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西の空が、まるで誰かの返り血を浴びたように毒々しい朱色に染まっていた。「まずい。完全に日が落ちたわ」
私は焦燥感に駆られていた。『魔女は生涯、人を幸せにするために生きるべし』。その教義を遵守することだけが、私のアイデンティティだった。
けれど、隣を飛ぶ火の魔女カレンは、箒の上で身を乗り出してケラケラと笑った。
「いーじゃん少しくらい! それより見てよあの山。特製の大盛り料理、作ってやるからさ!」
「……お断りです。湿気で服が傷むのも、予定を乱されるのも嫌なんです。早く街の宿へ行きましょう」
私の潔癖な物言いに、カレンは「ちぇっ、相変わらずお堅いんだから!」とおどけて、加速の魔法で私を追い抜いていった。
あの時、カレンの誘いに乗って、あそこで足を止めていれば。
あんなことには、ならなかったのに。
街に着いた途端、私たちは凍りついた。
広場では「魔女だ! 魔女が出たぞ!」という罵声が飛び交い、一人の女性に石が投げつけられていた。カレンが怒りの炎を瞳に宿し、箒を蹴り飛ばして詰め寄ろうとする。
「待って」
私は彼女の腕を、氷のような冷たさで掴んだ。
「今は衆人環視の中よ。まずは宿で荷を解き、状況を整理してから動くべきだわ」
その「正義」という名の冷徹な慎重さが、私の誇りだった。
宿に入り、荷解きをする私の背中に、カレンの鋭い声が刺さる。
「あいつら、放っておくのかよ」
「準備が整い次第、助けに行きましょう」
私は、丁寧に服を畳んでいた。その数分が、誰かの寿命を削っているとも知らずに。
夜更け。扉を叩く音が響いた。
「……助けて。お母さんが、殺されちゃう……」
震える少女の声。ドアを開けると、そこには古びた**「向日葵のお守り」**を握りしめた、透き通るような肌の少女が立っていた。
「明日、広場で、お母さんが……。これ、お母さんと半分こしてるの。お願い、これを届けて……」
私は彼女を抱きしめた。冷え切った彼女の体温が、私の胸に刺さる。
「大丈夫。私たちが、必ず助けるわ」
私は自信満々に、少女を氷雪の魔女の元へ転移させた。
少女に教えられた地下牢へ踏み込み、捕らわれていた人々を救い出す。
けれど、どこにもあの少女の母親がいない。
「次は、処刑場よ!」
胸騒ぎが止まらない。私たちは広場へなだれ込んだ。
辿り着いたそこは、人間の悪意を煮詰めた地獄だった。
私は込み上げる吐き気を抑えられず、その場に蹲った。
「見なくていい! 私の後ろにいろ!」
カレンが叫ぶ。いつもはお転婆な彼女が、聞いたこともないほど鋭く、震える声で。
私たちは、最後に残る広場の中央に来ていた。
そこには、石畳に染み付いた、生々しい紅い痕。
灰とすみばかりが残っている中に一人の女性が横たわっていた。
駆け寄って手をかざしたが、もう、温もりは一切なかった。
女性の指は、何かを強く握りしめていた。
震える手でそれを開くと、そこにあったのは、あの少女が持っていたものと対になる**「向日葵のお守り」**だった。
だが、そのお守りは、少女のものよりもずっと古く、色が褪せていた。
「……処刑は、明日だったはずでしょ……!」
私は崩れ落ちた。
「私が、宿になんて行かずに……! 直行していれば! 私が殺したんだ、この人を!」
石畳を叩き、子供のように泣きじゃくる私の背後から、あの少女の声がした。
「……お母さん」
振り返ると、そこにはゲートへ送ったはずの少女が立っていた。
「ごめんなさい……私が遅かったから……」
謝り続ける私を、少女は悲しげな、けれど慈愛に満ちた瞳で見つめた。
「……ううん。お母さんを、一人にしないでくれて、ありがとう」
少女が、事切れた母親の体に触れた瞬間。
朝日とともに、少女の姿が、ふわりと淡い光に溶け始めた。
「え……?」
カレンが絶句する。
少女は、もうこの世の者ではなかった。
彼女は、**「母親が死んだ瞬間に、自分も一緒に殺されていた」**のだ。
先ほど私が抱きしめた冷たい体温は、死者の冷たさだった。
彼女は自分の死にすら気づかず、たった一つの心残りを果たすために、私の元へ来たのだ。
「待って! 行かないで!」
私は消えゆく少女に手を伸ばしたが、水は何も掴めない。
その時、カレンが夜空へ向かって狂ったように指を鳴らした。
パチン、パチン、と不格好な音が響く。
彼女の指先から、数え切れないほどの黄金色の火の粉が舞い上がった。
「せめて、暗くないように……! 行き先が、怖くないように……!」
カレンは鼻をすすりながら、魔力を振り絞る。
「魔女が最後に嘘をついたまま、あの子を逝かせるもんかよ……!」
夜空を埋め尽くす光の粒。それは、救えなかった命への、あまりにも無力で、あまりにも優しい祈り。
少女は、空に舞う火花を嬉しそうに見上げ、母親の魂と溶け合うように消えていった。
カレンが、足に力が抜けるように、座り込んだ。
座りながら、彼女は言う。
「……私さ」
「本当は、火が怖いんだ。だって、あんなに簡単に、人を灰にしちゃうから」
彼女の手は、小刻みに震えていた。
「救えなかった。……私の魔法は、何のためにあるんだろうな」
私は、その震える手を、自分の冷たい手で包み込んだ。
「……今は、私のために灯してください。あなたの火がないと、私は暗闇の中で後悔に押し潰されてしまう」
カレンは一瞬目を見開き、それから「……バカ」と小さく笑って、私の指先を温めた。
ただ、石畳の上に、二つの「向日葵のお守り」が、寄り添うように残されているだけだった。