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「蒼は『introvert』だから嫌な事あるとすぐ自分の殻に閉じこもるからなぁ」
 彼はそう言いながら私の頭を撫でた。
 「言いたい事をちゃんと彼に伝えればいいじゃないか。そもそも喧嘩する事がいつも悪い事とは限らない。血のつながった親兄妹でさえ喧嘩するんだ。他人で生まれも育ちも違う恋人となら尚更だろ。でも何か問題にぶち当たる度に二人で話し合って時には喧嘩して……。そうして相手のこともそして自分自身のことも知って……。それでまた問題にぶち当たってお互いの妥協線を見つけて。結局それの繰り返し。二人で生きて行くってそんなもんだろ」
 薫は優しく私を見た。
 「It’s not always rainbows and butterflies、Aoi」
(いつもいいことばかりじゃないんだ)
 「自分の殻に閉じこもってたら何も解決しない。勇気を持って彼に思っている事を話してみろ。きっと受け止めてくれる」
 彼は先ほどから機嫌悪く私達を見ている桐生さんをちらりと見た。
 「蒼は男知らずで少し抜けてるところがあるから心配してたけど、彼なら大丈夫だろ。俺の男を見る目がかなり良い男だって言ってる」
 そう言う薫に思わず笑った。一体彼の男を見る目とは何を基準にしているのだろう。薫は私が笑っているのを見てつられて一緒に笑うと、
 「まあ、それでも別れたら彼の電話番号教えて」
 私は薫に微笑むと「教えません」と丁重に断った。
 「蒼、そろそろ帰ろう」
 そう言いながら痺れを切らせた桐生さんが私を迎えに来た。
 「今日はわざわざお越しいただいてありがとうございました。“ぜひ”ニューヨークにも遊びに来てください」
 薫はニコリと微笑みながら桐生さんに手を差し出した。
 「こちらこそお招き頂きありがとうございました」
 桐生さんは彼の手を取ると別れの握手をした。そして薫は私に視線を移すと
 「Good luck!」
 と囁き私にウインクをした。
 
 帰りの車の中、薫のくれたアドバイスを何度も思い返した。
 今度こそ彼に思っている事を伝えたい。もし例えそれがどうしようもない事でも、とにかく彼に自分の気持ちを知ってほしい……。
 先ほどから沈黙の桐生さんをちらりと見た。帰り道も車の中で彼は一言も話さず、無表情で何を考えているのかさっぱり分からない。ただどう見てもあまり機嫌が良いと言う感じでもなく、何となく今話し合いをするタイミングでもない感じがする。
 部屋の壁に掛けてある時計を見た。そろそろ夕食の時間になっている。
 今日は朝から忙しく子猫の世話でろくに睡眠を取っていないのもあるが、ゆっくりとご飯を食べる時間もなかった。睡眠はどうしようもないとして、やはり話し合いをする時は少なくともお腹がいっぱいの時がいい。人間お腹が空いているとどうしてもカリカリしてしまう。
 冷蔵庫を開けて中を見た。週末は買い出しをする日だが、今日は朝から忙しくて何も買っていない。
 冷蔵庫を閉めると、とりあえず買い物に行こうともう一度バッグを肩にかけた。
 「あの、私ちょっと出かけてきますね」
 そう言って玄関に向かおうとすると、彼はいきなり私の行く手を遮った。
 「どこに行くんだ……?」
 「えっ……?あの、今からお買い物に行こうかと……。わわっ……!ちょっと桐生さん何して……」
 彼はいきなり私を肩に担ぎ上げると寝室に向かって歩き出した。
 「悪いな、蒼。申し訳ないが名古屋には行かせられない」
 「名古屋!?」
 ── 名古屋って一体なんの話!?
