刀筋。人の身を取った刀であると聞けば納得できる部分もあった。
胡座をかいた六平が隣に置かれた淵天をそっと撫でる。
「原理は俺にも分からない。でも、チヒロは優しい子なんだ。俺以外の人間に会ったことないとはいえ、いきなり斬り掛かるような子じゃない」
そう語る六平の表情は憂いを帯びていて、息子を心配する父親の顔そのものだった。同じ時を過ごしてきたのだろう。これ以上口出しするつもりはなかった。
チヒロ、と淵天に向かって呼び掛けるが反応はない。黙りを決め込む様子に子どもらしさを感じるも、理由を聞かねばならない。時折物言いたげな表情をしていた千鉱。もし自分のせいで何か誤解が生じているのならば、今正さないと取り返しのつかないことになりそうな気がした。
「チヒロ。…頼む、出てきてくれ」
懇願するような声色を感じ取ったのか、淵天が淡く輝き光の粒子を纏いながら千鉱が姿を現した。目線は下がり片腕を掴む様は、叱られることを悟っている幼子にしか見えなかった。
「チヒロ、何であんなことしたんだ?何か理由があったんだろ?教えてくれ」
立ち上がり、腕を掴み白くなった千鉱の手をゆっくりと剥がして大きな手で包み込む。安心する父の温もりが冷たくなった千鉱の指先に移る。声色は怒っていない。諭すような、静かで優しい音を感じ取り恐る恐る目線を上げる。眉を下げて微笑む父の表情が目に入り、自然と口は開かれていた。
「…父さんが此処に閉じ込められてるのは皆のせい」
「、チヒロ、」
「父さんも戦争を終わらせるために力を尽くしたのに。利用だけして自由を奪ってる。そんなのおかしい」
外の世界を知る術は限られていて、家に仕舞われていた本で戦争と妖刀の活躍を学んだ。詳細を知ることはできなかったけど、どれも最後には言っていた。妖刀が戦争を終結に導いたと。刀としても、息子としても父を尊敬する気持ちを抱いた。それなのに、六平はこの狭い世界で静かに生きることを強要されている。まるで存在ごとなかったかのように、否定されているような扱いが嫌だった。
「俺は父さんの刀だから。父さんを傷付けるなら全員敵で、斬るのが俺の役目」
芯の強さを感じさせる真っ直ぐな赤い瞳は、しかし悔やむように下がってしまった。
「…でも違った。この人達は父さんの敵じゃなかった。…ごめんなさい」
刀に戻っても周囲の音は拾える。三人の間で交わされる会話を聞き、敵ではなく寧ろ六平の身を案じていたことを理解した。自分の思い込みで関係のない人に斬り掛かったのだ。
黙り込んでしまった千鉱を見下ろす。以前から千鉱はこの生活に少なからず疑問を持っていた様子だった。一度だけ聞かれた時も汚い大人の話を聞かせたくなくて、大丈夫だと、それだけ言ったのではなかったか。隔絶された環境を選んだのは自分だ、それはいい。けれど、生まれてから此処しか知らない千鉱に、不安を与えるような真似をすべきではなかった。自身と共に生きるしか選択肢のない息子の不自由をなくすことはできないが、少しでも軽くしてやることが親としての役目だった。
「チヒロ、この二人は父さんの友達だ」
「…友達」
「うん。ごめんな、言葉が足りなかった。前にも言ったけど、俺は閉じ込められてるなんて思ってないし、不自由も特には感じてない。…や、ちょい街までは遠いけど。でもこうやってチヒロとのんびり過ごせてるのは、二人が協力してくれたからだ」
「父さんを守ってくれてるの」
「そういうこと。だから、チヒロも仲良くしてくれると俺も嬉しい」
成り行きを見守っていた二人にそっと視線を向ける。静かに此方を見る彼らと暫く見つめ合っていたが、六平にそっと背中を押され恐る恐る近づいた。
「あの…さっきはごめんなさい。怪我、してませんか」
「大丈夫、してへんよ。俺も手強く握ってごめんな。痛ない?」
「はい、大丈夫です」
「僕らも急に訪ねて来たから驚かせちゃったよね。ごめんね」
「いえ、いきなり斬り掛かった俺が悪いんです」
「ちゃうよ。君はなんも悪くない。お父さん守りたかったんやろ?」
