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広い。最初に感じるのはそれだけだ。どこまで視線を伸ばしても壁の境目が曖昧で、距離感が狂わされる。天井は高いが高さの実感がなく、照明は確かに点灯しているはずなのに光源の位置が分からない。床は硬質で、無機質な材質がそのまま空間の性格を決めている。
歩けば音が返る構造だと理解できるのに、今は誰一人として足を動かさない。呼吸音すら意識的に抑え込まれ、静寂が張り付くように満ちている。ただし、完全な静けさではない。空気が緊張でわずかに軋み、見えない圧が皮膚に触れてくる。散らばっている人影がある。座っている者も、立っている者もいて、誰かが中心に立っているようで立っていない配置。
序列を否定する並びだが、それでも自然と視線が集まる位置に、一人の男が立っている。肩の力は抜けているが、姿勢は崩れていない。口元に薄く浮かぶ表情は柔らかいが、場を和ませるための軽さではなく、状況を理解した上で飲み込んだ余裕のようなものだ。その男が、沈黙を破る。声は低すぎず高すぎず、しかし広い空間の奥まで通る。
「せっかくバンカラにきたんだし、そろそろ俺らが行く時が来るか?あいつらに任せっきりなのも気が重いぜ?」
言葉だけを切り取れば軽口に近い。だが語尾には重さが残り、冗談として流せない温度がある。その一言で、周囲の気配が一段階引き締まる。視界の端にある複数の影が、わずかに姿勢を正す。数は多い。明確には見えないが、十に近い存在がこの場に集められているのは分かる。
男の右隣に立つ人物が、ほんの少し顎を上げる。長身ではないが、立ち方が静かで、存在感を主張しない。腕は自然に下ろされ、動きは最小限。しばらくの沈黙の後、短い声が落ちる。
「……早すぎ。」
抑揚はなく、感情を削ぎ落としたような響き。それでも、はっきりとした否定だ。中央の男は苦笑を浮かべ、視線だけを向ける。
「そう言うと思ったよ、レイ。」
名前を呼ばれた瞬間、空気がわずかに揺れる。彼女は視線を動かすが、それ以上の反応は示さない。呼称が出たことで、彼女の立場と存在が明確になる。レイは一拍置き、続ける。
「まだ整理が終わってない。今動けば、余計な線が繋がる。」
短いが、状況を的確に切り取った言葉だった。中央の男は顎に指を当て、今度は反対側へ視線を送る。左隣に立つ人物は、最初から微動だにしていない。背は高く、姿勢は硬い。影に沈んだ顔から表情は読み取れないが、その周囲だけ空気が重い。
「ゼインはどう思う?」
問いに、すぐには返答がない。意図的な間が置かれ、やがて低く重い声が返る。
「任せ続ければ、制御不能になる。」
名前を呼ばれた男は、それ以上言葉を足さないが、一つ一つが噛み締められている。中央の男はゆっくりと息を吐く。ただ、その場の重圧が一段深く沈む。周囲の影のいくつかが、わずかに身じろぎする。
腕を組む者、足先の向きを変える者、誰もが同じ緊張を共有しているが、結論には至らない。中央の男は天井の暗がりを見上げる。外の様子は分からないが、嵐が近いことを想像させる圧が、この空間にも入り込んでいる。
「まあ、強行する気はない。」
そう前置きしてから、視線を前へ戻す。
「ただ、出す奴を間違えりゃ取り返しがつかねえ段階だ。ただ……そろそろ1匹や2匹、接触させに行った方が良くないか?」
名は出ない。それでも全員が同じ存在を思い浮かべる。レイが一度だけ瞬きをし、小さく言う。
「……失敗は、連なる。」
ゼインが低く応じる。
「だから余裕を持つべきだと何度も言っている。」
中央の男はその二人の言葉を受け止め、薄く笑う。先ほどまでの軽さは影を潜め、芯だけが硬くなる。
「分かった。準備だけは進めておこう。動くかどうかは、その後で決めりゃいい。」
その言葉で、周囲の影が静まる。まだ誰も動かない。だが、確実に歯車は回り始めている。場所も立場も、まだ語られない。ただ嵐の夜に向けて、会うべき相手の影だけが輪郭を持ち始めていた。中央の男は、最後にぽつりと呟く。
「会うのはもう少し先かな……不正者狩り……。」
第4章 影はすぐ近くに
朝だと認識するより先に、音が押し寄せてくる。窓の外で何かが叩きつけられる乾いた衝撃、連続する雨粒が硬い面を打つ不規則なリズム、風が建物の隙間を擦り抜ける低い唸り。スロスは横になったまま天井の染みを一つだけ視界に入れてからゆっくりと上体を起こした。体は眠っていない。眠る必要がないからだ。
だが朝という区切りは、行動の切り替えとして扱う。カーテンをわずかに引くと、灰色の光が滲み込む。空は重く、雲が低い。遠くで雷が鳴り、間を置かず雨音が強まる。
