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あの日から、私の時間は止まったままだ。
窓の外、どこまでも続く深い蒼の層を透かして、淡い光が差し込む。
ゆらゆらと揺れる海草の隙間から、私は今日も、届くはずのない「上」を見上げている。
そこには、太陽という名の輝きがあった。
10年前のあの夏
悪い人間の罠にハマり、海というゆりかごから放り出された私を救ってくれた何よりも眩しい思い出の象徴。
「ラム様、またあのお話を思い出していらっしゃるのですか?」
横から、お目付け役の熱帯魚がプカリと呆れたように泡を吐いた。
私は答えず、ただ静かに胸元へ手を添える。
ヒレの隙間に隠し持っていたのは、海の世界には存在しない、鈍い光を放つ銀色のボタン。
10年前、激しい嵐が去った後の浜辺。
高波にさらわれ、浅瀬で干からびかけていた私を拾い上げたのはまだ幼さの残る少年だった。
『大丈夫だよ。僕が守ってあげる』
死の恐怖に震えていた私を抱き上げ
干上がりかけた潮だまりへと運んでくれた、あの温かな手のひら。
別れ際、彼は不安げな私の小さな手に、このボタンをぎゅっと握らせて微笑んだ。
『10年後の満月の夜。またここで会おう。……約束だよ、ラムちゃん』
その約束だけを魔法のように信じて、私は18歳になった。
けれど、恋焦がれるだけでは距離は縮まらない。
人魚の私には陸を歩く足はなく、人間たちの世界で生きる術も、知識もない。
けれど、どうしても会いたい。
もう一度だけ、あの優しい瞳に見つめられたい。
「……お父様、ごめんなさい」
私は決意を胸に、父である王が厳しく禁じた「深淵の魔女」の元へと、一気に潜り出した。
そこは光さえも重圧に押し潰される、暗黒の海溝。
どろりと濁った、粘り気のある声が私の鼓膜を不気味に震わせた。
「ふふ……いらっしゃい、可愛い子。こんな地の果てまで来るなんて、人間の男に恋したんだってねぇ」
闇の中から現れた魔女は、私の心を見透かすように笑う。
私は恐怖を抑え込み、必死に声を絞り出した。
「……はい。シエルという人に、どうしても会いに行きたいんです。私を、人間にしてください」
「いいよ、叶えてあげよう」
魔女のあまりにも軽い返事に、私は息を呑んだ。
「本当ですか……!?」
「ああ。でもね、タダじゃないよ。声をもらうなんて古臭い代償は取らないけれど……代わりに、あんたのその足には『呪い』をかけてあげる」
魔女が差し出したのは、暗闇の中で不気味に明滅する、真珠色の薬だった。
「人間になっても、水に濡れればその部分だけ人魚の鱗が現れる。…そして、もしその男と結ばれなければ、あんたは泡になって消えるのさ。二度とこの海へは戻れない。……それでもいいのかい?」
心臓が、早鐘を打つように跳ねた。
シエルと結ばれなければ、私は死ぬ。
愛されなければ、存在そのものが消えてしまう。
けれど、彼に会えないまま
冷たい海底で思い出のボタンを握りしめて一生を終えること。
私にとっては、それこそが何よりも恐ろしい死に思えた。
「……いいです。彼に会えるなら、どんな呪いでも」
私は奪い取るようにして、その薬を一気に煽った。
「──っ!!」
直後、内側から体が焼け付くような、凄まじい激痛が走った。
尾びれが真ん中から裂け、骨が砕けて組み変わる鈍い音が、頭蓋の裏で鳴り響く。
激しい水流に揉まれ、意識が遠のいていく。
私は薄れゆく視界の中で、必死に彼の名を呼んだ。
(シエル、待っていて。今、あなたの住む世界へ行くから……)
次に目を開けたとき、私の頬を叩いたのは、冷たい海水ではなかった。
優しく、どこか乾燥した暖かな潮風。
ザリ、と砂の感触が剥き出しの肌に伝わる。
恐る恐る、自分の体を確かめた。
重い尾びれは消え、そこには二本の、真っ白で細い「足」が伸びていた。
「足がある……。立てる、歩ける……!私、本当に人間になれたんだわ……!!」
生まれたての小鹿のように、プルプルと震える足で立ち上がる。
初めて感じる重力に戸惑いながらも、私は顔を上げた。
その時だった。
遠く、丘の上の街から風に乗って、繊細で美しいピアノの旋律が聞こえてきた。
切なくて、どこか懐かしい。
それでいて情熱的な、胸の奥を強く締め付けるような音色。
間違いない。
この音を、私は10年間、一度も忘れたことはなかった。
「シエル……」
私は流れ着いたボロボロの帆布を体に巻き付け、痛む足で一歩を踏み出した。
たとえ、一雫の水で暴かれてしまう脆い魔法だとしても。
もし彼が私のことを忘れていたら、泡となって消える運命だとしても。
私は、あなたに会いに行く。