千鉱の行動は全て父を案じた故のものだ。子を大切に想う六平と、父を慕う千鉱。本当の親子のように同じ時を過ごしてきたのであろうことは、二人の様子を見て瞬時に察せられた。
「俺は柴や。チヒロ君、柴さんとも友達なってくれる?」
「僕は薊。改めてよろしくね、チヒロ君」
それぞれ差し出された大きな手を、今度は迷いなく握る。
「はい、よろしくお願いします」
ふわりと控えめに微笑んだ千鉱に、もう影は見られない。ガシガシと千鉱の頭を撫でる六平が一番嬉しそうに笑っていた。
それからは、父との日常に新たな色が加わった。様々なことを教えてもらったし、二人に連れられて外の世界を見に行くこともあった。千鉱の中の透明なパレットに少しずつ色彩が加わり、埋まっていく。何より父に心の許せる友人がいて、楽しそうに笑う横顔を見るのが一番好きだった。刀の身では得られなかった温かさを、そっと一つずつ、冷めないように大切にしまっていく。
人はこれを幸福と呼ぶのだろう。やっと知ることができた感情の名だった。
「チヒロ」
嫌だ。やめてよ。
「ごめんな」
待って。置いて行かないで。
父さんあなたの温もりを、忘れさせないで。
その日もいつもと何ら変わりない筈だった。金魚達と会話をする父に呆れた目を向けながら朝食を作り、共に手を合わせる。食器を洗うのは六平の役目だった。鋼を打つ音が響く庭で洗濯物を干し、その澄んだ音に耳を傾ける。日が暮れると風呂を沸かし、温まった体で縁側に並んで腰掛けながら、夜空を見上げる。そんな一日が過ぎていく筈だったのに、壊れた時計の針は永遠に進まず平穏の終わりを告げた。
一瞬の出来事だった。大きな玄力を感知した時には既に遅く、轟音と衝撃が千鉱を襲う。叩きつけられた体と立ち上がる土煙に覆われた視界が、遅れて敵襲を訴えた。瓦礫と化した部屋を抜け出し外へ出た千鉱が目にしたのは、見知らぬ侵入者と負傷した六平の姿だった。六平の体から流れる血を目にした瞬間、顕現させた淵天を握り飛び出していた。一切の迷いなく首を刈り取らんとする刃は僅かに届くことなく阻まれた。地面から湧き出た樹の幹が蛇のように腕を拘束し、動きを止めた千鉱に牙を向く。吹き飛ばされた体は瓦礫に受け止められ、意識を揺さぶる程の衝撃が走った。
「チヒロ!」
膝を着いていた六平が立ち上がる動きを見せた途端、二人を阻むように樹木が乱立した。
「…父さんッ!」
震える体を叱責し必死に起きあがろうとする。熱を帯びた頭部から流れる血が視界を塞ぐが構ってなどいられなかった。自身に眠る力を解放しようとした千鉱の視界が、樹木の隙間から見える六平の姿を捉えた。
「チヒロ」
何でそんな顔をしているの。
まるで覚悟を決めたような、迷いのない強い瞳だった。澄んだ赤色が真っ直ぐに向けられ目を見開く。何をしようとしているのか悟ってしまった。
嫌だ。やめてよ。その先を言わないで。
「ごめんな」
眉を下げて微笑んでいる。何かを堪えるような、憂いを帯びた表情は父には似合わなかった。だからそれだけが、唯一好きじゃなかった。
体が金色の光の粒子に変換されていく。周囲の音も聞こえなくなり、存在が遠ざかっていく。
待って。行かないで。置いて行かないで。
「とうさ、」
伸ばした腕が溶けていく。ガシャンと音を立てて一本の刀が落下する。悲痛な子どもの叫び声は、風に攫われ消えていった。
「チヒロ君!」
どのくらいそうしていただろう。
聞き慣れた声と近づいて来る足音が鼓膜を震わせる。肩に触れた手から熱が伝わり自身の体が冷えていたことを知る。けれども、それは今一番欲しいものではなかった。
血溜まりに沈む父の手を握っている。刀を扱う繊細な手付きとは対照的に、やや乱雑に頭を撫でてくれた大きな手は酷く冷たくて。千鉱が初めて触れたあの温もりは、もうそこにはない。下された命が解かれたのだから。それが何を意味するかは、千鉱自身が一番分かっていたことだった。