 「久我といい、この薫って奴といい、何故蒼が俺のだと分からないんだ?」
 「薫!?」
 「他の男がどんなに割り込んできても、譲れないし、もう手放す事は出来ない。……こんな男に捕まって運が悪かったと諦めてくれ」
 そう言いながら桐生さんは寝室のドアを開けた。私は必死に考えを巡らせた。そう言えば薫が私の兄に会いに一緒に名古屋に行こうと誘っていたのを思い出した。
 「ちがっ……待って桐生さん、違うの!薫はね ──…」
 彼は私をベッドにボスッと落とすと、魂の奥まで射抜くように見つめた。
 「違う……名前で呼んで」
 「えっ……?名前……!?」
 「苗字じゃなくて名前で呼んで」
 彼は先日酔って帰ってきた時と同じ怖いくらいの情欲を目に湛えながら、私を見下ろしている。思わずゴクリと固唾をのんだ。
 あの夜彼に抱かれた記憶が一気に蘇ってくる。もしこのまま流されて彼に抱かれたら……酔っていない彼に抱かれたら、どのように抱かれるのだろうか……と一瞬不埒な考えが頭に過ぎるものの、今はそんな事をしている場合ではない。
 彼が私の服のボタンを次々と外していく中、私は必死にボタンをとめ直した。
 「待って!桐生さん……じゃなかった……颯人さん!落ち着いて……!」
 私は必死に彼に話しかけた。
 「颯人さん、違うの!あのね、薫はね……私に興味があるんじゃなくて、颯人さんに興味があったの!!」
 一体何が悲しくてこんな事を言わないといけないのかと心の中で嘆きながら、私は必死に叫んだ。
 しーんと沈黙が15秒から20秒くらい私達の間に流れる。
 いきなり桐生さんは私の手を離すと、自分の行動に嫌気がさしたように苦しげに目を固く閉じた。そして私から逃げるようにベッドから降りた。
 そんな彼をすかさず掴むと抱きついた。すると突然抱きつかれた桐生さんはバランスを崩し、それと共に私もベッドから落ちて彼と一緒に床に転がった。それでも必死に彼に抱きついたまま自分の思っている事を伝えた。
 「お願い!颯人さんに聞いて欲しい事があるの!」
 私はそう言いながら思いの丈を全てぶちまけた。
 「仕事で仕方のない事なのは分かってるけど、本当は毎晩颯人さんが結城さんと一緒に夜遅くまで出かけていてすごく寂しかった。
 ずっと何か隠されている気がして不安だった。もっと私の事を信頼してお父さんの会社を継ぐこととか相談して欲しかった。私どんな事でも受け止めますから、どんな颯人さんでも必ず受け止めますから……もっと信頼して欲しい。
 それとお仕事が忙しいのは分かってるけどたまには早く帰ってきてゆっくり休んで欲しい。颯人さんのあんな疲れ切った顔を見るのがとても辛いです。
 たまに早く帰ってきてゆっくり休んで私を一生懸命可愛がってください。そしたら私、結城さんが颯人さんと一緒に仕事をする事になっても大丈夫ですから」
 私は泣きながら必死に桐生さんに訴えた。すると彼は私をきつく抱きしめながら、感情の昂った掠れた声で私に言った。
 「ごめん……本当にごめん。俺が何もかも悪い」
 桐生さんは泣いている私を慰める様に背中を何度も撫でた。
 「……こんなつもりじゃなかったんだ。本当は何度も何度も話そうとしたんだ。……でも親父の会社の事や冴子の事を話すと、蒼が何処かへ行ってしまうんじゃないかって怖くなって……。
 やっぱり親父の会社を継ぐのを辞めようかとか、やっぱり蒼と相談して決めようかとかものすごく悩んで……。でも蒼はいつも大丈夫って何も言わないし、言わないから余計何を考えてるのか全然わからなくて……。
そうこう悩んでるうちに久我は割り込んでくるし、それで喧嘩して今度はなかなか言い出せなくなって……」
 桐生さんは震える吐息を漏らすと私と額をコツンと合わせた。
 「もっと早くに相談するべきだったんだ。俺が勇気を持ってもっと早くに相談していれば、こんな事にはならなかったんだ。本当にごめん。許してくれ」
 桐生さんはそう謝ると、手で私の涙を何度も拭った。
 「私ももっと早くに自分の思っている事を伝えれば良かったんです。でも遠慮してしまってなかなか言い出せなくて……。でもそのうち鬱憤が溜まって颯人さんに何度も嫌な事言ってしまって……。本当にごめんなさい。あんな事を言ってしまったけど、お仕事を辞めて欲しいわけではないんです。私、颯人さんがお仕事してる姿すごく好きです。」
 「分かってる……。本当にすまない。こんなに悲しませるつもりはなかったんだ」
 桐生さんは私の頭を何度も撫でた。
 「……実は俺の仕事の事でまだ蒼に話してない事があるんだが少し時間を欲しい。別に隠してるんじゃなくて、少し待ってる事があるんだ。必ずサンフランシスコの旅行の前にはわかると思う。必ず話すからそれまで少し待ってほしい」
 桐生さんはそう言いながら私の背中を何度も摩った。そうしてしばらく二人で寝室の床に転がって抱き合っているとぐぅーっと二人してお腹が鳴った。
 「なんだか腹減ったな」
 桐生さんは私を撫でながらポツリと呟いた。
 「何か作りましょうか?実は薫からお土産にアメリカのスパイスを色々ともらったんです。それで何か作りますよ。材料を買いにお買い物に行かなきゃならないんですけど」
