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第1章
悪夢という正夢
私はこの夏、両親から逃げるようにして、この町に来た。
久しぶりに降り立った駅の空気は、懐かしいようで、どこかよそよそしかった。
この町は何も変わらない。
──いや、私がその変化に、気づけないだけなのかもしれない。
昔と同じ蝉の声。
ひび割れたアスファルト。
祖母の家までの道に漂う草の匂いと、川の音。
すべてが“前と同じ”なのに、私だけが別の世界にいる気がした。
言葉が怖い。
声が、重たく響く。
「大丈夫?」
「元気だった?」
そのどれもが、私にはうまく返せなかった。
──土間に響く鈍い音。かすかに聞こえる誰かの声。
「ごめんなさい、ごめんなさい──」
逃げようとするほど声は大きくなる。
そして見えないはずの赤が目の前で滲んでいた。
いつまで寝ていたのだろうか。
まぶたの裏に、あの赤い色がまだ焼きついている。
夢だったはずなのに、耳の奥で「ごめんなさい」という声が、かすかに反響している気がした。
静まり返った部屋。
窓の外からは、蝉の声がけたたましく響いていた。
現実に戻ってきたはずなのに、どこか身体の芯だけが夢の続きを引きずっているようだった。
汗ばんだ額を袖で拭い、私は起き上がった。
畳の感触がじんわりと足裏に伝わってくる。
こういうところは、この町の“変わらなさ”だと思う。
喉が渇いて、台所で水を飲んだあと、ふと外に出たくなった。
理由はわからない。ただ、何かを確かめたかった。
誰かの声でも、風の匂いでも──何でもよかった。
自分がまだここにいて、息をしているという実感が欲しかった。
玄関を開けると、熱気と草の匂いが一気に押し寄せてきた。
夏は、逃げてもすぐに追いついてくる。
嗚呼やっぱり夏は嫌いだ。