内側に穿たれた風穴は、大切にしまい込んでいた色彩と温もりを奪っていった。虚を埋めるのはどろどろとした重くて黒い何か。それは留まることを知らず、淵から溢れて黒い血を流し続ける。怒りなんて生温いものではない。父と、父の思いと覚悟を踏み躙った奴らへの強い憎しみ。
「…俺が殺らないと」
憎悪で刃を研ぎ澄ませ。冷たい切先を、必ずやその喉元に届かせ掻き切るために。
優しく差し込む月明かりが黒い金魚の体を艶めかせる。尾鰭を羽のようにゆらめかせ、重力を感じさせない軽やかさで泳ぎ回る。気が済んだのか、それとも飽きたのか。部屋の中央に佇む一人の青年の元へ向かい、傷痕の残る左頬へ体を擦り寄せる。遊んで欲しいと甘えるような仕草を見せてもその表情は変わることなく冷たいまま。足元に転がる無数の死体と壁に飛び散る夥しい血痕。握られた刀は血に濡れていてこの惨状を作り出した元凶であることを知らしめる。コートの裾で雑に血を拭い、納刀した音が静かな空間に響き渡った。
毘灼の情報が得られないまま年月は過ぎていく。小さくとも黒い噂が立てば足を伸ばし、悪党を斬る。毘灼に関係がなくとも死ぬべきクズであることに変わりはない。特に思うこともなく、道端の石を蹴るように邪魔者を斬り捨てる。外れを掴む日々に微かな苛立ちを覚えていた。
「う…」
漏れ出た呻き声が千鉱の耳に届き、無機質な瞳が音の発生源へ向けられる。死体に埋もれていた男が腹這いになりながら、じりじりと出口へ向かっている。どうやら止めを刺し損ねたらしい。
「ひぃっ!く、来るな!来るなぁ…!」
ゆっくりと近づいて来る千鉱に気付いたのか、顔を青ざめて情けない悲鳴を上げる男。斬られた足は使い物にならず、必死に後退りながら許しを請うことしかできない。赤い目をした影が遂に目の前に立つ。人形のように何の感情も感じさせないこの青年は、本当に人間なのだろうか。
「ば、化けも」
途切れた言葉は首と共に飛んでいった。返り血が千鉱の頬を汚したが気にする素振りはない。ゴトリと音を立てて倒れた胴体を冷たく一瞥し、何事もなかったように歩き出した。
大きなガラス張りの通路を歩く。今夜は見事な満月だが、街中だとその距離が随分と遠く感じる。あの山奥で父と並んで見上げた月の方が大きくて綺麗だった。きっとこの先その考えが変わることはないだろう。
「今夜は月が綺麗だな」
「────ッ!」
背後から掛けられた声が遅れて警戒を促す。振り返った先には一人の男が立っていた。意識が逸れていたとはいえ、完全に気配を断ち背後を取るこの男は只者じゃない。穏やかとも言える声色は刀を構え警戒する千鉱とは対照的で、異質な雰囲気を漂わせていた。
「派手に遊んだな」
「…お前は誰だ」
「人に名を尋ねる前に、自ら名乗るのが礼儀だと教わらなかったのか?六平千鉱」
「!」
刀を握る手に力が入る。男の挙動を見逃さないように視線を固定し、即座に動ける体勢を取る。
「月に誘われ気紛れに足を伸ばしてみたが、偶には良いものだな。焦がれていた黒猫に相見えることができた」
「戯言に付き合うつもりはない」
「つれないな。探し物があるんだろう?お前にとっても悪くはない筈だ」
何気なくネクタイの結び目に触れる右手を目にした途端、全ての意識が持っていかれる。忘れることのない忌まわしき炎の紋章が、あの日の記憶を呼び覚ます。血に塗れた父の顔が脳裏を過る。頬の傷が戒めるように痛み、溢れた憎悪が身を焼き尽くした。
「毘灼…ッ!!」
何故此処にいる。違う、そんなことどうだっていい。
斬る。殺してやる。
「錦!」
跳ね上がった斑模様の金魚と共に、加速した千鉱が瞬時に男の懐目掛けて迫る。斬り上げた刃は空を切り、すぐさま屈んで躱した男へ振り下ろそうとするも、読んでいたのか男が千鉱の左腕を叩き上げる。衝撃で手放した刀が宙を舞い痺れた左腕を庇いながら男の蹴りを回避する。ぱしりと柄を掴んだのは男の方で、手が触れた瞬間ぞわりと悪寒が走る。逆手に持った切先が千鉱を狙って振り下ろされるが、大きく飛び退き凶刃から逃れた。しかし、次の瞬間には投擲された刀が文字通り目の前まで迫っていて、横に仰け反ったが頬を一筋鋭い痛みと共に掠めていった。
(速い…!)