 「いや、いい。何かテイクアウトしよう。何食べたい?」
 「うーん……タイ料理とか……?それともお寿司とか……?」
 「そうだなぁ……なんか寿司食べたい気分かも」
 桐生さんは私の背中を撫でながら、額に優しくキスをした。
 「でもお寿司だと今の時間きっと混んでますよね。テイクアウトするまで時間かかるかも……。そういえば駅の反対側にあるお寿司屋さんどうですか?あまり人がいないからすぐテイクアウトできるかも」
 「……その寿司屋ってあの怪しい看板の立ってる寿司屋か?」
 彼は眉根をよせて訝しげな顔をした。
 「そうです!実は外国人のオーナーが経営してて、ネタの切り方がすごいんですけど、なかなか新鮮で美味しいですよ」
 すると桐生さんは笑いながら私の頭を撫でた。
 「いや、いつもの店で寿司の出前を取ろう」
 「でも今のこの時間だったら結構時間がかかるかも……」
 「一時間くらいだったら待てるだろ」
 そう言って、彼は私をベッドの上に抱え上げた。
 「寿司よりも今は蒼をこのまま抱きたい」
 私の上に覆いかぶさると「愛してる」と言って額に優しくキスをした。そして出前が来るまで、何度も労わる様に優しく抱いてくれた。
 
 
 翌週の夕方、私が会社を終えビルの外に出ると結城さんが待っていた。
 「こんばんは」
 彼女はいつもの美しい所作で私に挨拶をした。
 「結城様、いつもお世話になります。あの、社長の桐生でしたら本日は午後からずっと外出中でして、今日は外出先から直帰になっています」
 彼女にお辞儀をしてそう言うと、
 「違うの。今日は少しあなたとお話しがしたいと思って。もしよかったら近くのカフェでどうかしら?」
 結城さんはニコリと微笑んだ。
 私と結城さんは会社から少し離れたカフェに入ると奥にある席に着いた。お互いに紅茶を注文すると彼女は徐に口を開いた。
 「颯人ね、来年から会長の事業を引き継ぐ為にアメリカに行くことになっているの」
 「アメリカ……」
 結城さんの言葉に桐生さんの言っていた事を思い出した。彼はまだ仕事の事で私に話していない事があると言っていた。確か何かを待っていると言っていた。この事だろうかと思うものの何か少し違う気がする。
 「それでね、私、彼と一緒にアメリカに行くことになっているの。でもね、彼、あなたとの事があって色々と迷っているみたいなの。ほら颯人ってとても優しいでしょう?きっとあなたをここに残して行けないと思っているのね」
 結城さんは優雅な所作で紅茶を一口飲んだ。
 「颯人はね、とても未来ある桐生の後継者なの。これからは会長の事業をお兄さんの海斗さんと一緒に継いで大きくしていかなければならない。彼には経済的にも人脈作りにも私の様な彼をしっかりと支えられる人が必要になってくる。少なくとも会長はそう思っている。会長は私が颯人と結婚して、アメリカに一緒に行って彼を支えて欲しいと思っているの」
 ……桐生さんのお父さんが結城さんとの結婚を進めているとすると私と桐生さんの事を知らないか、もしくは私の事に反対しているかのどちらかだ。……おそらく後者の方に違いない。
 私はずっと彼女に聞きたかった事を尋ねた。
 「結城さんは……颯人さんのこと好きですか?」
 すると彼女は少し驚いた様に意外そうな顔をした。
 「もちろん好きよ。だってあんな素敵な人いないもの」
 「颯人さんのどんなところが好きですか?」
 「そうね……。やっぱり完璧なところかしら。彼、仕事がすごくできるでしょう?私はお兄さんの海斗さんよりもビジネスの才能があると思ってるの。仕事してる時の彼の堂々とした姿、私とても好きよ。それに恋人としてもとても情熱的で優しくて、ベッドでも本当に完璧だもの」
 …… 完璧 ──…。彼女の言葉を聞いて、私の知っている桐生さんを思い浮かべる。
 「あなたから彼に別れを告げてもらいたいの。きっと颯人は優しすぎて仕事もあなたもどちらも捨てきれない。あなただって彼の将来を潰したくないでしょう?彼の為にもどうか別れて欲しいの」
 結城さんはまっすぐに私を見据えた。そんな彼女を私もまっすぐに見返した。
 「もし颯人さんが私と別れた方がいいと思ったら私は身を引きます。もう二度と彼の前に現れないと誓います。ただし、私からは絶対に別れは告げません。彼が私を必要とする限り、絶対に彼の側を離れません」
 以前彼と約束をした。桐生さんが私を必要とする限り絶対に離れないと。これだけは何があっても守りたい。
 結城さんはじっと私を見ると飲みかけの紅茶をテーブルに置いた。
 「そう……残念ね。ボランティアをされるくらいの方だから、もっと思慮深い人で颯人の未来を考えてくれるかしらと思ったんだけど……結局はそんなに大した人じゃないのね」
 そう言うと彼女は席を立ち去って行った。
 私は自分の前に残された紅茶をじっと見つめた。
 例え結城さんの事があっても、例え桐生さんのお父さんが私達の事に反対しても、例えこれから何か色々な問題に直面しても、また二人で話し合って試行錯誤していけば良い。一度乗り越えられたのだから、またきっと二人で乗り越えていける ──…