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目を開けると、また夜が来ていた。恒例のように自分の部屋、暖かいベッドの中で目覚める。
昨夜あの後、どうやって戻ったんだろう。そんなことどうだっていい。だって、もうこれで終わり……。きっと終わり。
「…………」
今服に着替えてベッドに座っていた。背筋を伸ばし、じっとその時を待っている。家の中はとっても静か。誰もいない。お母さんも、アーウィンも。家の中を捜さなくても、ここにいないことは分かっていた。誰も動かないから、家の中の空気もぴくりと揺れない。ひどく感覚が鋭くなって、不思議な高揚感があった。
右手に握ったハンカチの感触は、随分昔に消えていた。首には、バラのチョーカーがある。二つとも、私の一部になったみたい。
ボーン。居間の柱時計が午前零時を知らせた。わずかに空気が揺れる。私は迷わず立ち上がった。
物置の扉は開いている。だけど、戻るつもりはない。どんな結末が待っていても、ただ前に進むと決めたから。
この地下道も通い慣れた道。先に続く暗闇に怯える事もない……。うねりながら先へ続いている。道はゆっくりと下っていた。湖の下へと潜っていくのだ。たまに天井からヒヤリとした雫が降ってきて、私の首筋を濡らしていく。
二人の死人が形作る門の側に、壁にもたれる黒い影があった。立ち止まって、その影を見つめる。闇は怖くない。暗さは私の目を妨げなかった。ーーそう。私はしばらく前から、暗闇でモノを認識できるようになっていた。だからその影が誰なのか、すぐに分かったし警戒する事もない。影が身を起こした。
「よう、姉ちゃん」
「……こんばんは、フレディ」
挨拶を返す。走り寄りたかったが、グッと堪えてゆっくり歩み寄った。フレディは私を迎えると、屈託のない笑顔を見せる。
「あ。パジャマじゃない姉ちゃん、初めて見たー」
笑おうとしたが、うまく笑えなかった。ちょっと顔が歪んだだけ。
「無事で良かった」
うんと彼が頷くと、ふと首元に目を止める。
「あ、それ……」
「ありがとう」
私は、首につけたリズのチョーカーに触れた。
「リズのお墓作ってくれたの……フレディでしょ?」
「全部終わったら、ちゃんと埋葬してあげよう。俺、手伝うから」
小さく頷く。
リズは眠っている。今はただ静かに。マシューも逝ってしまった。二人一緒なら、きっと寂しいことはないだろう。だからもう、二人のことは考えない。今は、私がやらなきゃいけないことだけを考えよう。
「私に……できると思う?」
フレディは穏やかな目で見つめると、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「大丈夫。できるよ」
深く頷いた。
嘘でもいい。気休めでもいい。あなたがそう言ってくれるなら、私は行ける。だけど彼が優しすぎて……追いやったはずの弱い私が、すぐ顔を出してしまう。
「ねえ、もしも……」
視界が歪んだ。もう泣かないって決めたのに。
「もしも……私がもっとしっかりしていたら……リズもマシューも助けてあげられたのかな……」
今更言っても仕方のないことだって分かっている。それでもつい言ってしまうのは、フレディのせい。彼は私の手をきゅっと握った。ーー人の温もり。きっと、私が失うもの……。
「姉ちゃんの友達は可哀想だったけど……俺は生きてる。姉ちゃんも生きてる。生きてる人間は止まることを許されない。命ある限り、前へ前へ押し出していく」
フレディの声がゆっくりと静かに、染み込んでくる。この子はこれまで、どれほどの生と死を見てきたのだろう。それを思うと、不意に違う涙が溢れた。
「だったら自分で歩いたほうが、きっといい。ね?」
「……うんっ……」
「ほら!」
彼は私の背中をバシンと叩く。
「泣いてばっかいないの!しゃんとする!俺も一緒に行ってやるから」
大きく頷いて、目を擦った。
「よし!じゃ、手出してみて?」
彼がそう言うと、掌を上に向けて両手を差し出す。