距離を詰めていた男の掌底突きを顎に喰らい怯みかけるも、叱責した体を動かし後方へ飛び上がる。
「淵天」
「涅、千」
空の左手に金色の光が集まり、淵天が顕現する。数十の小さな黒い金魚を侍らせ素早く振り下ろす。威力を抑えた分広範囲に放たれた斬撃は空間を斬り刻み、男に撤退を強制させ距離を開かせた。
バラバラと割れた硝子が降り注ぐ。はっ、はっ、と荒い呼吸を整えながら、男の一挙手一投足を見逃さないよう注視する。
(こいつ、強い…!)
自身が強いなどと驕ってはいないが、妖刀相手に妖術すら使わず素の身体能力で応戦してくる。底知れない。冷や汗が流れていくのを感じた。
「それが七本目の妖刀か」
「…だったら何だ」
「純粋な力は他の妖刀に遠く及ばないが、開花したばかりなのか?それとも経験の差か?」
「黙れ」
興味深そうに千鉱の握る淵天を見遣るその表情は言葉に反して嘲る様子は見られず、純粋に疑問を抱いているだけのように見えた。
「初めて目にしたが、何か惹かれるものがあるな。やはりお前・・は特別だ。淵天───いや、六平千鉱」
目を見開き思わず言葉を失った。昏い瞳は千鉱しか映しておらず、内に秘められた全てを暴こうと、引き摺り出そうとしている。
「最初に耳にした時は俄かに信じ難かったが…やはり自らの目で確かめたのは正解だった。堅く秘された真実を暴くのは何時だって心躍る」
ふ、と口元だけで器用に笑んでみせる。
「そう思うと少し惜しい事をしたな。お前という存在を生み出した六平国重から、是非話を聞きたかったのだが」
「黙れ!何で父さんを殺した…!必ず、必ず地獄へ葬ってやる…!」
「”父親”か。成程、道具が人の心を得たか。そうと知らなければまるで本当に人間のようだな。面白い」
紋章の刻まれた右手を口元に添えているが、その下で滲む狂気を隠しきれていない。父を奪ったお前達がどの口で言っているのか。
「猩」
増幅した玄力が刀身から膨れ上がり、赤い金魚が熱を帯び大きな炎へと転じる。先日ある組織が抱えていた妖術師と交戦した際、猩で吸収したものだった。夜の帳を鮮烈な赤が切り裂き熱風が空間を支配する。
「涅」
赤と黒に染まった刀身を振り上げ炎を纏った斬撃を放つ。硝子の破片を巻き上げた嵐が暴発し、雷のように轟音が響き渡った。
燃え盛る炎と建物が軋む音を聞きながら前方を見据える。熱された空気を吸い込み、乾いた咳が一つ溢れた。
「今のは中々効いた」
背後から伸びた手が千鉱の首を掴み、容赦なく地面へと叩きつけた。痛みに呻き隙が生まれた体を仰向けに転がし、乗り上げて身動きを封じる。袖口が僅かに焦げているだけで負傷しているようには見えない。涼しい顔をしている男の下できつく拳を握り締めた。
「悪くはないがまだ青いな。お前の憎悪はその程度か?」
「く…っ!」
唯一自由の効く瞳が男を睥睨する。憎しみを灯し濃度を増した緋色の瞳と冷たく昏い瞳が交錯し、まるでこの世界には二人しか存在していないような錯覚を起こさせる。
「やっとお前を捕らえたんだ。時間はたっぷりある。行こうか」
「あ、ぐ…ぅ!」
柔く引っ掻くように頬の傷を撫でた指先が下りていき、細い首に手を掛ける。動脈を圧迫され呼吸が苦しい。男の下で抵抗しようと踠く体は弱々しく、精々子猫が引っ掻く程度の可愛らしいものだった。
男の腕を掴んでいた手から力が抜け、だらりと腕が落ち全身が弛緩する。かくりと力なく傾いた顔は白く、固く閉ざされた瞳があの鮮烈な赤を隠している。首を絞めていた手が離され、愛おしむように千鉱の目尻を指の背で撫でた。
それは人としての生活を始めたばかりの頃。慣れない生活の中で最も苦手意識があったのが睡眠だった。柔らかい布団の上に横たわり、夜が明けるまでじっとしている。体がまだ順応していないのか、眠気が訪れるのもかなり遅かったからだ。
