部屋には、静寂が漂っていた。
時折、灰皿に灰が落ちる微かな音と
ソーレンが煙を吐き出す音だけが響く。
ソーレンは
手に持った煙草の火を
灰皿に押し付けて消した。
それが何本目の煙草かは
もう分からなかった。
「……な?」
重く、低い声が漏れる。
「お前には、胸糞悪い話だったろ?」
そう言って
隣に座るレイチェルに
目を向けたソーレンは
思わず目を見開いた。
レイチェルが
静かに泣いていたからだ。
声も無く
ただぽろぽろと涙が頬を伝い
胸元へと落ちていく。
「……おいおい。勘弁しろよ……」
ソーレンは
ぶっきらぼうに言いながら
片手で頭を掻いた。
「泣いてる女の扱いなんて
俺は知らねぇんだよ⋯⋯」
レイチェルは
涙を拭おうともしないまま
震える声で呟いた。
「⋯⋯私⋯⋯
こんな力を持って悩んでるのって⋯⋯
この世に私だけなんじゃないかって⋯⋯
ずっと、そう思ってた。
でも⋯⋯
私だけじゃないって分かって⋯⋯
良かった。」
涙声に滲む安堵が
かえって苦しそうに響いた。
「辛かったよね⋯⋯
ソーレンさんも⋯⋯」
「⋯⋯⋯⋯。」
ソーレンは黙ったまま
目を伏せる。
「⋯⋯ソーレンさん⋯⋯
時也さん達に逢えて⋯⋯良かったね。
それに、時也さんとアリアさんを
救ってくれて⋯⋯ありがとう⋯⋯。
おかげで、私も今⋯⋯
こうして⋯⋯居場所ができてる。」
「⋯⋯バカが。」
ソーレンは
声を掠れさせながら
力無く笑った。
「俺は、ただ⋯⋯
あいつらと居るしか
選択肢が残されてなかっただけだ。
礼を言われる筋合いはねぇよ。」
「それでも、ありがとう。」
レイチェルの涙は止まらない。
ソーレンは
深く息を吸い、吐き出した。
「⋯⋯泣くんじゃねぇって」
そう言いながら
ソーレンはその大きな手で
レイチェルの頭を乱暴に撫でた。
「俺は、ガキの頃からずっと
殴られたり蹴られたりして
育ったからな⋯⋯。
優しい言葉なんて
かけてやれねぇぞ。」
「⋯⋯うん。」
レイチェルは鼻をすすりながら
ソーレンの手の下で小さく頷いた。
ソーレンの手は大きく、乱暴で
でも⋯⋯
どこか安心する温もりがあった。
「それでも⋯⋯
俺は、今が人生で一番マシだと思ってるよ。」
「うん⋯⋯うん⋯⋯」
レイチェルの涙は止まらなかった。
だけど、その顔は
どこか安堵に満ちていた。
静かな部屋の中
ソーレンは組んだ足に頬杖をつきながら
窓の外に視線を逸らした。
「⋯⋯もう泣くなよ。」
「ソーレンさん⋯⋯優しいね。」
「⋯⋯は?
お前、優しいの意味
もっぺん調べ直した方がいいぞ。」
「ううん⋯⋯貴方は優しい。」
「⋯⋯ちっ。
そうかよ。
変な奴だな⋯⋯お前。」
ソーレンの生き様は
愛情を知らないが故の
〝唯一の正解〟だったんだろうと
レイチェルは感じていた。
名も呼ばれず⋯⋯
どれだけ彼が孤独に生きてきたのか
考えるだけで
また胸が痛む。
彼にとっての〝名前〟とは
野良犬から人間になった
証にも感じられた。
だからこそ
〝ソーレン〟という名前の重さが
痛いほど響いてくる。
「⋯⋯ソーレンさん」
「ん? なんだよ」
「これからは
私も貴方の名前⋯⋯たくさん呼ぶね!」
「⋯⋯っ⋯⋯」
ソーレンは言葉に詰まり
目を逸らした。
「⋯⋯その、さん付け⋯⋯やめろよ。
時也みてぇで腹立つからよ。」
「⋯⋯ふふ。わかったわ。
ソーレン!」
「⋯⋯⋯⋯おう。」
ソーレンは
レイチェルに背を向けたまま
もう一度煙草に火をつける。
その耳まで赤く染まっている。
炎が瞬き
ソーレンの背中越しに
煙がゆらゆらと立ち上り始めた。
「⋯⋯ありがとな。」
その言葉は
煙に紛れるほどに小さく
弱々しい声だった。
けれど、レイチェルには
はっきりと聞こえていた。
彼が漸く〝名前〟を持った意味が
今、少しだけ報われた気がしていた。
リビングに静寂が広がったまま
階段を降りてくる誰かの足音が響いた。
コツ、コツ、コツ⋯⋯
ゆっくりと
だが確かに近付いてくるその音。
リビングの扉が
静かに軋みを立てて開いた。
アリアだった。
「⋯⋯っ!アリアさん!」
レイチェルが驚きに目を見開き
カップをテーブルに置いて
慌てて立ち上がる。
「もう、身体は平気なんですか!?」
アリアは
何も言わずに立ち尽くしていた。
その姿に
ソーレンは呆れたように鼻を鳴らす。
「いや⋯⋯
どう見たって、ありゃまだダメだろ」
ソファに深く腰を預けたまま
投げやりに言う。
アリアの身体は
まだ完全に回復しきってはいなかった。
白く滑らかな肌のそこかしこに
まだ繋がりきっていない肉の
断面が赤い筋となり残っていた。
赤黒く蠢く肉が
じゅくじゅくと息付いているのが
痛々しく見えた。
青龍が言っていた。
「不死とはいえ、痛みはある」
それを思い出し
レイチェルはぎゅっと手を握る。
(それなのに⋯⋯無理してまで⋯⋯)
アリアが
わざわざ身体を引き摺って
ここまで来たという事は
きっと何か理由があるのだろう。
アリアの深紅の瞳が
リビングの中をゆっくりと見渡す。
「もしかして⋯⋯
時也さんを探してるんですか?」
レイチェルの問いに
アリアの視線がぴたりと止まる。
その瞳が
無言でレイチェルを見つめ返した。
それは
まるで心の内を
そのまま伝えるような
真っ直ぐな視線で。
アリアは、ほんの僅かに頷いた。
「時也さんは
私の部屋で休まれてます!