居住スペース代わりの一角では、すでにエルクスが起きていた。古い椅子に腰掛け、片肘をつきながらテレビを眺めている。
テレビが自動で流している朝のニュースが、嵐の映像を繰り返し映していた。
「本日は記録的な荒天となる見込みです。不要不急の外出は控えてください。」
アナウンサーの声は落ち着いているが、テロップの赤が異様に目につく。スロスは音量を下げ、身支度に取りかかる。洗面台の前で顔を洗う必要はないが、手だけは水に通す。冷たい水が皮膚を流れても、感覚は鈍い。それでも動作として行う。鏡に映る自分を一瞬だけ見て、すぐに視線を逸らす。服を整え、神秘を通したナイフの位置を確認する。一本、二本、三本。指先で触れて、問題ないと判断する。外套を羽織ると、布が風を孕む音が想像できた。
作業台の向こうではミアが無言でナイフの手入れをしている。刃を布で丁寧に拭き、指先で刃線をなぞり、わずかな歪みや欠けを確かめる。その動きは正確で、雨音や雷鳴に一切乱されない。金属が布を擦る微かな音だけが、彼女の存在を主張していた。
キヨミは弾薬ケースを開き、特殊弾を一本ずつ並べている。薬莢の表面、刻印、内部に込められた神秘の反応を慎重に確認し、問題がないものだけを戻していく。外で雷が落ちるたび、ケースの蓋が微かに震えるが、彼女の手は止まらない。
キッチンの方から物音がして、アマリリスが顔を出す。既に支度は済んでいるらしく銃のホルスターが見える位置にある。
「うるさい朝だな。」
彼は窓の外を一瞥し、眉を寄せる。雷鳴が一つ、建物を震わせる。灰色の雨幕に覆われた街は輪郭がぼやけ、建物も道路も溶け合って見える。しかし彼の意識はそこではない。
雨に紛れて流れるチーターの気配、風に乗って歪む存在感。それらを静かに感じ取っている。いつもより乱れている。天候が能力に影響を与えるタイプが動きやすい条件だと、経験が告げていた。
「……相当ひどいな。」
エルクスがテレビから目を離さずに言う。アマリリスは装備を締め直しながら答える。
「だからこそ、だ。」
その一言で空気が変わる。ミアの手が止まり、キヨミが弾薬ケースを閉じる。スロスもゆっくりと振り返った。
「誰も出歩かない。視線が減る。音も雨と風に紛れる。」
アマリリスは淡々と続ける。
「この条件で動かないチーターがいると思うか?」
ミアは短く首を振るだけで答える。キヨミも小さく息を吐き、ケースを持ち上げた。スロスが低く言う。
「天候依存、環境操作系。こういう日に動くやつは多い。」
「だよな。」
エルクスは立ち上がり、マグカップを机に置く。
「テレビが止めるってことは、一般人は減る。探すには都合がいい。」
雷が落ち、倉庫内が一瞬白く染まる。次の瞬間、重たい音が遅れて響いた。アマリリスは外套を手に取り、肩にかける。
「見回りだ。深入りはしない。異常があれば即撤退。」
誰も反対しない。それが答えだった。スロスはナイフの感触を確かめながら言う。
「この天気で外にいるなら、理由がある。」
「大体ろくでもない理由な。」
エルクスが苦笑する。
シャッターの前に全員が集まる。キヨミが鍵を外し、重い金属音と共にシャッターを少し持ち上げる。隙間から一気に雨音と風が流れ込み、冷たい空気が肌を打つ。湿気を含んだ匂いが倉庫内に広がる。
「最悪のコンディションだ。」
エルクスが言う。
アマリリスは一歩踏み出す。
「だから行くんだ。」
スロスも続く。
雷光が一瞬、街を白く照らす。その刹那、雨の向こうに人影が揺れた気がした。錯覚か、現実か。判断する前に、風がさらに強まり、視界を遮る。二人は足を止めず、荒れた外へと踏み込んでいく。
警告が正しいかどうかではない。この天気だからこそ、確かめる必要があった。
シャッターを抜けた瞬間、世界が殴りかかってくる。雨は粒ではなく塊となって横殴りに叩きつけ、風は身体の向きを狂わせるほど強く、足元の水はもはや水溜りという言葉を拒否して細い川となって路地を貫いている。
舗装の割れ目から噴き出す水が白く泡立ち、排水溝はすでに役目を放棄し、濁流が縁石を越えて広がっていた。視界は歪み、街灯の光は雨幕で引き裂かれ、数メートル先の建物の輪郭さえ揺れて見える。
アマリリスはフードを深く被り、前髪に溜まる水を無意識に払う。防水加工の上着でも、この量では意味をなさない。布は重くなり、身体に貼りつき、動くたびに冷えが伝わる。スロスは半歩前を歩き、歩調は一定、無駄な力は一切入っていない。足を置く位置は常に水の流れを避け、靴底が滑らない角度を選んでいた。道路はもはや平面ではない。
排水溝は限界を超え、水は縁石を越え、細い流れとなって路地を貫いている。水溜りという言葉では追いつかない。ただの水の道だ。アマリリスはその流れを跨ぎながら、視線を左右に走らせる。