『眠れないのか?チヒロ』
不意に隣にいる六平から声を掛けられ、顔だけを動かし夜目の効く瞳を向ける。暗闇の中、先程まで寝ていた筈だがしっかりと開かれた目が此方を向いていた。
『…うん。眠気がこなくて』
『そっかぁ……よし。チヒロ、こっちおいで』
ぺらりと自分の掛け布団を捲る六平に首を傾げる。ぽんぽんと、空いた空間を優しく叩く手に招かれそっとそこへ収まった。布団を掛け直し六平の太い腕が背に回され、引き寄せられた体がぴったりとくっついた。
『どうだ、あったかいだろ?』
『……うん。あったかい』
炉の炎とはまた異なる六平の体温の高さが背中からも伝わってくる。そっと胸元に耳を傾けると、優しい心臓の鼓動が聞こえて酷く安心する。あたたかい。とろりと、何処からか眠気がやってきた。ふ、と頭上で微笑む気配がした。
『おやすみ、チヒロ』
『おやすみなさい、とうさん』
それからは、眠れない日は手を握るようになった。布団に入り込むのは何だか気恥ずかしかったから、そうするだけに留めた。優しく包み込んでくれる、大きな手。成長するにつれてそうして眠ることはなくなってしまったけれど。
父の優しくて安心する温もり。生まれて一番最初に覚えたそれを、記憶と共に大切に抱えて仕舞い込んでいる。
水面に顔を出すようにふわりと意識が浮上する。揺らめく視界に瞬きをすると目尻から一筋の涙が零れ落ちた。暫くぼんやりとしていたが、思考を取り戻した脳が警鐘を鳴らす。飛び起きようとした体は鉛のように重く頭を動かすことさえ叶わない。緩慢な動きで視線を巡らせると、薄暗く見慣れない内装が目に入った。広い寝台の上で寝かされていたようで、素足に触れるシーツの滑らかさが質の良さを感じさせる。いつの間にか白い襦袢に着替えさせられており、肌触りからしてこの一枚しか纏っていないようだった。
先の戦闘で気絶させられ連れて来られたようだ。何故毘灼が自身を殺さずこのような真似をしているのか理解できなかった。
「目覚めたか」
気配も音もなく現れた男が視界に映る。邂逅した時と一切変わらず黒いスーツに身を包んだ男は、闇に溶け込むように佇んでいた。
「俺に何をした」
「ただの弛緩剤だ。刀のお前にどの程度効くかと思ったが、人間と変わらないらしい」
男が寝台の淵に腰掛け伸ばされる手に身構えるも、頬の傷痕に触れる手付きは酷く優しく涙の跡を拭った。
「夢を見たのか」
「…煩い」
「お前の境界線はどこにあるんだろうな。冷徹な刃を持ちながら、心を得た哀れな道具」
線引きをするように、長い指先が千鉱の体を襦袢越しに縦に滑り落ちる。
「何を、」
「妖刀の本質は殺戮兵器だ。人を選ばない、誰の奴隷にもなる。そこに意思など存在しない」
トン、と心臓の辺りを軽く指で突く。
「だがお前はどうだ?心を得たばかりに本質を見失い、父親を見殺しにした。余計な自我を持ったからお前の切先は鈍ったんだ」
頭部を殴られたような衝撃が千鉱を襲う。男の言葉が鋭利な刃となり千鉱の心を刺し貫いた。見開かれた瞳は揺れ、言葉にならなかった息を吐くことしかできない。六平を守れなかったという、疑いようもない事実に帰結するからだ。
「温室で育った一輪の花は、全てを管理されて初めて花開く。だが風雨に晒され、生に踠く野花の美しさには遠く及ばない」
「何が、言いたい」
声が震える。これ以上この男の話を聞いてはいけないと、頭の片隅で何かが叫んでいる。
「お前という種に与えられた鉢には罅が入っていて、与えられた水も濁っていた。お前だけが何も知らず、与えられる全てを盲目的に信じていた。刀にも、人間にも成りきれていない不完全な存在。六平千鉱、」
家族ごっこは楽しかったか?