「手?……こう?」
「俺の手に乗っけて」
言われた通り、フレディの手に自分の手を重ねた。彼は目を瞑ると、静かに唱える。
「彼の行く手に茜と山査子の棘があらんことを」
「?……なあに、それ?」
いつか前にも、同じことを言っていたような。
「オマジナイみたいなもの。祓い手たちはこうやって幸運を祈り合うんだ」
「へえ……かのゆくてに?」
「かのゆくてに、あかねと」
彼はゆっくりと言いなおしてくれた。私も目を閉じて、それに続く。
「あかねと」
「さんざしのとげがあらんことを」
「さんざしのとげが、あらんことを」
力が湧いてくる気がした。悪いことなんかもう、起こらせない。私は自分の道を選び取る。
「…………」
死人門がある。この門を幾度通っただろう。でも、ここを通るのもこれが最後……。
「これは死体を使った結界の一種」
フレディが呟いて教えてくれた。
「穢れや冥使は、ここを越えることができないんだ」
そうか。だからこの門を通ると、急に臭いがするんだわ。座り込んで、二つの人型を見つめる。……ここから先は穢れの、闇の世界。
「行こう」
「うん」
闇の世界へ。
死人門を抜けると、途端に臭気が濃くなった。私たちの密やかな足音は、闇に吸い込まれていく。空気が澱んでいて、自然と呼吸が浅くなる。
地下道の終わりに、地上へ向かうハシゴがある。
「姉ちゃん、先にーー」
言いかけてフレディは私を見た。
「……後の方がいいか。スカートだもんね」
そう言って、ハシゴに手をかける。
「上から落っこちてきそうだし」
「…………」
落っこちないもん……。
「フレディ、見て!!」
思わず声を上げた。
「扉が開いてる!」
開かずの扉が、ほんの少し口を開けている。扉に駆け寄った。
「昨日まではぴったり閉じていたのに……」
手が差し込めるほどの隙間ができている。ノブが無くても、これなら開けられそうだ。そう思って伸ばしかけた手を止めた。どうして開いているのだろう?今日に限って。開かずの扉は開かないからこそ、開かずの扉なの……。開いたら……何が待っている?ぞくっと震えが走る。
「なんだか……手招きされているみたい……」
「ん……」
生返事に振り返ると、フレディはしきりに目を擦っていた。
「どうしたの?」
「うん……ちょっと目が……」
「目に何か入った?見せて……」
「あ、ううん。へーき、へーき!もう治った」
「そう?」
ごしごしと強く目を擦って、彼は肩に手をかける。
「呼ばれてるってのは、あながち間違いじゃないと思う……」
生返事だったが、私の話は聞いていたようだ。
「でもそれなら、急いだ方がいいかも!」
肩を戸に押し込むと、開かずの扉がゆっくりと大きくその口を開けた。
ここは小さなお堂のようだ。橋の通路が部屋の上部を横切っている。あれは落とし戸を通った時に渡った道ね。あの時見下ろしていた風景を、今は見上げている。
聖堂は使われなくなって長いようだ。しかし、荒れている感じはしない。ステンドグラスごしの月光が、室内に淡い色彩を投げかけている。堂内に足音が冷たく響く……。
小聖堂の奥についた。そこには地下への階段がぽっかりと口を開けている。聖堂なのに、聖母の像も祭壇もない。ただ地下への階段が存在している。階段を覗き込むと、奥から水の匂いがした。
「降りる?」
私が聞くと、フレディは黙って頷く。
階段を下りた先には、人工の池があった。通路は数段下がって、水の中を通っている。その通路の両脇から、透かしの壁が挟んでいた。
「水の道……」
呟いて気づく。そうか、ここ二つに分かれていたあの地下の池だ。その中央に出てきたんだ。
「禊ぎの地だよ……清めに使われる」
「フレディは難しいこと、たくさん知ってるね」
「……え?何か言った?」
彼は瞬いて私を見た。
「ううん、大したことじゃないからいいの……」
水の道を見つめる。水中にあるので、歩くと嫌でも水に浸かる構造だ。しかも真ん中に段があって、水深は結構深い。今が真冬じゃなくて、本当に良かったと思う。