「この天気で外に出るなんて、普通じゃない。」
声は雨に削られ、近くでなければ届かない。スロスは頷くだけで答えない。代わりに意識を地面へ落とす。水の下、アスファルトの割れ目、その隙間を埋める微細な感触。雷が落ち、白光が街を塗り潰した瞬間、見えた。路地の角、排水の流れとは違う動きをするもの。
風に煽られ、雨と混じって流れる、砂。ここにあるはずのない粒子が、一定の方向性を持って動いている。次の瞬間、突風が吹き、砂が足元を撫でるように流れ、アマリリスの靴の縁に絡みつく。
「……砂?」
アマリリスが小さく呟く。スロスは歩みを緩め、足裏の感覚に集中する。水だけではない。粒がある。細かく、乾いたはずの感触が、振動するようにまとわりついてくる。足場が、ほんの僅かだが沈む。雷鳴が遅れて響き、空気が震える。風向きが変わり、砂は一度散り、また別の場所に集まる。まるで試すように、誘うように。アマリリスは銃を雨から守る角度で構え直し、周囲を見渡す。
「見回りって言っても……これは、呼ばれてる様なものだ。」
スロスは答えず、視線を路地の奥へ向ける。雨の向こう、見えない場所で、水の流れが一瞬だけ不自然に止まり、次の瞬間、別の方向へ引かれる。足場を奪うための準備。砂と水が連動している。偶然ではない。意図がある。
スロスは完全に立ち止まり、風と雨と砂の動きを一つずつ切り分ける。気配は薄いが、確かにある。地面の下、流れの底、すぐそこだ。低く、短く、確信を込めて告げる。
「……近くにいるな。」
雨は弱まる気配を見せない。むしろ時間が経つほど重さを増し、風に叩きつけられて斜めに流れ、視界を細切れにする。スロスは歩幅を詰め、重心を低く保ったまま一歩ずつ前へ進む。アマリリスはその半歩後ろ、銃口を下げ過ぎず、しかし不用意に上げもしない。
引き金にかけた指は力を抜き、いつでも動かせる状態を保っている。足元の水は流れを変え、排水溝に向かうはずのものが、意図的に路地の中央へ引き寄せられている。水の下で砂が動く。見えないが、確実にそこにある。踏み込むたび、地面が一瞬だけ柔らかくなる感覚が伝わり、次の瞬間には元に戻る。試されている。アマリリスは低く息を吐き、声を絞る。
「罠……だな。」
スロスは小さく頷き、歩みを止める。風が一段強くなり、路地の奥から砂混じりの水が一気に押し寄せる。足首まで覆われた瞬間、スロスは即座に後ろへ跳び、アマリリスの腕を引く。
次の瞬間、さっきまで立っていた場所の地面が沈み込み、アスファルトが歪む。流砂。水と混じった砂が、円を描くように回転し、中心へ引きずり込もうとする。雨音に紛れて、低い笑い声が混じった。
「反応が早いな。」
声の主は路地の奥、半壊した建物の庇の下に立っていた。雨を避ける様子もなく、足元の砂を自在に操りながら、こちらを見下ろしている。砂が彼の周囲で渦を巻き、地面と一体化しているのが分かる。アマリリスは即座に距離を取り、銃口を向ける。
「流砂のチーターと言えばいいか……。」
呟きは確信に変わる。男は肩をすくめるだけで答えない。代わりに足元の砂を震わせ、細かい粒子が水流に乗って飛び散る。スロスは地面を踏み締め、神秘を通して足場を固定する。沈みかけた砂が一瞬だけ抵抗し、完全には拘束できないと悟る。
「長居はできない。」
その言葉が終わる前、異変が起きた。音が、消えた。正確には、雨音の一部が不自然に途切れた。アマリリスがそれを感じ取った瞬間、空気を裂く衝撃が横から走る。水。弾丸の速度で撃ち出された水が、路地の壁を穿ち、破片を撒き散らす。直撃は免れたが、衝撃波で身体が揺れる。
「っ……!」
アマリリスは即座に転がり、次の射線を外す。二発目。水が一直線に走り、地面に突き刺さった瞬間、跳ね返る様に霧散する。速度が失われた水はただの雨と混じり、殺意を消す。その一瞬の特性を、スロスは見逃さない。視線を水の来た方向へ向ける。屋根の上。街灯の明滅の中、別の影が動いた。
「来たか……。」
流砂の男は舌打ちし、砂の動きを強める。
「おい、派手にやるなって言っただろ。」
「これぐらいしないと、狩人なんて殺れないだろ。ハイカラな奴らじゃあるまいし。」
返事と同時に、三発目の水弾が放たれる。今度はスロスを狙った軌道。スロスは身体を捻り、肩口を掠めさせるだけでやり過ごす。水は背後の壁を貫き、速度を失って崩れ落ちる。二体。連携。足場を奪い、動きを止めたところに高速射撃。単純だが、環境と天候を最大限に利用している。アマリリスは息を整えながら、低く告げる。
「もう一体……水弾。」
スロスは前に出る。雨と砂と水弾が交錯する中、二人は完全に包囲された形になっていたが、その表情に焦りはない。状況は最悪だが、敵の全貌は見えた。ここからが、本当の戦闘だった。