男に負わされた傷口から、不透明な血と温かい記憶が零れ落ちていく。
「お前は何も分かっていない。英雄共が隠した罪も、人間が何たるかも。この世界の真実も、全て」
男の大きな手が千鉱の両頬を包み込み、鼻筋が触れ合いそうな程顔が寄せられる。赤い瞳には、歪んだ笑みを浮かべた悪魔が映し出されていた。
「俺が教えてやる。人間の醜悪さを」
冷たい唇が重なり、全てを喰らい尽くさんと毒牙がかけられた。
「ん……ぁ、っは、ぅん…」
男の長い舌が千鉱の口腔内に侵入し蹂躙している。舌先が口蓋を嬲ると体がびくりと震える。奥に縮こまった舌を引き摺り、水音を響かせながら絡め合う。千鉱の口端からは飲み込みきれなかった唾液が滴り落ち、首筋を濡らしていく。互いの手は指先を絡めながら固く繋がれていた。
「っは、は、ぁ…」
漸く解放された唇は感覚がなくなっていて、必死に酸素を取り込もうと胸が上下する。背に差し込まれた腕が上半身を起こし、力の入らない体を男へ凭れ掛かるよう誘導した。
「や、なに、」
耳輪に触れた唇が滑り落ち耳朶を柔く噛む。柔らかさを堪能するように何度か甘噛みし、耳孔から長い舌が侵入した。
「あ…!?や、んぁっ、あ、あっ」
ぴちゃぴちゃと耳元で直接鳴る音が千鉱の脳を犯す。大きな手がもう一方の耳を塞ぐと聴覚が鋭利になり、くぐもった水音が反響する。脳を直接嬲られているような錯覚を起こし、体の痙攣と嬌声が止まらなかった。
「善い顔だ」
微弱な電流が流れる体が腕の中で小さく跳ねている。白く滑らかな肌には鬱血痕が散らばり、強い執着を表していた。ちゅ、と啄むような口付けを落とし、男の手が襦袢の帯をしゅるりと解いた。
少年と青年の過渡期にある体は薄く線が細い。しなやかな筋肉のついた内腿を撫で、緩く勃ち上がっていた性器をそっと握り込んだ。
「ひ、ぁ!い、やだ!触るな!あっ、あ…!」
陰茎を上下に擦ると感度の上がった体が過敏に刺激を拾い、勝手に腰が浮き上がる。滲み出した先走りを纏わせながら亀頭を愛撫し、哀れな黒猫を啼かしていく。
「あっ、ぁあっ!離、っなに、やぁ…!」
「怯えなくていい」
得体の知れない感覚が這い上がり、弱く炙られ続けた体が悲鳴を上げている。閉じようとする膝を固定し、鈴口を割るように親指の爪先で刺激した。
「ぁあっ……!」
びくりと大きく震えた体が仰け反り、急所である喉元を晒す。初めて覚えさせられた快楽が脳を突き抜け、自身の体なのに制御権が戻ってこない。弛緩した千鉱の体を寝台に横たわらせ、吐き出した精液を絡めた長い指先が後孔に触れる。縮こまった蕾を割り開くように中指が挿入された。
「っは、あ…?」
異物感を感じ眉を寄せるも痛みは感じられない。視界の外で飲み込まれた長い指が、何かを探すようにゆっくりと蠢く。やがてある一点を押し上げた瞬間、ざわりと肌が粟立った。
「───あッ…!」
浮き上がる腰を押さえつけ、逃げを打った体をうつ伏せにして何度も繰り返し突いてやると熱を帯びた嬌声が漏れ出る。