あっ、あの⋯⋯他意はなくて⋯⋯
その⋯⋯ですね。」
仮にも人の夫が
自分の部屋で寝ている事に
何と説明しようと言い淀みながら
レイチェルが慌てて弁解すると
ソーレンが鼻で笑った。
「ぐっちゃぐちゃのお前を見て
ゲロったぐらいのヘタレだからな。
同じ部屋に入れられなかった
って事だよ。」
「ちょっ、言い方⋯⋯っ!」
レイチェルはソーレンを睨んだが
正直、少しだけホッとした。
誤解されるよりは
そっちの方が良かった。
「⋯⋯そうか。」
不意に、低く澄んだ声が響いた。
アリアの声だった。
初めて耳にする彼女の声に
レイチェルは思わず息を呑んだ。
短い言葉だったが
その声は透き通るように美しく
どこか儚げだった。
「⋯⋯あ、あの!」
レイチェルは
慌てて声を張り上げる。
「大変だと思うので
肩を貸しますね!
一緒に行きましょう!」
そう言って
アリアの腕にそっと手を伸ばした
その瞬間。
「あ! 馬鹿! アリアに触んなっ!」
ソーレンの叫びが響くのと同時に
—ジュッ⋯⋯
焼け爛れるような、鈍い音がした。
「⋯⋯きゃっ!」
激しい痛みが掌に走る。
「い、痛っ⋯⋯」
レイチェルは反射的に手を引いた。
その時、不意にアリアの腕に
僅かにぶつかりながら。
見ると
掌の皮膚が赤く爛れていた。
⋯⋯どちゃっ
嫌な音がした。
レイチェルの視線が、床に落ちる。
其処には
アリアの左腕の肘先から下が
転がっていた。
「⋯⋯あ⋯⋯あ⋯」
レイチェルの喉から
声にならない音が漏れる。
震える指先が
空を掻くように震えた。
「ごっ⋯⋯ごめんな⋯⋯さ⋯⋯」
レイチェルは
痛みに顔を顰めながら
震える声で謝ろうとしたが
アリアは
自分の腕が落ちた事など
気にも留めず
ただ無表情のまま立っていた。
「⋯⋯はぁ。」
ソーレンが
溜め息混じりに立ち上がった。
「ほら、退いてな。
俺が連れてくからよ。
お前の部屋にいんだろ?」
震えるレイチェルの肩に
ソーレンがぽんと手を置く。
その手は、さっきとは違い
驚くほど優しかった。
「アリアの再生は
不死鳥の再生だ。
燃えはしねぇが⋯⋯
かなりの熱があるんだよ。」
そう言って
ソーレンは重力操作で
アリアの身体をふわりと浮かせる。
アリアは抵抗もせず
ただ無表情のまま宙に浮かんだ。
「何、ボーッとしてんだ?
お前も来いよ。」
ソーレンが
ぞんざいに声をかける。
「救急箱が二階にあっから
手当てしてやるよ。」
「⋯⋯う、うん。」
レイチェルは
痛む手を押さえながら
ソーレンとアリアの後ろをついて
階段を上がった。
アリアの傷から
微かに立ち上る湯気が
まるで炎の幻のように見えた。
階段を上る毎に
焦げた皮膚の痛みが
じわじわと広がっていく。
けれど
それでもレイチェルは
目を離せなかった。
浮かび上がるアリアの背中。
その白く美しい肌が
傷つき、再生し続ける痛々しさに。
(⋯⋯どうして⋯⋯
こんな姿になってまで⋯⋯)
レイチェルの胸が
強く締め付けられるように痛んだ。
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