「あッ!あっ、あ、まっ…待って、そこ、やだぁ!」
内部へ潜り込んだ指はいつの間にか増え、前立腺を刺激しながらばらばらと動かしていく。背後から顎を掴まれ引き寄せられた唇が重なり合い、艶を帯びた啼き声を殺す。男の下で再び達した体が小刻みに震え哀れみを誘っていた。
ずるりと長い指が抜けていく。微かな衣擦れの音が聞こえたのも束の間、喪失感にひくつく後孔にぴたりと熱い剛直が押し当てられる。精液に塗れた指で扱きゆっくりと亀頭が侵入していく。
「う…ぁ、ぐっ…」
誰にも許したことのない狭い肉壁を押し開いていく。未知の感覚に息を詰めながら、歯を食い縛り苦しさを逃す。半ばまで飲み込まれていた亀頭が止まり、一呼吸の後一気に奥まで押し込まれた。
「んぁあッ───!」
「っ、」
脳天を貫く凄まじい衝撃が千鉱を襲う。目を見開き何が起きたか分からぬまま、はく、と息が止まった。ぎゅう、と絡みつく内側の締め付けに吐息を漏らし、律動を再開する。
「あッ!んあ!い、ぁあっ!」
がくがくと揺さぶられる体の下で己の性器がシーツと擦れ、快楽を拾う。固く握り締め白くなった千鉱の手に大きな手が覆い被さり、捩じ込まれた指で開かれねっとりと絡み合う。
「ぁ、抜け…!やぁ、こんな、しらない…!」
「は、っ何だ、お前の父親から教わらなかったのか?」
嫌々と幼い子どものように首を振る千鉱に己の唇が吊り上がるのを感じた。湧き上がった嗜虐心に身を任せ腰を穿つ速度が速くなっていく。
「あっ、待っ…!んぁああッ!」
頸へと噛み付きながら前立腺へと狙いを定め容赦無く攻め立ててやる。一際強く抉られた途端、視界が明滅し意識が散り散りになった。絶頂に蠕動する肉壁が強く男を締め付け、息を詰まらせ誘惑に堪えた。
ぐったりとシーツに沈む千鉱の体を仰向けに転がし、紅潮した頬で細く息を吐く表情を味わう。休息を与えず達して敏感な内側を再び穿つ。
「ぃ、ひぁっ…!」
「人間は欲深い生き物だ。傲慢で利己的、己を満たすためなら手段を選ばない。この醜悪さこそ人間の本質」
硬度を失っていない剛直が的確に弱い部分を突き上げ、ぐちゃぐちゃと犯していく。混じり気のない玉鋼を穢し、無垢な千鉱の体を堕とし喰い漁る。
「枯れてくれるなよ。憎悪を焚べて鍛え上げろ。お前のその歪な均衡が美しい」
荒れ狂う快楽に翻弄されながらも、千鉱の瞳が男に向けられる。泥を飲み込まされても尚、輝きを失わない赤い瞳が強く仇を射抜いた。
「ころ、す。必ず、殺してやる…!」
「ああ、待っている。それまで覚えておけ。お前を穢した俺の熱を」
腰を強く掴み直し、抉るように最奥を突き上げると同時に昇りつめた千鉱自身から白濁が吐き出される。絶頂に浸る体を見下ろしながら、きつく絡みつく肉壁に抗うことなく男も大量の飛沫を注ぎ込んだ。
じんわりと受け入れ難い熱が全身を侵していく。
遠ざかる。大きな背中も、繋いだ手の感触も。
貴方の温もりは殺されて、冷えていなくなった。